気の進まない仕事が待っていた。騎士の一人にスクレイド邸まで「公爵夫人の手は空いているか」と走らせたアリステアだった。
「……致し方ない」
 空いている、と返って来てしまったからには戻らねばならないだろう。手紙で済ませたかったことだが、知らせないわけにもいかない。
 もっとも、エレクトラに会う理由がないわけでもなかった。最近の王妃テレーザの振る舞いにエレクトラが無関係だとは彼には思えない。何を言ってもはぐらかされるだろうが釘を刺す意味でも面会は必要、と判断したアリステアだった。
 不機嫌な主がスクレイド邸に戻ってきたのに召使たちが戦々恐々としていた。彼らに当たり散らすほど堕ちてはいないアリステアだったが、体中が発する怒気とでも言うようなものに召使は当てられているらしい。
「ご機嫌よう、公爵夫人」
 エレクトラの昼間の居間を訪れれば、侍女たちがずらりと揃っている。手すさびに刺繍でもしていた、と言う体を装っているけれど、とても信じられない彼だった。
「ご機嫌よろしゅう、殿下」
 内心で顔を顰める。エレクトラだけだ、こうして彼を殿下と呼ぶのは。確かにアリステアは殿下と呼びかけられる資格がある。だが他者には決してそうは呼ばせない彼だ。無論、エレクトラにもきつく申し付けてあるにもかかわらず、妻は聞く気がない。
「公爵夫人にお知らせしておくことがあってまかり越した。お時間はよいかな」
「もちろんです、我が君。どうぞおかけくださいませ。――お茶の支度を」
「結構だ」
 侍女を遮り、アリステアは座につく。長居をする気は毛頭ない。エレクトラと顔を合わせているだけで不快の度合いが強くなる。
「レクランのことだが。アンドレアス王子殿下に望まれて城に出仕することとなった」
「……まぁ」
「喜んではおらぬな? 母なれば公子の誉れを喜ぶべきだろう。陛下は畏れ多くも小姓としての出仕には及ばず、と仰せだ。学友として殿下の傍らにあれ、とお申し付けくださった。我が家の誉れであるな?」
 じっと見据えるアリステアに、エレクトラは張り付いた笑みのまま。何を考えているのか、わかったためしがない妻の笑み。アリステアは見据え続ける。つい、とエレクトラの手が動いた。
「どういうつもりだ?」
 無言の示唆に従って、侍女のすべてが退出していた。改めて彼女たちはスクレイド公爵家の侍女、ではなく、エレクトラの侍女なのだと肝に銘ずる。彼女がスクレイド公爵家に嫁すにあたって生家より引き連れてきた、アントラル大公家の侍女たち。アリステアにとっては敵同然、という意味だった。
「侍女の耳などないほうがよろしかろうと存じまして」
「ほう?」
「――レクラン殿が出仕ですか。なんと、まぁ」
 くすりとエレクトラが笑った。それでいてなお張り付く笑み。気味が悪い、何度見てもそう思う。
「レクラン殿はどのように」
「殿下を大変に尊敬申し上げ、できることならばお側にありたいとレクランの方から私に申し出てきた」
「なんと。嘆かわしい……。レクラン殿こそ、あの子供の場所にいるべきですのに」
「公爵夫人!」
「あの女もですわ。わたくしが座るべき座にのうのうと座すあの女こそ恥を知ればよろしいのです」
「妃殿下は淑徳の誉れも高き素晴らしい婦人。そのほうなんぞが成り代われるものか」
「わたくしが劣っていると? シャルマーク王家の血すら引くこのわたくしが?」
「そのほうが?」
 鼻でアリステアは笑う。遥か昔にシャルマーク王家と縁を結んだのはアントラル大公家であり、シャルマークの亡命貴族の娘ではない。エレクトラの顔がすう、と青ざめた。
「よくよく申し付けておく。妃殿下に何を吹き込んだのかは知らぬが――」
「わたくしがあなた様の反逆をお伝えしたとでも? まさか! わたくしの冠を盗んだあの女になぜわたくしが反逆など知らせてやらねばなりませぬのか」
「公爵夫人。言ってよいことと悪いことがある。私は陛下の第一の臣であることを何よりの誉れと思う。そのほうの妄想に付き合うほど暇ではないわ」
「それでも男ですか、殿下。殿方ならば妻を国で最も尊い婦人にしてみせる、くらい仰せられませ」
 つい、とエレクトラの手がアリステアの頬へと伸びた。嫌悪もあらわに逆手で払うアリステアに彼女の表情は変わらない。うっすらと微笑んだままの女。彼女は何を言ったわけでもない、ただその表情にこそアリステアは確証を得た、と感じる。長年の確執、それもまたある意味では夫婦で築いてきた時間ではある。それが忌々しかった。
「そのほうに王妃の冠をかぶる資格などない」
「ありますとも。アントラル大公家の娘にしてアリステア王子殿下の正室たるわたくしより尊いものはおりませぬ」
「そのほうが王妃などになれば国が亡ぶわ。そのときには私自ら討ってくれる。よくよく覚えおけ」
 またも伸びてきた手を握り潰さんばかりにアリステアは掴む。さすがに痛みを覚えたか、エレクトラの表情が歪んだ。それにかすかな愉悦を覚える。小さな勝利、小さすぎる勝利だった。
「公爵夫人」
 手を掴んだままアリステアは立ち上がった。ぐい、と引かれた手にエレクトラの不快げな顔。まるで気にも留めずアリステアは彼女に顔を近づける。
「アンドレアス王子をはじめとしたお子様方、テレーザ妃殿下に何かがあれば、そのほうの策謀と見做す。即座に陛下に進言すると肝に銘ぜよ」
「冤罪ですわね」
「白々しい。まして従兄上に髪の毛一筋でも傷をつけてみろ、その場で貴様を討ってくれる」
 いまの顔をリーンハルトが見れば息を飲んだかもしれない。エレクトラを間近で睨み据えるアリステアはまるで戦場のような顔をしていた。
「あなた様にそんなことができましょうや。玉座を窺う気概もないくせに」
「家裡での鬱憤晴らしならば見逃そう、だがな、公爵夫人。分別は身につけていただきたいものだ。戯言ならば母と二人でぬかすのだな。せいぜい吼えるがいい。従兄上は私がお守りする。貴様らの手など触れさせんわ」
 掴んでいた手を突きのければ、エレクトラが体を崩す。その口許に浮かんだ悔しげな色。一瞬で消えた。まだ何かを言い募ろうとしたエレクトラが姿勢を正す。体面を気にする女であるとアリステアは冷笑していた。
「入れ」
 不快さがさせたことだった。ここは彼女の居間。エレクトラが入室の許可を与えるべき。だが、とアリステアは彼女を見やる。当主が誰なのかを思い出すがいいと言うつもりで。
「ご歓談中ご無礼を致します。王城よりお手紙の使者がお見えの由お館様にお知らせするようレクラン様から申し付かってまいりました」
「ご苦労、すぐ神殿に戻る。馬の用意をせよ」
 は、と一礼し下がったのはレクランにつけたはずのダニールだった。エレクトラはまだ知らないはず、そう思ったけれど、彼女の手の者がどこにいるのか、アリステアにも確信はない。
「レクラン殿の誉れの場に、あなた様はおいでになられますのか」
「無論」
「ならばこの母もまいりましょう」
「結構だ。婦人の身支度は時間がかかるもの。殿下をお待たせする無礼は許されん。では公爵夫人。ご機嫌よう」
 ちらりとも彼女を見ず、アリステアは立ち去る。もう必要なかった。間違いなくエレクトラこそが王妃に何かを吹き込んだ。その何かが、わからない。
 確かに彼女が口にしたよう、アリステアが反逆する、と言ったはずはない。それではエレクトラも公爵夫人として連座だ。彼女の望みである王妃の座は得られない。
「ならば、何を言った……?」
 王妃にいったい何を。王妃があれほどの嫌悪を抱く言葉、それがわからない。足早に邸内を進むアリステアに誰もが近づけなかった。
「お館様!」
 驚いたのだろうダニールだった。厩にまでアリステアがやって来てしまったのは彼の失態。アリステアは無言で首を振る。自分が早すぎただけだ。戸惑うダニールを促し、一刻も早くスクレイド邸を立ち去りたいとばかり馬上の人となった。
「ダニール」
 さすがに王都の、しかもこれほど城に近い高貴な人々の屋敷がある道を疾駆するわけにはいかなかった。悠然と馬を歩かせているようでいて、それとなく足は速い。
「は、お館様。なにか」
「そう畏まるな。話しがしにくい」
 小さく笑えば、ダニールの表情が明るくなる。よほどの緊張を強いていたのだと気づいてすまなく思った。
「お前を寄越したのは、グレンか?」
「はい。レクラン様のお側には自分があるから、と仰って」
「だろうと思った。ならばいいが……今後、城以外では断じてレクランを一人にしてはならぬ。何を言っているか、わかるな?」
 公爵夫人の手の者がレクランに触れることを許さない、アリステアの指示にダニールの顔つきが変わる。厳しい顔をし、けれどふわりとほころぶ。
「ありがとう存じます。これほどの大役を与えていただけるとは」
「損な役目だぞ?」
「とんでもない。我が身に代えても若君はお守りいたします」
「それはならん」
 馬上ですっくと前を向いたままのアリステアの眼差しが、ダニールへと。その深い色合いにダニールは打たれる。強く優しいとは公爵のことだと常々感じていた。ダニールにとってある意味ではマルサド神の化身のように。いま正にアリステアの目に神を見る。
「命を投げ出すような真似は許さんぞ。それは無謀と言う。ただの蛮勇だ。わかるか」
「は――。汗顔の至り」
「そなたは若い。勇気を奮いたいこともあろう。が、その前に一瞬でよい、立ち止まって考えよ、よいな?」
 柔らかなアリステアの口許。豊かな眼差し。ダニールは思う、だからこそ国王陛下がこれほどまでにこの方を恃みとしておられるのだと。
 アリステアはすでに違うことを考えていた。ダニールに言ったことは嘘ではない。けれど彼にはそれだけを考えることなど許されない。
 まして、まだ難題が残っている。レクランに王子から手紙が来た、ということはリーンハルトの気分が多少なりとも立ち直った、ということだろう。彼が王子に手紙を書くよう促した、と見るべきだ。
 先ほどのエレクトラの言葉が蘇る。子息の出仕の挨拶に同席しようか、と言ってのけた彼女。公爵夫妻同席で挨拶をさせるほどレクランは幼いとは言えない。だが、王子殿下はまだ幼い。ならば殿下の下に出仕の挨拶に向かうレクランを迎えるのは国王夫妻、ということになる。そっと吐き出した息は隣のダニールにさえ聞こえなかった。




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