アリステアは王都の中心部にも位置するマルサド神殿に滞在していた。ここで鍛錬と信仰の日々、と行けばいいのだけれど、スクレイド公爵ともあれば中々そうも行かない。
 執務に励むアリステアを神官たちは感嘆の目で見ている。彼は公爵としての執務をこなしながら、神官としての鍛錬も決して怠らないのだから。マルサド神は軍神だけあって、神官たちには厳しい鍛錬を課す。ましてアリステアのよう、神官戦士と呼ばれるほどの者になればなお一層の努力を求められるもの。そして彼は充分以上にそれに応えた。
 執務をするだけならば、本当ならば王城にいたほうが楽だった。何かと城との連携は欠かせない地位身分。ならば城下町より城にいたほうが話が早いのは当然というもの。
 それをしないのはひとえにアリステアの生まれのせい。リーンハルトは王位に就くなり城中にアリステアの部屋を用意した。いつでも使え、と国王に示されるというのは何よりの名誉。それだけ篤い信頼を寄せられているという事実の公表。
 だがアリステアはそこを使いにくい。もちろんリーンハルトより王の命、として滞在を命ぜられればアリステアも喜んで城にいる。けれど、命令もないのに城にいれば「我が物顔で」「さては」と言われるのがわかりきっている。
「お館様」
 おかげで神官の簡素な部屋で執務の毎日。もっとも、それを厭うたことは一度もない。部屋の設えがどうであれ、仕事は仕事。手元の書類を見るのに部屋の広さも豪華さも関係はない。それで不自由が生ずるとは考えないアリステアだった。
「どうした」
 書類から顔を上げてアリステアは顔を顰める。すでに話題が理解できたせい。側近のグレンがそんな主人に苦笑していた。
「公爵夫人が王都にご到着なさいました」
「あぁ……」
「お館様におかれましてはお屋敷にお戻りになられますか」
「多忙でな。公爵夫人にお疲れをお前からねぎらっておいてくれ」
「承りました」
 頭を下げる騎士にアリステアは申し訳なく思う。彼は正に騎士であって、侍従ではない。こんな仕事を申しつけるのは間違ってはいる。気にせず受けてくれるだけ甘えてしまう我が身の情けなさ。
「それと、若君がお父上様にご挨拶を、と」
 グレンもそんな主人の心はよくよく知っている。だからこそ、先に夫人の話をした。子息のことはこれで可愛がっている主であると彼はそちらもよく知っているのだから。そしてアリステアはグレンの予想通り破顔する。
「そうか。元気で到着したか?」
「久しぶりの王都とあって大変なお喜びようです」
「そうかそうか」
 笑顔のアリステアにグレンもまた喜びを感じる。公爵夫妻の日常をグレンはその目で見て知っている。高位の貴族夫婦などこのようなもの、と割り切ってもいいのだけれど、主が素晴らしい人柄だ、と感じているぶん、切ない気もするグレンだった。
 後日レクランを伴ってこちらを再訪する、と言いおいてグレンは屋敷に戻って行った。そこからもわかるとおり、王都には、むしろ城の至近にスクレイド公爵邸はある。公爵家の人々が王都に滞在するときのための屋敷で、領地のそれに比べれば格段に狭い。だが城の近くに屋敷を持てる、ということがそもそも大変な名誉だった。
 アリステアが城ではなく、自分の屋敷でもなく、この神殿にいる理由など知れている。城では貴族の目がうるさい。屋敷には、王妃の言葉を受けて公爵夫人がやってくる。これではアリステアの居場所など神殿にしかなかった。
「我ながら青いな」
 苦笑してアリステアは立ち上がる。レクランがやってくるまでに一仕事片づけておきたい。久しぶりの我が子との対面だ。たっぷりと時間を取ってやりたい。
 その成果が上がったのか。レクランがマルサド神殿を訪れたとき、父はゆったりと部屋でくつろいでいた。
「父上!」
 まるで幼い子供のよう、父の腕の中に飛び込んでしまってからレクランは恥ずかしくなる。だが両手を広げて我が子を受け止めたのはアリステアの方だった。
「おぉ、壮健であったか? 背が少し伸びたようだ」
「はい。また少し伸びました」
「いずれはこの父を抜かすかもしれないな?」
 からかうよう言えば含羞んで頬を染めるレクランだった。本当に、背が伸びた、と思う。ハイドリン出陣前に会ってはいる。そのときより一層伸びた気がする。子供の成長は早い、つくづくとそう思う。
「今日は父と二人で、と思っていたことだろうが」
「お忙しいのでしたら、僕は。また日を改めますから」
「いや、そなたを招きたいと王子殿下がな。お受けするか?」
 ぱっと明るくなる顔。返答など待つまでもなかった。できれば屋敷を出る前に知らせてやりたかったのだが、アリステアにも突然の知らせだった。
「グレン。一旦屋敷に戻ってレクランの支度をしてやってくれ。城で会おう」
「は、心得ました。若君、参りましょう」
「はい。では父上、後で」
 手を上げてアリステアは応える。どことない苦笑が浮かんだ。息子には見せないもの。彼の背中に向けてだった。
 アリステアも準備を整え、衣服を改める。ここにいる間は神官服を着ていれば済むが、登城するとなるとそうはいかない。スクレイド公爵としての衣装までそろえてある神殿の部屋だった。
「準備がいいのもここまでくるとな」
 どれほど自分は屋敷に戻りたくないのだ、と笑えてしまう。おかげで他の神官戦士の部屋よりよほど手狭だ。神官長がもう少し広い部屋を提供しようか、と言ってくれたこともあったが、一介の神官としてこのままで、とアリステアは丁重に断った。それに満足そうに笑った神官長の顔を思い出す。
「試された気がするな。今更ながら」
 グレンが手配して行ったスクレイド公爵家の紋章入り馬車が神殿の前に待っていた。若い神官が呼びに来てくれて、アリステアは礼を言っては城に向かう。
 レクランは、どう感じたことだろうか。若き貴族として、すでにレクランは立っている。幼い子供でいる時間はもう遠い。彼は公爵夫妻の不仲に気づいていることだろう。だからこそ、公爵が自邸に戻らないという異常事態が起こっているのだと、理解しているだろう。
「庶民の子供ならば、いかがするのか」
 こんなとき、民たちはどうするのだろう。幼いころは王城で、長じてからも庶民の暮らしなど知る術もなかったアリステアだった。レクランも同じだろう。
「グレンが色々と教えてはいるらしいからな」
 馬車の中アリステアはひとりごちる。アリステアとレクランは立場が違う。むしろ、生まれが違う。レクランは今後、公爵家を背負って立つ身となる。生まれながらにして公爵家の後嗣だった。アリステアとはそこが違う。
 グレンはそのあたりを考えているのだろう。レクランには学問の師、剣の師と色々つけてはいるが、殊にグレンには懐いているらしい。お父上には内緒です、と言いながら領地の庶民の暮らしを見せてもいる、そう聞いている。
「それを本人が報告してどうする」
 あのときのグレンの顔を思い出すにつけ、笑えてしまうアリステアだった。自分はそれほど浮世離れしているはずはないのだが。
 浮世離れ、と言うのならばリーンハルトだろうと。真っ直ぐと前を見ていても、どこか遠くを見ているような従兄の眼差しを思う。あの昏い蒼の目が、自分を認めるとふと微笑む。その瞬間を見るのが幼いころからとても好きだった。
 城に到着すれば、レクランはまだだった。かつてアリステアに、と用意された部屋はいまではスクレイド公爵家の控室となっていたけれど使っているのはほぼアリステアだけだ。式典でもない限り公爵夫人が登城することはない。待てばほどなく息子がやってくる。
「父上はお早い」
 自分の方が先だと思っていたらしい、レクランは。もっともだった。公爵邸の方が神殿より城には近いのだから。
「神官戦士というものは準備も手早くすることに慣れているものだ」
 悠然と口にする父にレクランは眩しげな眼差し。面差しは似ているようで似ていない親子だった。父は黒褐色の髪、息子は漆黒。灰色の目は父と同じものの息子のほうが明るい光を宿している気がする。そう思うのは親の贔屓目かもしれないが。
 レクラン到着を見ていたのだろう、王子付きの侍従がすぐさまやってきては案内を申し出る。それに従う二人だった。
「父上、この衣装で間違ってはおりませんでしょうか」
 小声で問うてくるレクランにアリステアは微笑む。そんなことを問う暇もなく王子の下に案内されてしまった二人だった。
「よく似合っているよ。グレンの見立てか?」
「はい。僕の身分からこれがよい、とグレンが教えてくれました」
「グレンは正しい。あっているよ、心配はない」
 ほっと息をつき笑顔になる息子にアリステアもまた笑みをこぼす。アリステアのただ一人の息子であるレクランは父公爵の副称号であるソーンヒル子爵をすでに得ている。その身分に相応しい衣装を過不足なくまとっていた。
「殿下。スクレイド公爵とソーンヒル子爵が参りました」
 侍従の到来を告げる声とほぼ同時に扉が開かれ、慌てて立ち上がったのだろう小さな姿。なにも立たずともよいのに、内心でアリステアは微笑ましく感じる。が、驚きが強かった。
「従兄上?」
 まさか国王同席とは思わなかった。驚いた顔のアリステアにしてやったりとばかり国王も微笑む。悪戯が成功した気分なのだろう。
「国王陛下にはご機嫌麗しゅう。王子殿下もまたご壮健のご様子、祝着に存じます」
 なかなか立派な挨拶だ、と我が子ながら感嘆してしまった。リーンハルトの存在に動揺してしまった自分、とアリステアは小さく笑う。
「ソーンヒル子爵も元気そうだ。久しぶりであったな」
「はい、殿下。お久しゅう存じます」
「領地ではいかがしていたのだろう」
 堅苦しいやり取りをする子供たちにリーンハルトの眼差しが優しかった。ちょい、と指先がアリステアを招く。
「驚かせてしまったな」
「従兄上でも悪戯をなさるのだと、それに驚いていましたよ」
「知っているだろうに」
 幼いころのことを言うリーンハルトにアリステアの目も和む。予期せぬ時に予期せぬ悪戯をするのはリーンハルトの方だった。窓辺で話す大人二人と、子供たちの声。アリステアはふと息をつきたくなっていた。




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