夜も更けて、二人は元の部屋に戻って歓談をしていた。和やかで、たとえここに誰かがやってきたとしても雑談としか思わないだろう。
 けれど二人の手元には数多の書類があった。あちらを見やり、こちらを引き寄せ。楽しげに話をしながら決して二人の目は書類から離れない。
「南はどうなのか、聞いているか?」
 リーンハルトの問いはいつもこうだった。国王として、よほどのことがなければ彼は王都から離れられない。その彼に代わり、アリステアは様々な文物を語る。
「雨が少なかったようですから。少し作物の出来に不安があるようです」
「そうか……輸入が必要になるかな?」
「いまのところは。考えておいても悪くはないでしょう」
 なるほど、とリーンハルトはうなずいている。シャルマークに何やら異変が起こり、魔族異形の類が現れるようになって以来、ミルテシアとも関係が悪化しつつある。元より仲良く手を携えて暮らしてきた国ではない。
 とはいえ、国の上層が不穏だ、というだけのことであって、庶民はいまのところ問題なく暮らしている。両国を分ける大河の交通も盛んであったし、商人の輸出入も活気がある。
「そう言えば、ミルテシアの北のほうでも作物の出来が悪い、と聞きましたな」
「ほう?」
 誰から、と問うような眼差しにアリステアは微笑む。リーンハルトの顔が険しくなっている。執務に励むな、と言った側から自分がこれでは先が思いやられた。
「そんな顔をするな、従弟殿。いずれ私が処理すべき問題だ。従弟殿がいてくれた方が仕事が早い」
「それはそうでしょうが……」
「いいから、言いたまえよ。従弟殿」
 にこりと微笑んだリーンハルトにはいつも敵わない。子供のころからそうだった。時に厳しく、時に優しく。誰よりも力強く導いてくれた二つ年上の従兄にアリステアはとても勝てない。
「巡礼ですよ。お忘れですか、従兄上。私は神官なんですよ」
「時々忘れるな」
「酷いことを仰せになる。こんなに真面目な神官ですのに」
 渋面を作ったアリステアをリーンハルトが笑った。大らかで、屈託なく。同じ執務ではあれ、こうして従弟が傍らにある、というだけでどれほど気分がよいのかが察せられるような笑みだった。
「ミルテシアからの巡礼でした。我がラクルーサ王都の司教座は立派なものですからね。アントラル神殿を見ずには帰れない、と大喜びでしたよ」
「そうか。それは……私に直接かかわりがあることではないが、嬉しいものだ」
「なにを仰せになっています? 従兄上の治世がよいからこそ、神殿が立派なのですよ。政治が荒れていては神殿も荒れます」
 断言するアリステアにリーンハルトの目が和む。関係がないと思っていた。それが本心だった。が、アリステアに一つまた教えられた、そんな気がする。
「それにしてもアントラル神殿を見ずには帰れない? それは巡礼と言うのか?」
「庶民にとっては巡礼も観光も同じですよ」
「マルサド神の信徒なのにか?」
「我々とて武張ったことばかり考えているわけではありませんよ」
 肩をすくめるさりげなさ、無造作さ。そんな従弟を見ているだけで心が和む。常に人目にさらされているからこそ、リーンハルトにとってのアリステアは救いだった。
「そうそう――」
 こんなことで従兄が楽しんでくれるのならば、と気を入れてアリステアが語ろうとしたとき、扉が叩かれる。入室の求めに王が返答をすればしずしずと開かれた。さては王妃か、とアリステアは期待したが。
「遅くにご無礼を致します」
「グレンか。レクランに何かあったか?」
 さすがに驚く。自分の側近が主を求めて夜半に訪れるのは珍しいことではない。が、国王の部屋までやってくるとなればただ事ではない。顔色を変えたアリステアに侍従と共にやってきたグレンは目顔で異変ではない、と語っていた。
「いいえ。ですが、レクラン様ならば司教様より本格的に神殿で学ぶおつもりはないか、とお尋ねあったようです」
「ほう?」
「優しげなお子でいらっしゃいますが、我が君のお子、さすがの剣の腕、と司教様からお褒めを賜りました。勉学もお好きですし」
「レクランはどう言っている?」
「お父上様にお許しをいただいてから、と仰せです。が、お迷いになっておいでのよう、お見受けいたしました」
 なるほど、アリステアは納得をする。レクランにとって司教の言葉は何より嬉しいものであっただろう。だが彼にはすでに希望がある。どちらを取るのだろうか、我が子ながら楽しみだった。
「レクランはよいな。先日も城にやってきていただろう? 立ち居振る舞いにさすが従弟殿、と感じた」
「恐れ入ります。右も左もわからぬとは申しませんが、お褒めを賜りますとは汗顔の至り」
 そっと視線を伏せたアリステアの態度に侍従は感じ入ったらしい。色々と言われている人ではあるが、こうして非公式の場にあっても王に対する敬意は失わない人なのだと。
「陛下には大変なご無礼、ご寛恕賜りますよう」
 グレンこそ、顔色がよくなかった。侍従が主に対して好感を持ったのは横で感じている。そのぶん己の無礼が際立った。陛下の御前でたとえ主人とはいえ、話し込むなど。額に汗まで浮かべたグレンにリーンハルトは悠然と微笑む。
「気にすることはない。レクランの話は私も楽しく聞いた」
 そう仰せはあったが、グレンはまだ赤くなっている。アリステアはふと訝しくなる。スクレイド公爵家の騎士団を実質的に束ねている彼らしくはなかった。
「従弟殿に用事か? 従弟殿、下がった方がよければ気にせずそうしてよいよ」
「従兄上に隠すことなどさしてありはしませぬが……。グレン、何があった?」
 じわりと浮いてきた額の汗にグレンはまだ気づいていないらしい。真っ直ぐな気性のままで、リーンハルトはつい笑みを浮かべそうになる。それをしては気にするか、と思って平静を保った。再度アリステアに促され。グレンはようやく言葉を作る。
「申しつけられていたものが入手できましたので、一刻も早く、と思いまして」
「あれか! 早かったな」
「我が君の御為に」
 にこりと微笑んだグレンの多少の不作法さは主従の近さ。それをリーンハルトは羨ましく思う。だが、と思い直した。自分にはここまで近しい臣下はいない。けれど従弟がいる。
「手間をかけたな。よくやってくれた」
 感謝と共にグレンが差し出したものを受け取るアリステアだった。さほど大きなものではない。嵩よりも軽いものにリーンハルトは見える。
「これを、従兄上に。お疲れのたまっている従兄上ですから」
「ほう?」
「香草茶なのですが、スクレイドの民がよく飲むものなのです。さっぱりとして香りがよいのですが、なにぶん庶民が口にするもの、領民の中に陛下のお口に入るに相応しい茶を作りあげたものがおらぬか、と探させておりました」
 アリステアの手にある容器にリーンハルトは眼差しを移す。茶葉が入っているとは思えない、それ自体が素晴らしい逸品とも言い得る器だった。
「早速、淹れて差し上げてくれるかな?」
 そう言って、アリステアは従兄ではなく侍従に容器を差し出す。それにリーンハルトが嫌な顔をした。
「堅苦しいことをなさるものではないぞ、従弟殿。ここで淹れればよい」
「そうはまいりません」
「従弟殿!」
 声を高くしたリーンハルトに、けれどアリステアは真っ直ぐな眼差しを。侍従が器を受け取ったものの困っていた。
「従兄上はご身分をもう少しお考えにならなくては」
「仰々しいことをするものではない、と言っているのだ。まして従弟殿が持ってきてくれたものだぞ」
「お心ありがたく。ですが従兄上はこのラクルーサにあり、万乗のお方。お身をおいといくださいませんと」
「いまこうして従弟殿が持ってきてくれたのにか」
「陛下の信頼篤い我が身を誇らしく思います。が、従兄上。周囲の者のことをお考えなさいませ。誰の手をどのように経て届いたものかわからない物を陛下のお口に入れるわけにはまいりません」
 だからこそ侍従に渡す、とアリステアは言う。侍従に渡せばしかるべき者が淹れ、毒見を済ませたのちに再びここに運ばれることになる。スクレイド公爵の言に侍従が感激していた。高位の貴族ほど、自分を疑うのか、と嫌な顔をするというのに。
「まして従兄上は私への信頼を周囲にお示しになろうとされます」
「当然だ」
「そこで、万が一のことではありますが、我が名を騙った者から届けられたものがあったらいかがなさいますか」
「な――」
「ないと、言い切れませんでしょう? お仕えする者どもはそれをどれほど案じていることか。アリステアへのご信頼はかたじけのう。ですが、従兄上ほど大切な方はこの世においでではありません。お身の上お大切にあそばしませ」
 す、と頭を下げたスクレイド公の男振りを侍従は一生忘れないのではないかと思った。これほど深く強く国王を案じている人間は他にはいない。風聞が何を語ろうとも、この方だけは決して裏切ることはないと。
「茶を所望する。淹れてきてもらえるかな」
 アリステアには何も言わなかった。代わりに穏やかに侍従に命ずる国王の英姿。たかが茶を命じただけ。それでも侍従はそれを英姿、と感じる。侍従とともに下がって行ったグレンに、彼は興奮気味に二人の姿を語り続けた。
 そのせいなのかどうか。茶を持ってきたのは別の侍従だった。毒見をした、とはっきりわかる冷め具合の茶に、リーンハルトは何も言わない。一口飲んで、嬉しそうに微笑むだけ。
「これはよいな。気分がすっきりとする」
 そうスクレイド公に笑顔を見せる国王だった、とこの侍従も楽しげに同僚に語ったと言う。この晩のことは彼らの間で語り草になったらしい。
 そんなこととは露知らない二人だった。香草の茶とあって、少々飲みにくいと感じたのか、茶には蜂蜜が添えられている。どちらも使わなかったが。二人ともさほど甘いものを好まなかった。
 リーンハルトの意は違う。せっかくのアリステアの心尽くし、蜂蜜で味を変えてしまうのがただ惜しかった。




モドル   ススム   トップへ