「蜂蜜か――」 それに何を想起したのか、リーンハルトがくつろいで微笑む。侍従と雖も他者の目があるところでは彼は彼自身ではいられない。 「従兄上?」 ましてアリステアの態度だった。二人きりでいれば砕けて話す彼も、侍従がいれば傍目にもわかるほどへりくだる。そういうものだ、と思いはするが、時にはわずらわしい。 「いや、アンドレアスが好きなのだよ」 「幼いうちは甘いものが好きなものでは?」 「レクランもか?」 「そうですね、そんな話を耳にしましたよ」 高位の貴族とあって、父子とはいえ毎日顔を見て暮らしているわけでもない。アリステアはなおのことだった。彼は王都にいることが多いし、レクランは領地に暮らしている。それをいままで不都合とは感じていなかったが、本格的に身近に置くべきか、と考えはじめてもいた。 「レクランのことだが」 ふとリーンハルトが顔を上げる。いままで蜂蜜を眺めるともなく見ていた彼だった。彼もまた、国王として常に王子を傍らに置く、というわけにはいかない。稀な機会に父子の時間を持ち、そのときに蜂蜜の話題が出たのだろう。穏やかな良い顔をしていた。 「アンドレアスが、できれば側に置きたい、と言っているのだ」 どうしよう、と少しばかり困った顔をした王にアリステアはついつい笑みを浮かべる。こんなとき臣下ならばありがたく平伏せんばかりにして受けるだろうに。リーンハルトはそうは思えないらしい。 「なにがおかしい?」 「お命じになればよろしかろうに、と思っていましたよ」 「レクランの意志はどうなる? 彼は彼で色々と思うところもあるだろう」 「たかだか十二歳の子供ですよ」 「従弟殿が十二歳のときにはすでに立派な神官候補だったと思うがな」 ふん、と鼻を鳴らすリーンハルトにアリステアは大らかに笑った。不作法が、心地よい。 「従兄上から言っていただけて、よかった」 「うん?」 「実はレクランから相談を受けていまして。殿下のお側に小姓として上がれないか、と」 目を瞬くリーンハルトだった。二重の驚きがそこにはある。レクランもまた、アンドレアスの側にいたいと望んでくれた喜び。公爵家の後嗣が小姓となってもかまわないとまで申し出てくれた喜び。そこまで思い切らせた我が子に対する驚きが最も強かったかもしれない。 「いや、だが……レクランはマルサド神の司教にも望まれているとか。ならば――」 「先ほど我が家の者がそう申しておりましたが、従兄上。お忘れですか? レクランは迷っている、とも言っていた由。それはつまり、殿下のお側に上がりたい、ということでもありますよ」 「それをしてはレクランの将来が」 「普通は王子殿下のお側に上がる方が未来は拓けている、と考えるものでしょう」 「レクランはどちらだ?」 「さて。未来云々よりただただ殿下のお側にお仕えしたい、と望んでいるようですよ」 「従弟殿のように?」 「そう、私のように」 にこりと笑ったアリステアにリーンハルトはおっとりと微笑む。親子して、自分たちに仕えてくれると彼らは言う。王と臣下なればそのようなもの。だがそこには真情がある。何より嬉しい彼らの心が。 「いや、小姓には及ばない」 だからこそ、リーンハルトはレクランの未来を考えたいと思う。アリステアの愛し子ならばこそ。だがアリステアは顔を顰めた。 「率直に申し上げて、従兄上。私はレクランを母親の手の届くところに置きたくないのですよ」 「それは、そういうこと、か?」 「そういうこと、ですね。いまのレクランは父とも母とも一定の距離を置いています。どちらかと言えば私寄りでしょうか。ですが今後、どんな切っ掛けで母親の思想に染まるかわからない」 珍しいほど厳しい顔をしたアリステアだった。いかに王とはいえ、他者の家中のこと。スクレイド公爵家内々の話では聞き及びようがなかった。 「従兄上にとって、公爵夫人はどんな女です?」 「……答えにくい質問をするな。公爵夫人は、公爵夫人だな。強いて言えば従弟殿の妻か」 「でしょう? 先日、妃殿下のお招きに応じたことがだから、おかしいのですよ。あの女は公式の場以外で妃殿下を重んじたことなどただの一度もない女ですよ」 冷え冷えとした口調にリーンハルトは内心で息を飲む。公爵夫妻が睦まじいなど聞いたためしはなかったけれど、ここまで冷え切っているとは。 「従弟殿――」 「私のことならばいいのです。所詮、母が妻として連れてきた女です。それからして、歯に衣着せずに言うならば、嵌められた、というものでしょうな」 肩をすくめたアリステアにリーンハルトは何を言うこともできない。最近では多少の行き違いがあるものの、王妃とはそれなりにうまくやってきた彼だった。 「従兄上は、我が母や公爵夫人をどう考えておいでです? あれはアントラル大公家出身、ということになっていますが、本をただせばシャルマークの亡命貴族ですよ」 「そう、だったのか?」 「えぇ。そもそもアントラル大公家自体がシャルマーク系ですから。シャルマークで異変があってより亡命してきた故郷の者どもに手を差し伸べてもなんの不思議もない」 そうしてシャルマークの貴族であった者がアントラル大公家に入ったのだ、とアリステアは言う。そこから大公家の娘として、アリステアの父に嫁したのが自分の母だと。 「その母が、同じ家中から我が妻に、と連れてきた女があれです。さて、従兄上、シャルマーク系貴族にとって何があっても手にしたいものとは何でしょう?」 話題が生臭いことを考慮したか、アリステアの口調は軽い。昔からこの従弟はそうだ、とリーンハルトの口許がそっと緩んだ。質問の方は少しも見当がつかなかったが。 「権力、ですよ」 「どういう意味だ?」 「我らがラクルーサにも貴族はいるのですよ? そこに亡命貴族が入り込む隙間などありはしません。ならばどうするか。王の下に娘を送り込む。実家の貴族を重用させる。これはある程度まで成功しました」 だがアリステアの父は早逝した。そして弟であったリーンハルトの父が立つ。そこにアントラル大公家の手は伸びていなかった。 「ならばどうします? すでに私というシャルマーク系の血を引く息子がいた」 「従弟殿」 「従兄上だから言えるのですよ。他人が聞いたら私は紛れもない反逆罪だ」 リーンハルトへの、それは信頼だった。母方の親族たちが何を画策しようとも、断じて自分は裏切らない、その表明をこんな形でできるのは。 「もっともこの息子はどうにもならない不出来な息子で、父の逝去と同時に神殿入りしてしまった。致し方ない、さっさと娶らせて子を儲けさせなくては。そしてできたのがレクランですよ」 妻に対する愛情などはじめからなかった、アリステアは言い切る。政略結婚など、そのようなものでもある。が、共に時間を過ごすうち、穏やかな愛情が生まれることも多いというのに。 「レクランは賢い子で、幼いうちからこの父と母を見つめてきました。自分なりに考えもある様子です。だからこそ、母の手の届くところに置きたくはない」 レクランの意志ではなくとも、周囲がお膳立てを整えてしまうことがある。アリステアの婚姻のように。 「殿下がレクランをお望みならばこんなにかたじけないことはありません。レクランを助けると思って、城に置いてやってはいただけませんか」 リーンハルトは従弟の新しい一面を見たと思った。欠片の愛情もない婚姻から生まれた子であろうとも、我が子として慈しみ、その将来を慮る、父としてのアリステアを。 「わかった。だが小姓としての出仕には及ばん」 「ですから、従兄上」 「レクランはマルサド神の司教が是非、と言っているのだろう? ならばその才能を眠らせてしまうにはあまりに惜しいではないか。神殿にありて鍛錬に励みながら学友として城に通う、大変だとは思うがそれでどうだろう」 どうと言われてアリステアに言葉がなかった。これほどの好意、厚遇。レクランが目を丸くする姿が見えるかのよう。 「とはいえ、従弟殿の懸念をないがしろにしてよいことはないからな。レクランの行き来に誰ぞつけた方がよいかもしれない」 すぐさま検討に入ってしまうリーンハルトだった。こんなところに王の資質が出る、とアリステアは目を細めて従兄を見ている。権威だけではない、実質的な施政の才能。自分にはないものだ、と彼は思う。 「近衛をつけてもいいが――」 「それより我が家の騎士をつけましょう。公爵夫人の指図、と言われて近衛騎士が戸惑わずにいられるとは思えません。私が選んだものならば、そのあたりはよく汲んでくれることでしょうから」 アリステアの言葉の裏側から漏れてきたものにリーンハルトは内心で目を見張る。子息が夫人に無理に連れ去られる懸念まで彼はしているのかと。 「では早速にも登城してくれ。アンドレアスが喜ぶよ」 これ以上の生臭さを嫌ったかのようなリーンハルトの笑みにアステアは救われる。息子の身の安全より、そちらの方を嬉しく感じる父だ、ちらりとそんなことを思った。 「では――」 立ち上がろうとするアリステアをリーンハルトは呼び留める。もうすっかりと夜も更けた。何かにつけて休息を、と言っている自分があまりにも長い間話し込んでしまったのをアリステアは唐突に思い出したのだろう。 「騎士の選定には時間がかかるか?」 「いえ。すでにこれ、と思う者がおりますし」 「ならばもうしばし」 「従兄上――」 「いっそ泊って行かれればよい。なに、幼いころはそうしていたではないか。どうだ、従弟殿。久しぶりに一緒に眠ろう」 屈託なく言われてしまった。アリステアはわずかに驚き、王の稚気についには笑いだす。言われてみればそのとおり、大人の男としては気にすべきだろうが、従兄弟同士の冗談、ということにする。 「侍従たちが見たら何を言いますことか」 「従弟殿が女性であったならば、色々言うだろうがね」 「たまにはそのようなものをお召しになって息抜きをなさいませ、従兄上」 また説教か、言わんばかりに顔を顰めるリーンハルトにアリステアは笑った。 |