王子の起居する秀峰宮に伺候してしばし。ほどなくリーンハルトが姿を現す。その後ろからはアンドレアスの手を引いた王妃が。王子がわずかに顔を顰めているのにアリステアは疑問を覚える。ふと見やればずいぶんときつく手を握られているらしいと気づいた。
「スクレイド公爵アリステアが一子、レクラン。アンドレアス王子殿下にご挨拶申し上げます」
 国王夫妻の間に挟まれた王子に、レクランは綺麗に一礼した。我が子が誇らしくなるほど見事な態度。アリステアは内心でそっと微笑む。
「よくぞまいった。今後ともよく仕えよ」
 儀礼的なやり取りではある。すでに王子はレクランを気に入っている。そのせいか、どことなく顔つきが和らいでいた。
「ソーンヒル子爵はマルサド神の司教からも将来を嘱望されていると聞く。我らがラクルーサのため、励んでほしい」
「お言葉かたじけのうございます、陛下。拙い身ながら、懸命に尽くすことを誓います」
 リーンハルトはこの場でレクランをソーンヒル子爵、と呼んでくれた。一人前の男と扱われ、レクランも少し嬉しそうだ。それにちらりと王妃が不快そうな顔をする。
「……わたくしは賛成いたしかねます」
「王妃!」
「……言葉が過ぎました」
 ふい、と横を向くなど彼女にしては珍しい。アリステアはたぶんはじめて見た、と感じる。戸惑うアンドレアスにレクランが何気なく微笑みかけていた。それにもテレーザは不快の度合いを強めた様子。
「気分が優れませぬ。アンドレアス殿。どうぞお気をつけられますよう」
「母上。なにを仰せになりたいのですか」
「気分が優れぬ、と言っております。下がらせていただいてもよろしゅうございますか、陛下」
「結構だ。下がりたまえ」
 返答を聞くなりテレーザは立ち上がる。そのまま後ろも見ずに立ち去った。扉を抜ける直前、一度だけ振り返った気がする。わずかなものでアリステアにも確信はない。ただ自分に視線が向けられた、そんな気がしただけ。気のせいだろうかとも思う。
 けれど、気のせいではたぶんきっとない。冷ややかな眼差しならば知っている。いずれ裏切るのだとその目に中に見たことならばいくらでもある。だが、あのような憎悪の眼差しははじめてかもしれない。背筋に冷たいものを覚えた。
「レクラン。気に病まないでほしい。母上は本当に御気分が優れないようなのだ」
「とんでもないことにございます。王妃殿下は私に一層の努力を、と励ましてくださったに違いありません」
「……うん。ありがとう」
 母の振る舞いに心を痛めているアンドレアスだった。自分が望んだがために、レクランが嫌な思いをしているのではないだろうか。そんな王子の目にレクランはただ微笑むだけ。それで通じる。
「王子殿下、後ろに控えますのが我が家の騎士ダニールと申すものにございます」
「あぁ、レクランの護衛かな?」
「はい。城への送り迎えはこの者に任せることに致しました。どうぞお見知りおきくださいませ」
 アリステアの一礼に合わせ、壁際に控えていたダニールが深々と礼をする。その態度にもアンドレアスは嬉しそうだった。すっきりとした気持ちのいい騎士、と映ったらしい。それにはアリステアも喜びを覚える。
「……従弟殿。お時間はあるかな」
「もちろんです」
「ならば、しばし付き合え。アンドレアスを頼むぞ、レクラン」
「はい、陛下」
 屈託のないレクランの笑顔にリーンハルトの険しい顔がわずかに和らぐ。アリステアはダニールに目顔でうなずき、彼がこの場に残ることになった。王子たちをきちんと見守ってくれることだろう。
 つかつかとリーンハルトは歩む。平素より足が速い。それが苛立ちの表れだった。アリステアは何を話しかけるでもなくついて行く。いまは黙っている方がよい、と感じていた。
「付き合え」
 そして秀峰宮の室内訓練場につくなり、リーンハルトは壁にかかっていた練習用に刃を潰した剣を投げてくる。珍しい態度だな、と内心で思いつつアリステアは無言で受け取る。
 その途端だった。まだ剣の握りも確かめていない。鋭いリーンハルトの打ち込み。生半の者ならば一撃で倒されていただろう。だが相手はアリステア。軍神マルサドの神官戦士である彼。容易くかわし、体を開きつつ剣を握り直す。
 いったいどれほど打ち合っていたことか。言葉はなく、あるいは剣の音が、足さばきが、言葉だった。真っ直ぐと互いだけを見つめ、吐息を乱すことなく立ち合う。アリステアもいまは真剣だった。ここにはリーンハルト以外の誰もいない。訓練場に入る前、彼はその場にいた侍女に人払いを命じている。
 だから二人きり。遠慮はない。国王にであっても、剣を向けることができる。勝つことも。リーンハルトがいま、それを望んでいる。作為のない剣を、ただ。
「……強くなったな、従弟殿」
 アリステアがようやく三本、取ったところだった。リーンハルトは額に浮かんだ汗を拭っている。アリステアも同様だった。
「従兄上こそ。本当にお強い。どうしたらそんなにお強いのか」
「従弟殿の方が剣は上だと思うのだがな」
「上ならば勝ててますよ、従兄上。結局、従兄上の方が勝ち星が多いでしょう?」
 少しばかり呆れてしまった。アリステアは一切の手を抜いていない。神官戦士である自分が、やはりリーンハルトには勝てない。王として、彼は鍛錬に励む時間を充分には取れないだろうに。
「本当にそう思うか?」
 よほど機嫌が悪いな、とその時点でアリステアは深刻さを増す。剣を交わしていて、その真偽が見抜けないほど悪い目をしていないリーンハルトだ。
「ここには誰もいませんからね、率直に言わせていただきますが。それは私への侮辱と解釈しますよ、従兄上」
「な――」
「私が従兄上相手に手を抜くとでも? ずいぶんと見くびってくださいますね」
「従弟殿……すまない。どうにも、私は――」
 悪戯っぽく言ったつもりが、真剣に詫びられてしまい、アリステアは慌てる。リーンハルトの手からも剣を取り、壁に掛け直せば、彼の溜息。
「お悩みを解決して差し上げることはできませんが、気晴らしならばいくらでも。そうでしょう、従兄上?」
「従弟殿は……ここに、私の側にいてくれるものな」
「そのとおりです。私がお側におりますよ」
 にこりと笑ったアリステアに、ようやくリーンハルトの口許がほころんだ。それにわずかな安堵を覚える。とはいえ、まったく問題は解決していない、それにアリステアも気づいてはいる。あの王妃の態度。
「王妃はいったい何を吹き込まれたのか……。問い質しても、詫びるばかりで話にならない」
「問い質さず、優しくお話になってみたら?」
「話しかけるたびに従弟殿の悪口ばかりだぞ? いい加減に私も苛立つというものだ。こちらが口を開けば気分が悪い、と言って下がってしまう。……もう、どうしたらいいのか、私にはわからない」
 首を振るリーンハルトに、アリステアこそ、どうすることもできなかった。睦まじかった国王夫妻。風聞だろうと、そこに罅を入れてしまったのは自分なのかもしれない。
「従弟殿。顔に出ているぞ? 従弟殿のせいではない。他愛ない風聞に耳を貸す王妃が悪いのだ」
「そうやって妃殿下をお責めになるから」
「責めたくもなる」
 むつりと唇を引き結んだリーンハルトだったが、多少は気分がよくなったらしい。先ほどよりは顔つきが和らいでいた。
「そうだ、あの樫の木を見に行きませんか?」
「うん?」
「ほら、ぶらんこの樫の木ですよ。ここの裏ではありませんか」
 さりげないアリステアの気遣いに、リーンハルトにも笑みが浮かぶ。幼いころの思い出を語り合えば、少しでも気分が明るくなる、そう思ってのことだろう。
「あぁ、いいな。見に行こうか」
 その気持ちこそが嬉しかったリーンハルトはアリステアと連れ立って秀峰宮の裏手へと。さすがに王子が起居する離宮だけあって、裏手と言っても美しく整えられている。その隅の方、樫の木は立っていた。
「やあ、ずいぶんと大きくなったな! 我々も大人になるわけです」
 もっとずっと大きかったような気がする樫の木は、あの日に比べれば小さいような。そんなはずはなく、自分が成長したのだと思えばどこかおかしい。
「見てごらん、従弟殿。あの枝のところだ。従弟殿が縄をかけた跡がいまもまだ残っているよ」
「なんと! 本当だ、残っていますよ、従兄上」
「何度も頑張ってかけていたものなぁ、従弟殿は」
 笑ってリーンハルトは子供のように飛び跳ねた。当時のアリステアの仕種を真似たらしい。顔を顰めつつ、アリステアもまた笑っている。飛び跳ねなくとも、あの枝にはもう手が届く。
「こんなに深い跡になっていたとは思いませんでしたね」
 指先で探れば、くっきりとついた縄の跡。どれほど自分は無茶をしたのだ、と笑えてしまう。それもこれも、リーンハルトと遊びたかったがゆえ。
「従弟殿?」
「いえ、変わっていないな、と思ったのですよ。あのころも、従兄上に楽しんでいただきたかった。いまも、変わらないのだなと思ったら少し、嬉しくて」
「従弟殿はずっとそうして私の傍らにあってくれた」
「これからも、ですよ。いままでだけではありません。この先もずっと私は従兄上のお側におりますとも」
 ようやく柔らかく微笑んだリーンハルト。それを見られるだけで自分は誰より幸福だとアリステアは思う。
 樫の木の傍らで、他者を排し、ずいぶんと長い間二人は話していた。聞かれて困るような話題は一つもない。懐かしい昔話であったり、息子たちのことであったり。他人の耳を嫌ったのは、くつろいで話したかった、ただそれだけ。まさか秀峰宮の一角から、陰に紛れて覗いている人影があるなど、想像もしていなかった。否、声が聞こえる場所にいたのならば、アリステアが気づく。神官戦士の彼の目を誤魔化すことはできない。聞こえもしない遠くから、ただ見ている影だった。
「ありがとう、従弟殿。ずいぶんと気分もよくなった」
「それは何より」
「そろそろ王子たちの様子を見に戻ろうか」
 ぽん、とリーンハルトが気安くアリステアの肩先に触れる。それを見たのだろう人影がすばやく姿を消したなど、二人は知らない。




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