何やら書類に不手際があったとかで、リーンハルトを呼びに来た侍従は恐縮しきりだった。そう詫びずともよい、気軽に言ってリーンハルトは執務のために秀峰宮を出て行った。
 あとにはアリステアが残る。王子たちとは別室だった。側で見ていては、今後のためにならない。いまはただ念のために待機している、というのが正しい。
 開け放した窓から、初夏の風に乗り王子たちの声が聞こえてくる。アンドレアスの闊達な声音、レクランの静かな声。勉学の師が傍らにあり、二人の学問を見ているのだろう。師に答える彼らの声を聞いているだけで中々に楽しかった。
「あんな頃が私たちにもあったな……」
 つい、アリステアは微笑む。秀峰宮は王冠を継ぐ王子が起居する離宮。アンドレアスもだからここに暮らしている。
 昔は、アリステアがここにいた。父王の座を継ぐべき王子として。王弟も宮殿に暮らしていたから、従兄のリーンハルトとは生まれる前からの仲、と言っても過言ではない。二つ年上のリーンハルトは、王子誕生を殊の外に喜んだと聞く。まだなにもわからない幼子が、生まれたばかりの王子の顔を見てはきゃっきゃと喜んでいたのだと。懐かしい父の思い出話だった。
 そんなことを思いつつ、そろそろ秀峰宮から下がろうとする。レクランは宮殿に滞在はしない。城と神殿を行き来して通うことになっている。アリステアはダニールの護衛を信じてはいるが、神殿に戻って行き来に問題がないか報告を受けるつもりだった。
「公爵様」
 不意に呼び止められた。神殿に下がる、とはすでにリーンハルトには言ってある。明日になればまた登城するとも。そのアリステアを呼び留めたのは女官だった。
「どうした?」
 秀峰宮を出て、宮殿を横目に歩いていたアリステアだった。物陰から女官に呼び止められることがそもそも尋常ではない。訝しむアリステアを女官はそのまま、と四阿の陰へと導く。
「ご無礼をいたしまして申し訳ありません」
「そう固くなるな。なにかあったか?」
 城には何かとよく訪れるアリステアだった。公爵としての公務であり、王の従弟としての訪問であり。あるいは神官戦士として出陣の挨拶に来ることもある。おかげで顔見知りの女官も数多い。
「恐れながら、公爵様にお願いがございましてご無礼とは存じつつこうしてお呼び留めいたしました」
 緊張している女官だった。こんなところで無礼を働いた、その事実に緊張しているのならばまだわかる。だがアリステアは城で働く者たちには優しい。召使に至るまで、スクレイド公爵に高圧的に振る舞われたなど一度たりとも経験したことがない。
「公爵様にはご多忙と存じますが、どうかもうしばしの間、お城にご滞在願えませんでしょうか」
「ほう?」
「天機芳しからず。――公爵様がおいでの間は、ご機嫌麗しゅうあられますので」
 女官の青白い頬。ここまで言わせてしまったリーンハルトを思う。ぴたりと側について離れない、などというわけではない二人だった。だからこそ、アリステアは平素のリーンハルトを見付けているとは言い切れない。
「申し上げるもはばかられますことながら、妃殿下と少々行き違いがございまして後、陛下はお考え事をなさることも多く。侍従たちともどうかおくつろぎいただきたいものだと額を寄せて悩んでおりますが」
 だがアリステアがそこにいれば、それだけでリーンハルトは笑顔を見せる、女官は言う。王妃のことがなくとも、多忙と言うのならば国で一番多忙なのはリーンハルトだ。
「以前ならば妃殿下が陛下の笑顔をお作りになられたものにございましたが」
 長い、けれど小さな溜息。王の身の周りを司る女官としては悩みの種だろう。それこそ王妃よりも近々とリーンハルトの起居を見ているのだから。
「なるほど。よくわかった」
「公爵様にこのようなお願いを申し上げること、幾重にもお詫び申し上げます。ですが万策尽き果て」
「わかった。気にしなくてよいよ。陛下はまだ執務中かな?」
「先ほど侍従が出てまいりますのを見ましたが」
「ならば従兄上におねだりに行こうかな」
 にこりとアリステアは笑った。城に滞在したい、そう願ってくると言外に彼は言う。見事な笑顔に女官はほっと息をつく。この方が王の側にいる限りラクルーサは安泰だ、心からそう思う。気安く歩み去るアリステアに女官は深々と礼をしていた。
 くつろいだ風でいて、アリステアは内心では深刻だった。他者に、それが側に仕える侍従たちであろうとも、他者に感情を窺わせることをしないリーンハルトを、ここまで女官侍従が気遣っている。それはリーンハルトの心の荒れようを表しているとしか彼には思えない。
「せめて――」
 もう少しくつろいでいただきたいものだと願う。だが、アリステアは思う。原因は、誤解であろうとも自分なのだと。その自分が城に滞在することで、問題はよけいに根が深くなる、そんな気がしないでもない。
 それでも、まずはリーンハルトの荒れようを収めたい。王としての重責を担っている大事な従兄。できることならば、笑顔でいてもらいたい。そのためにならばどんな労でも惜しまないものを。
「陛下にお目にかかれるかな?」
 執務室の手前、侍従たちが集っていた。彼らはここで王の決済が済んだ書類や、王に渡す書類を書いている。こんなところに顔を出す公爵、というのも珍しい。普通の貴族ならばわざわざ取次ぎを走らせてくる。
「なんと、公爵閣下」
 驚いて立ち上がる侍従たち。側に寄ってきた一人を除いては座っていていいと手振りで示す。それもアリステアが城にいるときの日常だった。どことなく嬉しげに侍従たちが仕事を再開するのもまた見慣れた景色。
「先ほど一段落したご様子、と拝察しております。公爵閣下のお見えをお知らせしてまいりましょう」
「頼む」
 従兄弟同士とはいえ、こうしてリーンハルトが執務の間は取次ぎが必要でもあった。厳かに侍従が公爵の訪れを知らせているのをアリステアは聞く。ほどなく侍従が振り返り、アリステアはもうよいよ、と笑顔で侍従を下がらせた。
「どうした? レクランになにかあったか?」
 アンドレアスではなく、レクランの名をまず挙げるリーンハルトにアリステアは苦笑する。違うと首を振りつつリーンハルトの顔色を窺っていた。
「従弟殿。人の顔色を窺うでない。気分のいいものではないぞ」
「そのような意味で窺っていたのではありませんよ、従兄上」
「ならばなんだ」
「おねだりをしてもよいかな、と言い出しかねていました」
「なんと! 従弟殿が私に何をねだってくれるのだろう。とても楽しみだ」
 嬉しげに笑うリーンハルトだった。一瞬前までの蒼黒いような疲労の色がすっきりと抜けている。女官の指摘は確かだ、とアリステアは思う。こうして自分がいる、それだけでリーンハルトの気分はよくなる。
「さぁ、従弟殿。どんなおねだりだ?」
 なんでも言え、笑うリーンハルトにアリステアもくすりと笑う。わざとらしく子供のようにもじもじとして見せるのをまた彼が笑った。
「早く言わねば聞いて差し上げないぞ、従弟殿」
 昔の彼の口癖だった。幼いころ、口ごもったアリステアにいつもリーンハルトはそう言っていた。それを思い出してアリステアも今度は本当に恥ずかしくなる。
「従兄上には敵わないな。――レクランが心配なのですよ、もうしばし、城に滞在してもかまいませんか?」
「……ほう?」
「神殿で待つつもりでしたが、こちらにいても変わらない、と気づきまして。レクランの様子ならば城の方がよくわかりますし」
「従弟殿」
「なんです、従兄上」
「そういう態度を言い訳がましい、というのだぞ?」
「なんと! 従兄上は私を侮辱なさるおつもりですか」
 大仰に驚いて見せたアリステアにリーンハルトが苦笑する。陰のある笑い方だった。口許を引き攣らせるよう笑うリーンハルトなど見たくない。思わず机の前まで歩いて行って、アリステアは彼の口許を指でつつく、子供のころにしていたように。
「従弟殿?」
 触れられたリーンハルトの驚きようと言ったらなかった。昏い蒼の目が煌めくほど丸くなっている。それにアリステアは笑った。
「そんな顔をなさるものではありませんよ」
「だがな、従弟殿の不安が私には手に取るようにわかる」
「私も知らない私の不安ですか?」
「冗談口を叩くでない。――先ほどの王妃のあれを見てはレクランが心配になってもなんの不思議があるものか」
「あぁ……そういうことでしたか。そちらではありませんよ。全然考えていませんでした」
 嘘だろう、とリーンハルトはアリステアを見据える。真っ直ぐと体の裏側まで見通すようなリーンハルトの目。アリステアは微笑んで見つめ返していた。
 真実そのようなことは一切考えていなかった。王妃に憎まれているらしいのは感じている。ただ、テレーザはそれでも子供を傷つけるような女性ではない。それは信じていた。
「……嘘は言っていないな、従弟殿」
「私が従兄上に嘘をついたことがありますか? ないでしょう」
「幼いころにはあった気がするぞ?」
 にやりと笑ったリーンハルトにアリステアは首をすくめる。リーンハルトにも言いたいことはわかっていた。このような重大な件でアリステアが嘘をついたことは一度もない。そればかりは幼いころからそうだった。
「ならば……」
「もう少し従兄上に甘えたくなった、それではいけませんか?」
「それは嘘だな、従弟殿」
「従兄上!」
「……もうしばし、城に滞在してくれるか、私の大事な従弟殿。甘えさせてもらうよ」
 苦笑と共に伸びてきた手。がっしりと握り合い、笑みをかわす。この聡明で生真面目な王を悩ませるすべての物を薙ぎ倒してしまえればいいのに。不意にそんなことを思う自分にアリステアは内心で苦笑していた。
「できるだけ早く執務を片づけよう。夕食を共に。いいか?」
 もちろん、と返答をしつつアリステアは思う。女官たちは安堵することだろう。そのぶん王妃にはまた憎まれる、そう感じていた。




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