こうしていると、幼いころのことを思い出す。当時はこれほど大きな寝台ではなかったけれど。一つ寝台にもぐり込んで、眠くなるまでずっと話をしていた。 「懐かしいな……」 小さくリーンハルトが笑う。大人になってこんなことをしている自分、というものがくすぐったくもあるのだろう。アリステアとしては、たとえこんな冗談であったとしても、王が平素よりは早い時間に寝台に入っている、ということの方が重要だった。 「そう言えば従兄上、お覚えですか?」 とはいえ、アリステアにとっても懐かしい。幼いころはなんのしがらみもなく、二人で他愛ない遊びに興じていた。いまとなっては遠い。 「なにをだ?」 「ほら、秀峰宮の裏手に大きな樫の木があったではないですか」 「覚えているぞ」 楽しげに小さな笑みをこぼすリーンハルトに、アリステアもまた微笑む。当時はアリステアの父が玉座にあった。二つ年上の従兄が様々な遊びを教えてくれた。 「ぶらんこを作るのだ、と言って縄を持ち出して」 どこから持ってきたものか、アリステアが小さな体で何重にも巻いた縄を重そうに持ってよろめくのをリーンハルトは昨日のことのよう、覚えている。 「懸命に枝に縄をかけて」 「ちょうどよかったんですよ、あの枝が。少し低いところにありましたからね」 「それでも従弟殿には少々高すぎた」 「従兄上が手伝ってくれましたから」 背もリーンハルトの方が高かった。飛び上がり、それでも枝に縄がかからなくてくじけそうになるのをリーンハルトが手伝ってくれた。 「やっと出来て、従弟殿が乗った途端に縄が切れたのだったな。わんわんと泣いて、閉口したよ」 くすくすとリーンハルトが笑う。この重責を担う従兄にとっても、いまだに楽しい思い出であったこと、それがアリステアには嬉しかった。 「痛かったからではないのですよ? 痛くなかった、とは言いませんがね。従兄上に乗っていただくより先に壊れてしまったのが、悔しくて悔しくて」 地面に体を打ちつけた痛みなどよりそちらのほうがずっと痛かった。目の前で困り顔の従兄が手を差し伸べ、傷を払ってくれているのが少し、嬉しかった。 「あのあと母上にそれは叱られたのだよ、知らなかっただろう?」 「そう、だったんですか?」 「王子殿下に怪我を負わせるとは何事ですか、と言ってな。とんでもない見幕だったさ」 喉の奥でリーンハルトが笑う。母に叱られたことまで含めて、懐かしい思い出。色褪せることのない幼少時。 「叔母上がお元気でいらしたら、といまだに思いますよ」 「美しい人だったが、剛毅な人でもあったな」 「楚々とした夫人でありながら、いざというときは腰の据わらない男を跳ね飛ばすような、これぞラクルーサ婦人、でしたからね」 もしあの叔母が健在であったのならば。妻と母がのさばるのを許しはしなかっただろうとアリステアは思う。リーンハルトのためではなく、このラクルーサという国のために。内心での小さな溜息を見透かしたか、リーンハルトの眼差しがいっそう和らぐ。いまはそんなことは遠くに置こう、とでもいうように。 「あの樫の木を、レクランに教えてやりますかね」 きっとまだ元気に立っていることだろう。自分よりよほど頭のいい息子のことだ、上手にぶらんこを作るかもしれない。 「……やめた方がよろしかろうな、いまは」 「従兄上?」 「あまり言いたくはないが、それで万が一アンドレアスが怪我でもして見ろ。とんでもない騒ぎになるのが目に見えているぞ、いまは」 いまは、を強調して言うリーンハルトをアリステアは大きく笑う。王妃の問題が片づかないうちは、レクランにも何かにつけて殿下を敬う態度を崩さないよう、申し付けておく必要がある、脳裏に刻みつつ、リーンハルトにそんなことを言わせてしまったことが残念だった。だからこそ朗らかな上にも朗らかに笑ってみせる。 「ではもう少し安全な遊びを教えておきますか」 「父としては王子だからといってあまり甘やかすのはよくない、と思うのだがね。従弟殿もそうだっただろう?」 「父は武闘派でしたからね。だから呆気なく逝ってしまった」 王たるものは自らの手で民を守らねばならないときがある。その日のために肉体は鍛えておかねばならない、そう考える人だった。そして、自らの考え通り、ハイドリンに出陣して、逝ってしまった。 「伯父上は、素晴らしい方だったよ、従弟殿」 「どんなに素晴らしい男でも、王は死んではならないのだ、と身に染みましたよ、私は。おかげで我々が苦労をする」 どれほど睦まじい従兄弟同士、と言ってまわろうとも、誰もがそれを信じない。スクレイド公爵はいずれ玉座を窺う、そう信じて疑わない。 「正直に言って、王冠が欲しいのならばとっくにやっていますとも」 「だろうな。従弟殿にはそれができる上に、資格も充分、資質も充分だ」 「資質の方は疑わしいですね。だから私は従兄上に王冠を押しつけた」 ちらりとアリステアが笑った。これも本心なのだが、こちらの方に限ってはこの従兄ですらもが信じてくれない。 「従弟殿。私の大事な従弟殿。この国は、我々が守ってきたのだ。従弟殿の支えがあってこそ、私は玉座にあれる」 「従兄上は私などが――」 「違うよ、従弟殿。そなたが支えてくれる、それがどれほどありがたいか。私だけがそれを知っているのだよ」 優しいリーンハルトの笑みにアリステアは言葉を失う。何を言うよりただ笑み一つ。何よりの信頼と、感謝。 「これからもよろしく頼むよ」 「お任せあれ」 莞爾と微笑むアリステアの心を、どうして誰もが疑うのか。王妃でさえもが疑いはじめているのか。切ないより、不快に思いはじめているリーンハルトだった。 多忙なリーンハルトだった。アリステアも同様だろうけれど、先に目覚めたのはリーンハルトの方。ふと気づく、すでに朝食時なのか、隣室に人の気配があった。 「従弟殿。朝のようだよ」 ぽん、と胸を叩けば驚いて飛び起きたアリステアだった。熟睡していた自分が信じられないのだろう、普段の顔とは打って変わった子供のような顔をしていた。それに朝から笑い、気分のいいリーンハルトは軽い上着を羽織り、先に寝台を出た。 「お目覚めのご挨拶を申し上げます」 珍しいな、とリーンハルトは感じて、それに内心で顔を顰めた。すでに隣室には侍女がいる。それも王妃付きの侍女が。以前ならば、それは日常だった。朝の一時を国王夫妻は共に過ごす。短いながら、夫婦の時間だった。最近はそれが絶えていたものを。朝食を運んでくるのが侍従になったことにリーンハルトは若干の不快さを覚えていた。話し合いを拒む王妃の思いを感じて。急に気が変わったのかと思えば振り回されているようで、それも不快になる。 「ご機嫌ようお目覚め、お慶び申し上げます」 朝食を並べはじめた侍女たちの後ろから、王妃が姿を現した。強張りながらも笑顔を作っている。何が起こったのか、と思ってしまうことそのものがおかしい。こうして過ごしてきたはずなのに。 「あぁ、おはよう。王妃もご機嫌よいかな」 「ありがとう存じます」 会話が、続かない。前はどうやって話していたのだろう。なにを話していたのだろう。戸惑うリーンハルトが不意に振り返る。 「申し訳ない、従兄上」 さすがに国王の面前に、しかも他者の気配がしているというのに軽装で出てくるわけにはいかなかったアリステアだった。その上、王を待たせるわけにもいかない。慌てて袖口を留めながらアリステアは寝室から出てくる。 「……スクレイド公」 きりりと、音がしたかとリーンハルトは王妃を振り向く。きつく唇を引き結んだ王妃が無言で彼を見つめる。 「ご機嫌麗しゅう。妃殿下に朝のご挨拶を」 アリステアもまた、王妃の固く引き攣った顔に、戸惑っている様子。彼にしては口ごもりがちな挨拶だった。 「麗しゅうございませぬ」 もしも彼女が誇りを失っていたならば。椅子を蹴立ててそのまま立ち去ったことだろう。悠然と王妃は立ち上がり、侍女を引き連れ部屋を出る。 「……従兄上」 「聞くな、私にもわからん」 「その、妃殿下は――」 「従弟殿。申し訳ないが一人にしてくれないか。そなたに当たりたくない」 「八つ当たりくらいなさればよろしいのに。ですがお優しい従兄上のお言葉です。退散しますよ」 侍女まで去り、途端にがらんとしてしまった室内。じっとリーンハルトはうつむいていた。どんな慰めも励ましも、いまの彼は拒むだろう。 「従弟殿――」 「後ほどご機嫌がよろしくなった頃合を見計らって登城しますよ。しばしお暇をいただけますか?」 再び謝罪を口にしようとしたリーンハルトの機先を制し、アリステアは微笑む。それにリーンハルトはつられたよう笑みを零した。 いまは他人の目がない室内。アリステアは気軽に手を上げ去って行く。見送るリーンハルトの顔は見なかった。いまは見られたくないだろうと察して。 そのあたりにいた侍従を捉まえ、しばしの間の立ち入りを禁ずる。王は一人でご朝食を取られる、とだけ言って。それでおおよそのことを察したのだろう侍従だった。 そこまでして、アリステアはマルサド神殿に向かう。率直に言って、不愉快だった。王妃がどうして自分をそこまで疑うのか。あの嫌悪の表情。 「……夢に見そうだ」 悪意にならば慣れている、と思っていた。母と妻と、アントラル大公家の人々と。そのようなものならば見慣れていると思っていた。 「従兄上」 もしもあの嫌悪がリーンハルトにまで向けられる日が来たならば。考えただけでぞっとする。従兄だけは、守らねばならない、アリステアは強く感じた。 「そのためには――」 好みとは言い難い方法をも視野に入れる必要があるかもしれない。いつになく険しい主人の顔を、待機していた彼の臣下が窺う。単に機嫌が悪い、とは誰も思わなかった。 「お館様、何か不手際がありましたでしょうか」 ふと声をかけられて、アリステアは目を瞬く。ついで苦笑した。いつの間にか臣下が合流していることにも気づいていなかった己を思う。なんでもないよ、と微笑んだ主人に臣下が顔を見合わせていた。 |