子供たちははじめこそお喋りに興じていたけれど、それだけではつまらなくなってしまったらしい。庭に出て木剣での立ち合いをしてもいいか、と王子が父にねだる。 「かまわないかな、従弟殿」 少々苦笑気味の王にアリステアはもちろん、とうなずく。レクランも心得ているだろう。何気なく息子を見やれば緊張しつつ微笑んでいた。 勝つな、とアリステアは言わない。レクランもまた、それはわかっている。だが気をつけるように、とは眼差しで示唆した。相手は王子、と言うのではない。三歳も年下の少年に怪我をさせないように、とアリステアはそれを息子に目顔で語る。レクランの目がそっと笑った。 「ちょうどいい、従弟殿。観戦と行こうか」 窓の外に小卓を設えさせ、茶の支度を申しつければ貴婦人たちの好む茶会の席のできあがり。そこに座すのが男二人、というのが様にならないが、リーンハルトは楽しそうに子供たちの立ち合いを見ている。 「レクランは中々筋がよいな」 ふむ、とうなずく王の声が聞こえたのだろう。アンドレアス王子がむきになる。なんとしても父に褒められたい、と願うのだろう。 「従兄上」 こっそり囁きかけてたしなめれば、わかっているとばかりの柔らかな眼差し。 「酷いですよ、従兄上」 息子に発破をかけるにしてもやりようというものがあるだろう、言外に言うアリステアにリーンハルトは微笑むばかり。肩をすくめたアリステアの前、王子が必死になって剣を取る。 「殿下、もう少し柄を緩くお握りなさるといい」 一勝負ついたところでアリステアがそう言った。負けたわけではないが、上手にあしらわれた、とはアンドレアスもわかっているのだろう。悔しそうな顔をしている。 「こう……ですか?」 汗に滑る手で、一生懸命になっている王子だった。アリステアは立ち上がり、そんな王子の背後に立つ。 「失礼」 軽く手を取り、一度剣から手を離させ、そして正しい握りを教える。武術指南役は正しい握りを教えているが、まだ幼い王子はこうして立ち合っている間にそれがずれてしまう。 「このまま、一度ゆっくり立ち合ってごらんなさい。レクラン。半分の速さでできるか」 「はい、父上」 「よし。はじめ」 満足そうにうなずいた父の目に、レクランこそ必死だった。王子が父王に認められたいのと同じよう、レクランもまた父に誇ってほしい。王子の幼い剣について行くだけで本当は冷や汗を流している。ましてこうして半分の速さで、となると粗が見えそうでたまらない。 「レクラン。脇を締めてごらん。もっと鋭い剣が放てるようになる」 アリステアが王子の教導をするならば、とリーンハルトはレクランを教える。王の声にぽっと頬を染め。レクランはなんとか指示を守ろうとする。 「足さばきが遅い」 途端に飛んでくる父の声。ぎょっとしたのだろうアンドレアスがレクランの前、たたらを踏む。レクランは危ういところで王子の剣を避けた。 「すごい……当たってしまったかと思ったのに」 「殿下、お怪我はありませんでしたか」 「ない! こんなことで気遣うのはやめてほしい。だって、練習をしているのだし」 む、と唇を引き締めた王子にレクランは微笑む。それでまた王子の口許もほころんでいった。そしてそのまま背後のアリステアを見上げる。 「公爵はお強い。どうしたらそんな風に大きな体になれますか」 レクランへの指示を聞いていて、改めてスクレイド公の強さ、というものを王子は感じたのだろう。それだけでも彼にとっては充分な収穫だ、とリーンハルトは感じる。これで強さを感じられる、とはすなわちアンドレアスの鍛錬が実を結んでいる証しでもある。 「確かに、体の大きさというのは戦場では有利になるものです。ですが殿下は最前線に立つことはない。むしろ、立たないような施政をなさるべきお方です。おわかりですか」 アンドレアスの前、片膝をついては視線を合わせて語るアリステアだった。リーンハルトは小卓に座したままそんな彼を見ている。嬉しそうに父を見やっているレクランが印象的だった。 「それに殿下。私はお父上にはとても敵わない。お父上をごらんなさい。私などよりほっそりとなさっていますが、大変に鋭い剣の使い手です。殿下はお父上こそ見習われませ」 にこりと微笑んだアリステアにアンドレアスは父を見る。喜びと誇りと。真っ直ぐに見つめてくる子供の眼差しにリーンハルトも柔らかに微笑んでいた。 「父上、本当に父上の方がお強いのですか?」 アンドレアスの言葉に目を瞬かせたのはレクラン。アリステアはほっとしている。こんなことを率直に問えるほど、この父子の関係は良好なのだと。執務他、何かと忙しい国王だった。我が子であり、後嗣であるアンドレアスとの時間をそうは取れないだろう。 「疑われしまったな。従弟殿、では一勝負と行こうか」 「お待ちください、従兄上!」 「従弟殿はこの従兄が疑われたままでよいと?」 悪戯っぽい言いようにアリステアは肩をすくめる。致し方ない、とレクランより木剣を受け取れば、いそいそと王子が父に同じものを差し出す。 「短い木剣だが、かまわないかな?」 子供用の木剣であり、使いやすいとはとても言えない。が、短剣であると思えばよいだけだった、アリステアにとっては。だがリーンハルトにとっては違うだろう。神官戦士であるアリステアはどんな武器でもそれなりに使うことができるよう鍛錬を積んでいるが。 「参ります」 容赦されている。それを感じてアリステアも熱くなる。細身のリーンハルトであったけれど、幼いころからほとんど勝てないでいる。五戦して二勝できればよいほうだった。おそらくは、いまでも。 子供たちが打ちあっていたのとはまったく違う音がしていた。木剣の鈍い音か、これが。まるで金属のような高い音。それだけ鋭い打ち込み。王子とレクランは目を見開いて二人の立ち合いを見つめていた。 「強くなったものだ」 鍔迫り合いの一瞬、リーンハルトの目が和む。間近で顔を合わせれば蒼い目が笑う。アリステアは唇を歪め、けれど笑い返す。 「従兄上こそ」 幼いころより一層強くなった。自分が強くなればなるほど、この従兄は先に進む。いつまでも遠い彼方にある背中。追いつきたいと思ったことはあっても、追い抜きたいと思ったことは一度もない。 じわりと双方の額に汗が浮かんだ。子供たちが見ている、というのも忘れて二人は立ち合いを楽しんでいる。リーンハルトはまして。 この王宮で、真剣に王と立ち合ってくれる家臣などいない。剣の相手に手を抜かれても腕が鈍るだけ。それでも王に傷をつけることを恐れて誰もが早々に負けようとする。アリステアだけだった。けれどアリステアの生まれが生まれ。中々に機会を作れない。滅多に訪れない素晴らしい時間だった。そのはずだった。なぜそんなものが目に入ったのかは、わからない。わずかに気を取られた瞬間、アリステアの剣が目の前に。顔をかたむければ耳元で剣風。ぴしりと音がした。ついで悲鳴。 「なんということを! なんという! 陛下。陛下――。そなたの悪心、ついに見抜きましたぞ」 王妃だった。口許を押さえ、悲鳴を上げ。わなわなと体を震わせてアリステアを睨み据える。それだけならば、驚きはしても申し訳なさが先に立っただろう。だが王妃の横に公爵夫人がいるとなると話は違う。冷ややかなエレクトラが王妃と、そして夫であるアリステアを見ていた。 「なんということ……、陛下に傷を負わせるとは。血が流れて……!」 唖然としていたリーンハルトだった。平素はおっとりとしたテレーザがここまで取り乱すなど想像したこともない。怪我などしていたか、と自分でも首をかしげるというのに。そう言えば、と片手を耳元にやれば確かにぬるついた。 「従兄上、失礼」 立ち直ったのはアリステアの方が早かった。木剣を置き、リーンハルトの眼前まで。駆け寄った王妃がアリステアを引き離そうとするより早くリーンハルトの頬を包むよう手を添える。 「マルサド神に御願う――」 かすかな祈りの声。リーンハルトは顔を顰めていた。せいぜいが耳朶を切った程度のことで奇跡を乞うほどのものではないだろうに。ほんのりと耳が温かくなり、傷が癒えたのを感じる。 「傷を治したからと言ってそなたの罪が――」 「いい加減にしないか!」 はっとした王妃の顔。すぐ後ろでエレクトラが口許で冷笑していた。アリステアはそちらに気を取られる。すぐに子供たちに目をやった。驚く王子の傍ら、すでにレクランがいる。それに安堵していた。 「そなたは私から従弟殿を奪うつもりか! この程度のことで大騒ぎをするでないわ! 従弟殿と戯れることも許さぬと言うことか!」 「そんな……陛下……」 「よいか、王妃。私にとって従弟殿ほど大切な者はいない。かけがえのない従弟殿を侮辱するならばそなたとて許しはせんぞ」 声を荒らげることのない王だった。そのリーンハルトがいま、激昂している。肩を震わせ怒る夫にテレーザはうつむくばかり。 「お可愛そうな王妃様。妃殿下はただ陛下のことが心配だっただけですわ」 「……それは、わかっている」 「よろしゅうございましたね、王妃様。陛下はお優しくていらっしゃいますわ」 「公爵夫人……」 「殿方は殿方同士でお過ごしになられたい様子ですもの、わたくしたちも女同士、仲よくいたしましょう?」 ぞわりとアリステアの背筋に悪寒が走る。妻が王妃を慕っているなど、想像もできない。テレーザは自分が座るべき王妃の座を盗んだ女、程度にしか思っていないはずのエレクトラ。 「えぇ……そう、ですわね。まいりましょうか」 「領地で素敵なお茶が採れましたの。王妃様に差し上げたくて」 「まぁ……」 赤い目をした王妃だった。涙をこらえ、目を瞬く。王を見やればまだ怒りは強いのだろう、彼は無言で顔をそむけた。それにまたもうつむく王妃の姿。エレクトラの唇が小さく笑みを刻む。 「レクラン殿。母と一緒においでなさい。あなたにもお茶を進ぜましょう」 息を飲んだ息子にエレクトラは張りついたような笑みを見せるばかり。救ったのはリーンハルトでもアリステアでもなく。 「レクランとはこのあとも約束があるのだ、私と。しばらく城に泊って行ってくれる、と約束しただろう、レクラン?」 母の狂乱、父の怒りを目の当たりにし。けれどアンドレアスは鮮やかにレクランを救い上げていた。 |