神殿ではレクランが鍛錬に励んでいた。まだほっそりとした少年の体を慮りつつも神官が厳しく剣を仕込んでいる。 通りすがりに見やった形のアリステアだった。が、さすがにグレンは主人に気づく。神官に目礼を送り、小走りにやってきた。 「お館様――」 声をかけるを憚る姿、というのは彼の主人には珍しい。闊達で、磊落な男であるものを。訝しげなグレンにアリステアは片手を上げるに留めた。 「なにか、起きましたか?」 アリステアの自室に戻り、ようやくグレンは息をつく。ほんの少し、主人の気配が和らいでいた。それでもいまだ険しい眼差し。 「――ダニールをお前の隊から外すぞ」 唐突だった。グレンは事実上スクレイド家の騎士団を預かっているが、形の上では一隊の長でしかない。そのグレン直属の隊の若き騎士だった、ダニールは。非常に熱心で、後ろ暗いことなど何もない。まして彼はマルサドの神官に将来を嘱望されている。主人アリステアを敬うこと篤く、彼が神官戦士であるのならば、己もその道を進みたい、といまも鍛錬に励む青年。 「お、お待ちください、お館様。ダニールになんの咎あって」 「ん? あぁ、誤解だぞ」 狼狽するグレンに、ようやくアリステアは平素とは違う自分を自覚する。常ならばある程度の説明を臣下にはするものを。苦笑し、息を深く吸う。 その間にグレンが茶の用意をしていた。城で何かがあったのは、わかっている。だからこその険しい眼差し。主人が何を考えているにしろ、グレンは全面的に従うつもりだった。そのために、その真意を聞かせてもらいたい、よりよく従うために。 「すまんな」 熱い茶が出てきて、アリステアは再び苦笑する。臣下にこんな気遣いをさせるようではまだまだ自分も青い、そんなことを思う。 「昨夜お届けした香草茶に何か不都合がありましたでしょうか」 恐る恐る問うグレンに、アリステアは彼の不安を読む。確かにあの茶を届けてきたのは彼だった。そして今日の自分の態度。恐怖に駆られてもなんの不思議もないことだったと反省する。 「いや、それではない。ダニールのことだがな、むしろレクランのこと、だが」 「若君の?」 「陛下から、王子殿下の学友として出仕するよう、との命があった。平素は神殿に起居し鍛錬に励めばよい、との仰せだ」 「なんと!」 「そこで、だ。城までの行き来にダニールをつけようと思う。問題があるか?」 「ありませぬ。が、護衛ならば私が」 「それをされると私が迷惑をする。お前には色々と動いてもらうからな、頼むぞ。グレン」 「は!」 不安げな表情が一転して明るくなる。ちらりとアリステアは思う。リーンハルトの日常とは、この繰り返しなのだと。自分ですら、臣下の感情を読み切れない。己にかまけてよけいな不安を与えてしまうことがある。リーンハルトは、遥かに数多い臣下とこうして接している。 ――従兄上。なんとしてもお守りいたしますから。 だからこそ、自分がリーンハルトの枷になっていてはならない。 「調査の方だが、何か結果が出たか?」 王妃の件だった。いったい何が王妃をあれほどまでに頑なにしたのか。アリステアに自覚はなく、グレンに調査を命じたもののいまだこれと言った報告はない。今日もだった。グレンの申し訳なさそうな眼差し。 「私には、妃殿下が何かを見聞きした、という事実はないのではないか、と疑えてなりませぬ」 「ほう?」 「陛下とお館様は以前とお変わりなく過ごされておいででしょう。妃殿下が特に疑いを深める切っ掛けがあったようには、とても」 「侍女たちは?」 「そちらも。率直に申し上げてよろしければ――」 「はっきり言ってくれなくては困るぞ?」 言い出しかねていたグレンにアリステアは悪戯っぽく笑ってみせる。グレンが口ごもるのも当然だった。 「その……。妃殿下の侍女たちがアントラル大公家及び、公爵夫人と接触した形跡も、ないのです」 「そう……か」 「正確に申し上げるのならば、公爵夫人とは接しています、妃殿下ご自身が」 茶会にエレクトラを招いたテレーザ。そもそもあれがおかしい、と思うのだが、王妃として、公爵夫人と関係を深めておくのは彼女の義務でもある。そう考えればさほど不自然でもない。 「公爵夫人が妃殿下に何か吹き込んだかな?」 「妃殿下のご性格を思うに、そのようなことで嫌悪を強めるようなお方とはとても思えませぬ」 そのとおりだった。エレクトラが夫の反逆を告げようが、テレーザは自身の夫の心を汲んでスクレイド公に疑いなし、と公言するだろう女性だ。 「まったく。わからんな――随時報告を頼む」 は、と一礼するグレンに手振りで下がるよう示す。これから彼はダニールの下にレクラン付きになった、と告げに行くだろう。己の隊の若き騎士が取り立てられたのが少し、嬉しそうだ。 「さて」 アリステアは長い溜息をつき、渋々と立ちあがる。どうにも気が滅入る。が、事ここに及んでは致し方なかった。 アリステアが向かったのは神殿の長である司教の下。快く面会に応じてくれた礼を述べるアリステアに司教はほんのりと微笑んでいた。とてもマルサド神の神官とは見えない温顔だ。 「なにかありましたかな?」 立派な人だ、と司教に会うたびにアリステアは思う。スクレイド公爵にして国王の寵愛深いアリステア王子殿下を前にしてもこの司教は態度が一切変わらない。他の神官戦士と同じよう扱ってもらえる、それがこの上なくありがたいアリステアだった。 「ご相談申し上げたいことがありまして」 ほうほう、とうなずく司教にどことなくアリステアは父の影を見る。姿形は似てもいなかったけれど、早くに父を失った彼にとってはある意味では親代わりでもあった。 「正直に言って、手詰まりなのですよ」 「アリステア殿が手詰まりと? それはなんと恐ろしい」 「冗談事ではありませんよ、司教様。――妃殿下のお疑いはお耳に達していますか?」 「耳は遠くはありませんので」 にこりと微笑む司教にアリステアはつられたよう口許が緩む。まるで単なる噂話のようで少し心が軽くなる。 「色々と手は尽くしましたが、もう私にはどうにもできないのです」 静かに長く息を吐く。それにアリステアの悩みの深さを聞く司教だった。同時に、この才あふれる公爵ならば疑われてしまうのも自明だと。どれほど本人が陛下に篤い忠誠を誓おうとも。 「我が生まれゆえに疑う、とされてしまったら私にはどうにもできません。どうにもまたそのような風聞が聞こえつつもあります」 「今更父母を変える、というわけにはいきませんでしょうしなぁ」 「そのとおりです。亡き父王と王太后様の子であることは変えようもない。――司教様、私はどうしたらよいのでしょう」 「お答えはすでにあなたの中にあるのでは、アリステア殿」 う、と言葉に詰まった。司教の方から言ってくれれば、そんな思いを見透かされたかのような羞恥。アリステアは覚悟を決めて息を吸う。 「……我が神に、神託を請うてはなりませんでしょうか」 「たとえばどのような?」 「私が決して陛下を裏切ることはないのだと証し立てる手段があれば、その方法を我が神にお尋ねしたいのです」 「なるほど……」 ふむ、と司教が顎先に手を当てる。すぐさま拒絶されなかっただけでアリステアはほっとしていた。同時に、忸怩たるものを覚える。 「このようなこと、本来ならば我が神にお縋りするようなものではありません。人が、人の手で解決すべきこと、それは、理解しているのです」 けれど王の子として生まれ、そして王に仕える身。これは自分の手で、あるいは人の手でどうにか解決がつく問題ではない。 「たとえば、私がスクレイド公爵位を返上する、というのも考えました」 「悪手ですな」 断言された。あまりにもきっぱりと言われてしまって苦笑しか浮かばなかったけれど、安堵してもいた。司教もまた自分と同じ考えであると。 司教もこの優秀な神官戦士がそこまで深刻さを深めていたとは、と内心で嘆いていた。易々と神に縋るものではない。確かにそのとおりではある。けれどここは、そう感じていた。 「司教様のお考え通りでしょう。私が公爵位を返上しようが、生まれはどうにもなりません。いずれ、疑いは免れない」 「おまけに、あなたという重石を失くした大公家がどう出るか、が問題ですな」 「……まったく、そのとおりですよ」 心ならずもスクレイド公爵位を与えられてしまったアリステアだったけれど、結果的にアントラル大公家を押さえる役に立っている。自分の目の届かないところで暗躍されると思えばいまのままの方がまだしもだった。 「妃殿下のお耳に、誰ぞが何やら吹き込んだ、という可能性は?」 「家臣が調べておりますが、いまのところはこれと言って」 「切っ掛けがわかれば、釈明もできようものを……いや、もう手遅れですかな」 「司教様」 顔色を変えたアリステアに司教は驚いて目を瞬く。そして誤解を招いた表現だったと気づいた。けれど司教は思う。この程度の言葉を誤解するような彼ではない、普段ならば。それだけ深刻なのだと。 「手遅れ、というのはここまで来たならばいかに釈明しようとも聞く耳持ってくださらないだろう、ということですよ」 「でしたら――」 「神託の請願を認めましょう。この上は我が神にお縋りするしかありますまい」 ぱっと顔を明るくしたアリステアだった。ここまでどれほど彼は悩み抜いてきたことか。手を尽し、苦闘し。それでもどうにもならないところまで来てはじめて彼は神に縋った。 「あなたには言うまでもないことですが。人と神とのかかわりはこうであるべきです。万策尽きて後、はじめて人は神を頼ってよいのだと私は考えます。剣は折れ、鎧は破れ、なお正しく戦う者にこそマルサド神はお手を差し伸べられるでしょう」 あなたもそうあってください。司教の言葉にアリステアは無言で頭を下げる。そうありたかった。リーンハルトのために、そうありたかった。 |