息子に背を向けたまま佇むリーンハルトの姿。アリステアは内心で小さく溜息をつく。王妃たちは去って行ったけれど、王子がいまだ緊張のただ中にあるのはわかっていた。 「従兄上。いまのは従兄上に非がありましょう」 あれほど激昂する必要がどこにあった。背中に語りかけてもリーンハルトは答えない。 「いえ、非と言うならば私にあるのですが――」 途端だった。振り返ったリーンハルトの厳しい眼差し。蒼の昏い目が射抜くよう。わかっていたアリステアは莞爾と微笑む。毒気を抜かれたリーンハルトだった。 「何はともあれ、妃殿下にお言葉を。さぁ、お早く」 ぽん、と肩を叩いた気安い仕種。どこぞで何某かが見ていれば何を言われることか。ひやりとしたものの、アリステアにとって何より大切なのはリーンハルトだった。 「王子殿下の前で、ご両親の諍いなど見せるものではありませんよ、従兄上」 悪戯っぽいアリステアの言い分を笑ったのはレクランだった。思わず漏れてしまったのだろう笑い声にアンドレアスが緊張を解く。 「なにか言いたいことがあるのかね、レクラン殿」 「ございませんとも、父上」 「ほう?」 片眉を上げ、けれど唇だけで笑うアリステアにレクランもまた笑い返す。正しい言葉ではあろうけれど、それをこの父が口にする、というのがおかしかった。 リーンハルトはそれを背中で聞いている。アリステアの言葉など、多くを尽されるまでもない。理解している。それでもいまはまだ怒りが強い。再び従兄上、ただ一言促されてはそっと溜息を。 「……わかった」 ぼそりとした言いように、リーンハルトの心うちを思う。いったい何がそれほど気に障ったのか。アリステアにも見当がつかなかった。 「アンドレアス。すまなかったな」 去りがてに、リーンハルトは王子の頭に手を乗せて小さく微笑む。それにアンドレアスがぽっと顔を輝かせた。 「いいえ! 驚きましたけれど、それだけです。父上でもあんなお声を出されるのですね」 くすりと笑った王子の無垢な声にリーンハルトは苦笑し、片手を上げて歩んで行った。その不承不承とした背中にアリステアもまた小さく笑う。 「さて、殿下――」 そろそろ学問の時間ではないのか。問おうとしたとき、見上げてくる王子の眼差し。レクランにちらりと視線を向ければ、彼にもわからないらしい。が、質問があるようですよ、と眼差しが語る。 「その……スクレイド公……」 もじもじとした王子だった。その腕にレクランがそっと触れてはたしなめる。おや、とアリステアは首をかしげていた。二人がここまで親しくなっていたとは想像していなかった。 「はい、何でしょう。殿下」 放り投げられたままの木剣を気軽に拾い上げ、侍従たちにアリステアは渡してやっていた。公爵位にある男のすることとはとても思えない。じっとアンドレアスはそれを見ている。一度だけ、レクランを見た。安心させるような彼の微笑みに力づけられる。 「公爵は、ずっと父上の味方でいてくれますか」 幼いがゆえの真っ直ぐな問い。アリステアはある意味では意表を突かれた。こんな幼い王子にまで、何事かが聞こえているのかと。思わず顔を顰めてしまって、慌てて取り繕う。 「公爵――」 「失礼を。殿下のお耳にまで風聞が達しているとは、と嘆かわしく感じていたところです」 「私に直接言った人がいるわけではないです」 ごそり、と体を揺らすアンドレアスとまたもたしなめるレクラン。恥ずかしそうに笑い、王子はそれでもレクランの存在に安堵を得ているらしい。 「それでも殿下のお耳に届くようなところで噂話をするなど言語道断。――とはいえ、聞こえてしまったものは致し方ありますまい」 王子が不安を覚えるのは当然だった。スクレイド公爵と言えばラクルーサ王国内で最も強壮を誇る騎士団を持つ貴族。ましてアリステアは王子の称号すら持つ。 「我が身の忠誠は、ひとえにただお一人、陛下のもの。リーンハルト陛下こそ我が王。たとえ何があろうとも、この身は陛下お一人に捧げております」 力強く胸を叩くアリステアにアンドレアスは息をつく。けれどいまだ不安の強い顔をしていた。 「殿下。ご下問があればどうぞ率直に。公爵はいかようなご質問にもお答えくださいます」 息子にここまで言われてしまってはアリステアは言葉を濁せない。同時にそこはかとなく嬉しくもある。かつての自分たちを見る思いだった。どうか今後ともに二人がこうして歩んでいけるように、そう願う。 「うん、レクラン。――私の学問が進んでいないがゆえの愚かな問いかもしれないけれど、公爵。公爵は、マルサド神の神官でしょう?」 「はい、神官戦士の位階を頂戴しております」 「でしたら公爵は、マルサド神のご下命と陛下の命令、どちらを優先なさるのでしょう」 素晴らしい問いだった。学問が進んでいないなどとんでもない。この質問をリーンハルトに聞かせてやればどれほど彼は喜ぶことだろうか。ふ、とアリステアの唇に笑みが浮かぶ。 「殿下、マルサド神は軍神でいらっしゃいます。ご存じですね」 「はい、知っています」 「軍神マルサドは、正しい戦いにのみ、ご加護を下されます。正しい戦いとはどのようなものか、おわかりですか。――正しい戦いはただ一つ。弱者を守るための戦いのみを言います」 「弱い人を……。民を、と言うことですか」 「そうですね、ほとんどの場合はそうでしょう。ですから、殿下。我が神が万が一にも陛下の不利益になるような御命令を下すことはあり得ません。なぜか、おわかりですね?」 「父上は、王として弱き民を守ろうとなさっているから!」 「そのとおりです。仮に、神の名を借りて陛下に反逆を企むものがいたとしたら、それはとんでもない不心得者、と言うことになりましょう。陛下御自ら討つ必要もない。必ずや神罰が下ります」 「陛下は神々に守られている、そういうことなのですね、父上」 「そのとおりだ。そして我が剣を以て従兄上をお守りする。この剣は従兄上のためだけにあるものだ」 にこりと微笑んだスクレイド公アリステアにアンドレアスもまたほころぶよう笑った。幼いころのリーンハルトに似ているな、と微笑ましい。その表情がふと曇る。 「公爵、どうかずっと父上のお側にいてください。母上は、ご機嫌を悪くなさっていたけれど、でも」 「ご心配なく、殿下。申し上げましたでしょう? この身は陛下お一人のものです」 請け合うアリステアにアンドレアスは微笑んでうなずき、そして傍らのレクランを見る。どうか自分の側にいてくれと言うように。レクランは黙って微笑んでいた。 「まぁ、殿下。こんなところにおわしましたか。学問のお時間でございましょうに」 驚いた侍女の声にはっと王子が背を伸ばす。慌てているのだろうその表情の変わり具合が愛らしかった。 「レクラン、一緒に!」 「はい、殿下。お供いたします」 よかった、と微笑む王子にレクランの表情も緩んでいる。先に駆け出した王子の背中をわずかに見送り、そしてレクランは素早く父に語りかける。 「――母上が、心配です」 「わかった。早く行け、殿下をお待たせしてはならん」 「はい」 ほっと駆けて行く息子の背中にアリステアは苦笑する。母が心配、とは言っていなかった、彼は。母が何をするかが不安、と言っていた。父母の相克を見慣れた息子としては、先ほどの場面がいかにも不自然、と感じたのだろう。 「よくない物を見せすぎたかな?」 ふむ、と考え込んでしまう。もっとも、さほどレクランも見ては、いないはずだった。アリステアが自邸に戻らない、それだけだ。その理由もいつしかレクランは飲み込んでいたらしい。不意にアリステアが振り返る。 「……従兄上。いかにもお早うございますな」 「そう厭味たらしく言うものではない」 「あまりにもお早いお戻りですので」 本当に詫びてきたのか、眼差しで問うアリステアからリーンハルトは視線をそらす。不器用な男だとは思っていたが、妻に詫びられるか、とそっくり返るような横暴な男ではないはずだ。ならば、いったい。 「――公爵夫人が側に、な。どうにも入り込めなくて、そのまま戻った」 「従兄上。言いたくはないが、あの女の妄言に妃殿下が巻き込まれたらどうなさる」 「そこまで言うか」 「申しますとも。あの女とその一族は決して諦めていない。いまも殿下とそのお話をしていたところです」 「……なに?」 「殿下のお耳にまで達しているらしいのですよ」 長々とした溜息にリーンハルトが飛んでくる。一息にアリステアの下まで駆け寄り、そのまま無言で肩を掴んだ。 「従兄上?」 「――従弟殿の思いは、誰より私が知っている。なぜ、誰もが従弟殿を疑う」 「我が生まれが生まれですからな。疑われて当然でしょう」 「だが、従弟殿は」 「幼いころからずっと言い続けていましたね、従兄上。従兄上の方が遥かに遥かに王として相応しいと」 「従弟殿の父王が玉座にある間にも言っていたな」 「でしょう? あのころから私の思いは一つも変わっていない。従兄上こそが、従兄上お一人が我が王です」 微笑むアリステアのその心を疑われたくなかった。王家の血を受けている公爵というだけで、彼は疑われる。なにより誰より助けになってくれている彼であるのに。黙ったままアリステアの肩先を掴むリーンハルトだった。 「従弟殿、しばし城に滞在してくれないか。お時間が許すようならば」 「許さなければそちらを放り投げるまで。従兄上のためならば何をおいても」 「すまないな。――では、夕食を共に」 執務がある、と去って行ったリーンハルトの背中。アリステアは内心で眉を顰める。このぶんでは夕食の席に王妃がいるとは思いがたい。現状で同席など、王妃の方が拒むだろう。 確かに王子の耳にまで届いていた風聞。だがしかし、国王自らがあれほどの信頼をアリステアには寄せている。それを誰より王の近くにいる王妃が理解していないはずもない。 いったい何があったのか。アリステアは背筋にひやりとしたものを覚えないでもなかった。 |