王城に用意されたスクレイド公爵の居室は華美とは程遠かった。まるでマルサド神殿の部屋のような落ち着きと簡素な美しさ。アリステアに指示した覚えはなかった。ずいぶん昔、居室を用意した、とリーンハルトに言われて訪ね来てみればすでにこのような部屋が。間違いなく彼の指示だった。
 何度来てもアリステアにはそれが微笑ましく、嬉しい。貴族にとって城に居室がある、とはそれだけで権勢を誇るに足る事実を彼はただ嬉しい、とだけ言う。スクレイド公爵にして王子の称号を持つアリステアには誇る必要がないから、では断じてない。飾る気持ちを持ちあわせない彼と、リーンハルトが理解してくれている、それは証しだった。
 神殿にいるときと同じよう、その居室でアリステアは執務に励む。一人きりで書類に目を通し、指示を書き込み、あるいは更なる調査を命ずる。
 そうしつつも考え事をしていた。すでに手の者を調査に赴かせた。ハイドリンに出陣していたのはたかだか一月余り。その短期間でここまで情勢が変わっているとは、想像もしていなかった。
 否、そのような兆候は何もなかった。ハイドリンにいる間にもアリステアは王都アントラルの出来事を細大漏らさず報告するよう、命じていた。それであるというのに、なにもなかった。
 王妃があれほど自分を警戒するような何か、は起こっていなかったはず。まして、とアリステアは顔を顰める。
「あれは、いったい……」
 そもそも王妃の、あれは社交辞令であった。たまには公爵夫人の顔が見たい、などと言うのは。どれほど不仲であろうとも、典礼の際には公爵夫妻とて揃って出席をする。公爵は国王と、夫人は王妃と一時を過ごすのは慣例ともなっている。
 そして彼女たちが親しい、とは寡聞にしてアリステアは知らない。エレクトラからして、自分が座るべき座に勝手に座っている女、としか思っていないのだ、王妃を。
「だからこそ」
 おかしかった。エレクトラが王妃に同情を寄せるなど、いったい何があったと言うのか。王妃の振る舞いからしておかしかったが、エレクトラのそれは輪をかけておかしい。
 しかも、社交辞令にわざわざ応じて王都にやってくるなど、それがまずおかしい。何くれとなく言い訳でも拵えてエレクトラは拒絶する、と思っていたものを。
「なにが」
 あったと言うのか。何もなかった、と情報のすべてが語ったとしても、何かはあった。だからこそ、あの二人が近づいた、否、エレクトラが王妃に近づいたのかもしれない。
「わからん」
 むつりと唇を引き結び、最後の書類を片づける。遠からず手の者が報告を持ってくるだろうが、ぞわぞわと背筋が落ち着かない。
 何よりリーンハルトが気にかかる。国王の婚姻など、政略結婚以外の何物でもないが、それでも王妃テレーザと国王リーンハルトは睦まじかった。多くの子を儲け、膝元に小さな子供たちをまとわりつかせ、微笑みをかわす夫婦の姿をアリステアも何度も見ている。
「妃殿下に、誰が、何を聞かせた……?」
 疑われるなど、今にはじまったことではない。が、リーンハルトが信じてくれている。そして王妃は夫たる国王の意に従って、アリステアを信じてくれていた。突然の変心の理由はいったい何か。考えてもわかることではないが、そのぶん焦燥感は募る。
「お戻りでしたか、父上」
 夕食の時間までまだあった。リーンハルトの夕食がいつになるかはわからないが。その間、剣の鍛錬にでも行こうかと立ちあがった時、レクランが戻る。
「殿下が別の学問だ、とのことで、しばしお暇を頂戴しました」
 つまり帝王学の時間なので臣下は遠慮しろ、ということだろう。逆の立場として、アリステアにも経験があった。当時は父王の跡を襲うはずのアリステアと、その従兄であるリーンハルトだった。
「そうか。殿下はご機嫌麗しくあられたか?」
 あのあと、母君のことで不安を覚えはしなかっただろうか。いまだ幼い王子をアリステアは案ずる。それにレクランがにこりと微笑む。
「大丈夫です。色々と、お考えはあるご様子でしたが」
「あれには、正直に言って私も驚いたが」
「僕もです」
 少なくとも王子の前で取り乱すような女性ではなかった、テレーザは。ましてあの場には臣下の子供であるレクランまでいたのだ。わからないことばかりでアリステアは小さく首を振る。
「父上、助言をいただけませんでしょうか」
 控えめな息子の言葉にアリステアは微笑んで肯う。まだ執務机から立ち上がったままであった彼はそのまま居間へと進む。ゆったりとくつろいで話すといい、態度で示す父にレクランも微笑み返した。
「私にできることならば。どうした?」
「殿下のことなのです。いえ、僕のこと、でしょうか」
「うん?」
「その……できることならば、殿下のお側近くにお仕えしたいのです」
 ほんのりと赤くなった頬に熱気を見た。王子アンドレアスはレクランを気に入っている様子。レクランもまたそうであると言うのならば、父としても臣下としても嬉しい。
「できなくはない。お前は厭うことはないだろうが、小姓として出仕する、という手がある」
「厭いません」
 即座の答えにアリステアは莞爾とした。レクランは父の副称号を名乗っている、れっきとした子爵だ。いずれ公爵位を継ぐ身として、子爵であれど高位の貴族として遇されている。そのレクランが小姓として王子の傍らにあるのを厭わない、とまで言う。確かに若き貴族が王族の側に小姓として出仕することはままある。だがレクランほどの身分でそれをすることは滅多にない。
「もう一つ、問題がある」
「父上のことですね?」
「お前のことでもあるがね。我々は、否が応でも警戒され、風聞の的にされる。お前がどれほどの忠誠を抱こうとも、風聞は消えない。そういうものだと心せよ」
「はい」
「それでも殿下のお側にお仕えしたいと言うのか」
「――殿下が、仰ったのです。陛下と父上のようでありたいと。ずっとご自分の側にいてほしいと。僕も、お仕えしたい。――遥か遠い未来、アンドレアス様が王冠を得たその日、一の臣下としてアンドレアス様の御前に膝をつき、忠誠を誓う。野心と言うならば、それが僕の野心です」
 訥々と語る息子にアリステアは目を細めていた。愛らしい野心もあったものだと思う。素晴らしい野心だとも思う。何より、それを自分とリーンハルトのこと、として息子の口から、王子の言葉として語られたのが面映ゆい。
「色々と人は言うよ、レクラン」
「かまいません。殿下が僕を知ってくださっている。それで充分です」
「……そうか」
 レクランの前で同じことを口にしたことがあっただろうか。いまのは父の口真似だろうか。アリステアはそうは思わなかった。真っ直ぐとした息子の目。行く末を決めた若き男の目だとも思う。
「すぐさま、と言うわけにはいかぬが、出仕できるよう取り計らってみよう」
「ありがとうございます!」
 ぱっと明るくなる顔に未来を見た気がした。息子に、そして遠い先、このラクルーサを統治するアンドレアスに、少しでも平和になったラクルーサを渡したい。リーンハルトの思いと改めて重なった。
「ただな、レクラン。狎れ合ってはならないよ。まだ我々が幼かった頃、私は従兄上をお名前で呼んでいた。王太子殿下になられた日から、一度たりとも御名を口にしたことはない」
「はい――」
「たとえば二人きりであるときには、私とて砕けた口をきかせていただくことはある。わかるか、レクラン。二人きりのときだけだ。召使の目すらない、誰一人見ていないときにだけ、そうすることが許される」
「見ていない、とき、だけ――」
 高位の貴族として生まれ育ったレクランだった。それがどれほど難しいことなのか、よくよく知っている。いつどんな場所にでも召使たちはいる。それが彼らの仕事なのだから。
「もしも殿下がそれを許してくださったとしても、お前は人目というものを気にしなくてはならない」
「はい、気をつけます」
「いまだ幼い身では難しいことだろうが、それが殿下をお守りすることにもなる。気をつけよ」
 背筋を伸ばし、きりりとした返答。レクランはアンドレアス王子の臣下になるだろう。誰より篤い忠誠を捧げるだろう。いま、それを確信した。
「話は変わるが、レクラン。何やら、何かが聞こえる、というような話を聞いたが」
 ならば尋ねておきたかった。レクランのためであり、王子のためである。むしろ、リーンハルトのためかもしれない。そう思う自分をアリステアは内心で苦笑する。
「えぇ……なにかが、聞こえるような、そんな気がするのです。気のせいかとも、思ったのですが……」
 首をかしげるレクランの目をアリステアは見ていた。よからぬものであるのならば、どれほど彼が望んでいても王子の側に置くことは断じてできない。だがレクランの目は澄んでいた。
「たとえば、どのようなものだ?」
「はっきりとは。何かが聞こえる、と言うようなものではなく、呼び声のような、違うような。父上のお側にあるとはっきり聞こえる気がすることもあります。それでも言葉としては聞こえず」
「ふむ……」
「あと、殿下のお側でも、同じことを感じました。いえ……聞こえると言うより、殿下のお側にあるときには、この方をお守りするのは自分だ、とでも言うような……、不思議な感覚です」
 確かに不思議なものだった。アリステアはレクランの額に指を伸ばしかけ、引き戻す。
「我が神にお伺いを立ててみるか、レクラン」
 本人の意志をまず聞いてからだった。神に縋るのはそのあとだろう。我が子のこととなると自分でも心が曇るらしい。はじめて見つけた気がして、小さく笑う。父のそんな表情にレクランもくつろいで笑みを返した。
「いいえ。いずれわかる時が来る、そんな気がするのです。その時を待ちたいと思います。よろしいでしょうか」
「かまわんよ。相談があれば、いつでも持ってくるといい」
「ありがとうございます。――お時間があるようでしたら」
「学問でも見ようか?」
 王子の招きを得てすっかりと忙しくなってしまった父子の時間だった。レクランは父の楽しげな言葉ににこりと笑う。
「マルサド神の教義を教えてください」
 いまなにかが訪れた、そんな気がした。聞こえたわけではない、感じたわけでもない。だがアリステアは何かが起こっている確信を持っていた。




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