レクランは三日ほど王宮に滞在し、王子の下を辞した。まだいてほしい、と渋る王子をレクランは穏やかに説得したらしい。いずれ必ず参ります、と。
 アリステアはそれを漏れ聞き、安堵している。名目もない人間が王子の傍らにあり続けるのは王子のためによくない。レクランはそれを理解しているがゆえに父の言葉に従ったのだろう。
 そのレクランをアリステアは王都のスクレイド邸に戻さなかった。息子のほうは何を言ったわけでもないのにその理由を飲み込んだらしい。
「出来がよい子というのはありがたいような……」
 不安なような。アリステアは小さく呟く。が、その口許には笑みがあった。レクランはいま、マルサド神殿にいる。神学を学ぶ、という理由で訪れた公子を神殿では歓迎してくれたとのこと。彼にはマルサド神の信徒でもあるグレンをつけた。これで子息のことを考えなくていいアリステアだった。神殿とグレンとに彼は守られている。
「あの分では――」
 たとえ母がスクレイド邸に戻るようにと申しつけたとしても神官の用事だの鍛錬だのと言い訳を作って行かないだろう。それでいい、とアリステアは考えている。
 庶民の親子ならば実の母を疑うなど、と言うのだろうか。アリステアにはそれが言えない。彼自身、実の母を疑い続けている身だ。かつて王妃であり、現在は王太后の称号で呼ばれる母。エレクトラと共謀し、アリステアを、あるいはレクランを玉座につけようと必死の女。長い溜息が部屋にこもる。家中の問題だった。リーンハルトには決して、否、王にこそ、知られたい話ではない。知っていたとしても。
 それにしても、いまだ不穏だった。アリステアが城に留まって早十日。王妃の姿をまったく見ない。引きこもったまま出てこないのではなく、避けられている。城には数多の侍女、女官、侍従に召使。大勢の人間がいて、アリステアは常に誰かに見られている。
 高位の貴族であり、王子として生まれた身だ、それを訝しく思ったことも不快に感じたこともない。だが、いまは少々面倒だと思ってはいた。誰かが必ず王妃に注進するおかげで、完全に王妃には避けられてしまっている。
「釈明をしたいものだが」
 とはいえ、いったい何をどう詫びればいいものか。謝罪を求められるのならばそれはそれで構わない。相手は王妃で、リーンハルトの大切な伴侶だ。頭を下げるくらいどうと言うことはない。問題は、なにに怒りを感じているのかがわからないことだった。
「あの王妃が――」
 スクレイド公爵が反逆する、と本気で思ったのか。ずっとその疑念を持っていたのか。否、とアリステアは感じる。あの優しい笑みの影でそんなことを考えていたとは思いがたい。
 これはただの感覚の問題ではなかった。アリステアはマルサド神の高い位階を持つ神官だった。常日頃から相手の嘘を見抜くために神の力を借りる、などしているわけはない。ただ、どことなくわかるものだった。初見の相手に騙されたならばともかく、リーンハルトが王妃を娶った日からずっと騙し続けてきたなど、あり得ない。そればかりは神官の誇りにかけて断言する。
「ならば――」
 王妃の怒りの理由が、いまだ不明だった。あれほどの取り乱しよう、確たる証拠の一つや二つ、掴んでいるはずと思って調査を命じたものの、王妃が誰かに何かを聞いた、という話すら上がってこない。証拠と思った何かがあるのならばいかようにも釈明が適う。
「なにしろ私はやっていない」
 小さくアリステアは苦笑した。誰が何をどう言おうとも、この忠誠はすべてリーンハルトに捧げている。だからそもそも証拠などあるはずがない。あればそれはこの自分を、同時にリーンハルトを陥れるための作られた証拠だ。
「せめてそれを掴めればな」
 そこから何かをたどれようものを。いまのままでは袋小路だった。長い溜息ばかりをつきつつ書類を片づけ、アリステアは身なりを整える。そろそろ女官が呼びに来るだろう。案の定、衣服を整えたころ、女官がやってきた。
「陛下がお呼びです」
「いま、参ります」
 滞在するようになってこれももう慣れたやり取りだった。女官が呼びに来たときにはアリステアはすでに席を立てる姿になっている。王を待たせるなどあってはならない、とでも言うように。それににこりと女官が微笑んで案内に立った。
「公爵様がおいでになってから、みなが少し安堵するようになりました」
 女官とはいえ、彼女たちもまた爵位を持つ生まれだった。いまはこうして王宮に仕えているが、自邸に戻れば彼女たちこそが家来を召し使う身だ。王に仕える女官ともなれば、伯爵家の出身者なども多い。
「さようかな?」
 さほど城の雰囲気が変わった、とも思っていないアリステアだった。むしろ王妃のことがあり、少々の煩わしさを感じないでもないくらいだ。だが女官は首を振る。
 それにはたとアリステアは気づく。この女官たちは、王に、王のみに仕えている。無論、高位の女官たちだ、直接に厨房の仕事をしたり洗濯をしたりなどは決してしない。王の身辺を快適に整えることこそが彼女たちの務め。王の食事の多寡や顔色、彼女たちが一番知っている。時によっては彼女たちが侍医に王の体調を知らせることもあるのだから。
「陛下は執務に熱心すぎます。それはそれで素晴らしいことでしょうけれど、陛下はお一人にしてお一人にあらず。お身を大切にしていただかなければ」
 嘆かわしいと言わんばかりの女官だった。それにアリステアはつい、微笑みを浮かべた。執務を投げ出す王など論外ではあるけれど、女官に仕事のし過ぎと嘆かれる王とはいいものではないかと。もっとも、それでリーンハルトが体調を崩すことがあってはならない、と思うのだからアリステアもまた女官と同じなのかもしれない。
「公爵様がいらしてから、陛下は夕食のお時間をお心にかけるようになられました」
「私でもお役に立てているとは嬉しいね」
「公爵様をお待たせしたくない、とお考えのようです。大切な従弟殿、とわたくしたちの前でも仰せになりますもの」
 ころころと笑う女官にアリステアは肩をすくめそうになる。さすがに城の中だ、遠慮した。内心ではしていたけれど。あまりに羞恥が勝る言葉を聞いた、そんな気がした。
「料理長が色々と召し上がっていただきたい、と嘆願をいたしておりますけれど、陛下におかれましてはいまは公爵様と穏やかに食事をなさる方をお好みのご様子。どうぞ公爵様、陛下の御為にお心を尽くしてくださいませ」
「もちろん。お任せあれ」
 見上げるほどに大きな男の子供のように純な笑み。女官の唇もほっとほころぶ。城の中でも色々と取り沙汰されている公爵ではある。けれど国王が信頼している。信頼をよいことに王に取り入ることもない。王に仕える女官たちはスクレイド公爵に信頼を寄せていた。
「従兄上、遅くなってしまった」
 女官は扉の前で引き返す。ここからは国王のくつろぎの時間、と心得ているらしい。アリステアは闊達に扉を開け、何気なく室内を見回す。
「いや、遅くはない。私こそ遅くなっただろう? 空腹なのではないか」
 悪戯っぽいリーンハルトの声に精彩がない。またか、とアリステアは内心で眉を顰める。王の私的な居間だというのに書類の方が追いかけてきたのだろう、幾葉かの紙がまだ彼の手にあった。
「陛下はご存じないでしょうが、このような状態を下々では『背中と腹がくっつく』と申すのですよ」
 にやりと笑い、アリステアはリーンハルトを見つめる。その眼差しにか、口ぶりにか、笑って彼は書類を手から離した。
「忙しくてな」
「女官が嘆いていましたよ」
「もっときちんと執務に励まなくてはならないと――」
「逆です、従兄上」
 長い溜息は誰も見ていないせい。たとえ女官だろうが侍女だろうが、他人が見ている前ではさすがに無礼が過ぎる。
 だが、こうして二人でいるとき、リーンハルトはアリステアが臣下の顔をするのを嫌う。紛れもない臣下だろう、と言ったことがあったけれど、誰も見ていないのならば従兄弟でいろ、と言われた。それには笑ってしまったアリステアだった。
「逆?」
「えぇ。女官は従兄上が仕事熱心すぎる、と嘆いていましたよ」
「……それは、嘆くようなものか?」
「女官としては嘆きたくもなるでしょう。机に齧りついてばかりでろくに食事もしない王など……。遊興に励めとは言いませんがもう少しお体に気をつけなくては」
「そうは言われてもな」
 苦笑するリーンハルトの目許に影がある。王妃との間は解決を見ていないのだ、と察しがついた。リーンハルトがそれを口にするより先、女官が隣室に支度が整った、と呼びに来る。
「やぁ、うまそうだな」
 子供のように笑って見せるアリステアにどれほど救われているか。隣室にも人はいない。侍女たちが食事の用意だけ整えてくれた。葡萄酒の瓶まで置かれたままだ。
「そう言えば従兄上、料理長がもっと召し上がっていただきたいと嘆いているそうですよ」
 葡萄酒を注いでやれば嬉しそうに受けるアリステアがいる。同じように注ぎ返してくる不作法さ。誰も見ていないとは気楽なものだリーンハルトは笑みを浮かべる。
「そちらも嘆かせているのか、私は。いったいどんな?」
「原因はこれでしょうな」
 ちらりとアリステアが皿を示した。そこに乗っているのはとても国王が口にするとは思いがたいような食事。丹念に作られてはいるが、断じて豪華ではない。
「ミルテシアの国王はこんな庶民の煮込みに毛が生えたようなものを召し上がりはしないでしょうに」
「ならば私はラクルーサ王でよかったな」
「従兄上」
「好きなのだよ、煮込みが」
 すぐに食べられて、手軽だからとは言い難い。作る方としては時間がかかっている、と言いたいだろうが、食べる方は流し込めるところがありがたい。それを聞けば料理長が嘆きのあまりに自害しそうだったが。
「手早いからでしょう、従兄上。それもこれも仕事のし過ぎ、ですよ」
 わかったわかった、とうるさそうにするリーンハルトだった。気分を害していないのは見ればわかる。アリステアはそのあたりの勘所を外したことはない。
 その中で少し、思うことはあった。うるさがられようとも、以前だったらこの役目は王妃のものだった。彼女の言葉をリーンハルトは容れていたはずなのに、いまは。




モドル   ススム   トップへ