アリステアも一家の当主として、執務の忙しさは知っているつもりだ。ましてラクルーサ王国としてスクレイド公爵が出陣したとなれば、国王に伸し掛かる執務の重さはいかばかりか。凱旋してきたとはいえそれで終わりではないことくらい、アリステアもよくよく知ってはいる。それにしても。
「従兄上。少しお休みになりませんか」
 こんな夜遅くまでリーンハルトが執務を続けているとは。自分が陣にあった間はずっとそうだった、と城の侍女たちの噂を聞いた。
「従弟殿か――」
 多少の疲労が窺える王の声。だが、それだけ。端正な佇まいも、すっきりと伸ばしたままの背も。襟元すらくつろげず、王はこんな時間まで執務を続けていた。
「根を詰めるのはよくない。少しは休んでいただかないと」
「とは言えな、私が休めば――」
「そうして従兄上がお倒れになったらいかがなさる。従兄上に代われるものは誰一人としておらんのですよ」
 むっとしたアリステアの声にリーンハルトは微笑む。致し方ない、と溜息まじりに立ち上がれば背中が痛い。座り続けて強張った体だった。
「ほら、ごらんなさい。遠からずお体を損ねますぞ」
「そなたは意外と口うるさいぞ」
「言わせているのは従兄上です」
 他人の目がないからこその気安い言葉のやり取り。それだけで疲れなど吹き飛ぶようだ、とリーンハルトは微笑む。
「どこに行くつもりだ?」
 執務机の前を、離れるつもりだったリーンハルトだった。執務室から出る気はなく、茶の支度でも申し付けようとしていたものを。
「月下香が咲きはじめたと聞いたのですよ」
「ほう?」
「従兄上のお好きな花だ。滅多にない機会です。お供しますから、ご覧になりませんか」
 背をかがめ、上目遣いのアリステアなど他人は知らない。子供のころからの懇願の仕種。くつりと笑い、リーンハルトは肯った。
「従弟殿のその顔に私は弱いらしい」
「それは重畳。存分に活用いたしましょうか」
 からりと笑うアリステアと並んで歩く。城中はすでに静かだ。だがアリステアが出陣していたときとは違い、静まり返っている、と言うわけでもない。
 庭に出れば甘い夜気。胸いっぱいに吸い込んで、疲れていたのだとリーンハルトは気づく。横目でアリステアを窺えば、それ見たことかと言わんばかり。
「口許が笑っているぞ、従弟殿」
「はて。気づきませんでしたな」
「白々しいぞ」
 言ってリーンハルトは声を上げて笑った。夜の庭園に王の明るい笑い声が響く。実に珍しいことだった。そのせいだろう、きっと。声が届いたせいに違いない。
「まぁ、陛下?」
 王妃もまた、庭を愛でていたらしい。ずらりと後ろに侍女が従っていた。さすがに遅い時間とあって、王子たちはいない。
「スクレイド公とご一緒でしたか」
 ほっと柔らかな笑みを浮かべた王妃だった。執務に励み続ける王を気遣う王妃の姿にアリステアの頭は自然と下がる。
「従弟殿が月下香が咲いている、と教えてくれてな」
 ふ、と息を飲む気配がした、侍女たちから。王妃はただ静かに微笑む。アリステアは内心で首をかしげているが、何がどうとはわからない。ただ、何かは感じたように思う。
「さようでしたか。陛下のお好きな花ですもの、公爵はお優しい」
「とんでもないことです。従兄上、ここで妃殿下とお会いになったのはよい、妃殿下とご一緒に――」
「いいえ、スクレイド公。どうぞ陛下とご一緒になられて」
 穏やかなテレーザの笑みにアリステアはそれ以上を言えない。自分と散策するよりよほど王妃と共にした方がくつろぐだろうに。ちらりと見やったリーンハルトはどことなく苦笑していた。
「公爵夫人は、ご領地ですか。――たまにはお顔が見とうございます。王都にまいられませ、と伝えてくださいませんか」
「ありがたき幸せ。伝えさせましょう」
 ふとした瞬間に、零れてしまった言葉。伝える、とはアリステアは言えなかった。気づきもせず、口にしていた言葉。不意に肩先に手。
「従弟殿。あの花の香りがいい時期は短い、と言ったのはそなただぞ。参ろうか」
「はい、従兄上」
 まるで王妃から引き離すようだ、と思ったことでようやくアリステアは自分が何を口にしたのか気づく。目を瞬き苦笑しつつ、リーンハルトに目顔で笑う。
「妃殿下、失礼をいたします」
 王妃に向かい、軽く手を上げ歩み出すリーンハルトに慌てて従い、追いかける。廷臣たちもいない王家の庭園だからこそ。アリステアは無造作に王に並んだ。軽く身をかがめ、王の耳元に囁く。
「お手間をかけた、従兄上」
 公爵夫妻の諍いなど、王妃が知る必要はない。たとえ知っていたとしても、それをあからさまにするのは礼を失する。気づきもしなかった自分をリーンハルトは助けてくれた。
「気にするな」
 軽く見上げて笑いかけてくる従兄の蒼い目。アリステアもまた、無言で笑みを返す。その背中、アリステアは何かを感じた。思わず振り返る。そこには王妃たちがいただけ。目礼を送れば、手を振ってくれる。
「いかがした、従弟殿」
「いや……なに。たいしたことでは……」
「よいから言え。私に隠し事か?」
 そう言われては敵わないアリステアだった。二つ上の従兄には勝てたためしがない。勝ちたいとそもそも思っていないのだから当然のことだった。
「なにか、悪寒のようなものを感じた気がした、それだけですよ」
 口にすればそれだけのような気がした。気のせいのようだとも。が、逆に口にしたからこそ、そうではないような気もする。
「悪寒? 疲労が募っているのは従弟殿の方なのではないか?」
「従兄上ほどではありませんよ。私のは単に肉体の疲労、というだけのことです」
「それはそれで回復させないと困るだろうに」
「回復しないほど年寄りではありませんので」
 言葉遊びをしているだけで充分だった。こうしてアリステアと並んで庭を散策する。それでリーンハルトは疲れなど消える、そう思う。できることならば常に傍らにあってほしい従弟だった。
「やあ、咲いていたな」
 そう頻繁に目にする花ではなかった、月下香は。白々と夜の中に咲く花。朝になれば凋み落ちる一夜花。だからこそなのか、まるで数多の花々が咲き乱れる花畑にでもいるかのような馥郁とした香りが漂う。
「あぁ、美しいな」
 丈高い木に絡みついて咲く花だった。蔓性の植物が持つ一種の禍々しさを微塵も持ち合わせていない清楚な花でもある。高いところに枝垂れて咲く房にアリステアが手を伸ばし。
「よさんか、従弟殿」
「一房だけですよ。このあとも従兄上は仕事をなさるのでしょう? せめてお持ちになるといい」
「無体をする」
 言いつつ受け取ったリーンハルトは少し嬉しそうな顔をしていた。雪白の花が剣を取るとは信じがたい繊細な指に挟まれる。
「たまにはお身を慰めるものを身近に置かれませ。手を抜け、とは申しませんが、少しは休まれませ」
 切々としたアリステアの響きにリーンハルトは苦笑した。スクレイド公爵という重い身とあっては彼にだとて執務に手が抜けないことくらい、重々承知だろうに。その上で案じてくれる従弟のありがたさ、というものだった。
「先ほども申しましたが、従兄上。従兄上に万が一があったらいかがなさる」
「私が倒れたときには従弟殿――」
「もちろん、そのときにはこのアリステア。アンドレアス王子を全身全霊を以てお支えいたします。が、そもそもそのようなことがなければよろしいのです」
 じっと見つめてくる灰色の目。感情の揺れのままに色を変える目だとは余人は知らない。怒りが閃くいま、かすかな青味を帯びていた。
「怒るな、従弟殿」
「従兄上が言ってよいことではないことを口になさろうとするからだ」
「わかった、わかった。私が悪かったから、そう怒るな」
「少しもわかっておいででない」
 ぷい、と横を向いてしまったアリステアにリーンハルトは声を上げて笑った。アリステアはその笑い声に逆らえない。子供のころから感情をあらわにすることの少ない従兄だった。自分の前でだけ、こうして笑い、怒る従兄。
「忠告通り、体には気をつけるよ、従弟殿。そなたもだから、気をつけなくてはならないぞ?」
「私は――」
「従弟殿は我が剣、我が楯。私より先に倒れてもらっては困るのだ」
「はい、従兄上」
 満足そうに微笑むアリステアにリーンハルトは目を細める。互いの間で何度も繰り返してきたやり取り。忠誠の確認というより、自分だけはここに必ずいる、と誓うかのような。
「それに、従兄上はお忘れかもしれないが。私は神官なのですよ」
「忘れては……いないが?」
「本当ですかな? いまだかつてこのラクルーサで神官が王位についたためしはありませんよ」
 悪戯っぽいアリステアだった。他人がいないこの場限りの言葉。たとえ王妃であろうとも、最下級の召使であろうとも、他人が聞いてはならない言葉。はたとリーンハルトは気づく。
「そなた……だから神殿に入ったのか!」
「お気付きではなかったので? 意外と従兄上は鈍いな」
 からりと笑うアリステアだった。リーンハルトの父が王冠を得たそのときから、アリステアはリーンハルトに身を捧げるつもりだった。だからこそ。
「特定の神を奉じる神官が王冠を得るなど、あってはならんのですよ、従兄上」
 アリステアがマルサドの神官である限り、断じて王位につくことはないとの表明にもなる。もっとも、リーンハルトですら気づいていなかった頼りない証しではあるけれど。
「私は誰が何を言おうが、いや、従兄上が何をおっしゃろうが、従兄上お一人にだけお仕えする。この身は従兄上のもの。従兄上だけのものです」
 軽く胸に手を当て、アリステアは微笑む。言葉など要らなかった。リーンハルトは何も言わず、けれどこの上ない笑みを見せたのだから。




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