スクレイド公爵アリステア出陣からこちら、リーンハルト王は執務室からほとんど出てこない。食事も仮眠もここで取っている有様だった。
 それを臣下の一部は言う、スクレイド公爵を警戒しているからだ、と。確かにアリステアは長男であった先々代王の王子。あちらの方が正しい血筋、と言われればそのとおりではある。が、アリステアは言う。この長いラクルーサの歴史にいったい何度兄弟相続が行われたのか、と。正しいのは従兄上だ、と。
 それはこの魔族のあふれた世界に新たな火種を作る必要はない、との彼の思いだったのだとリーンハルトだけは正しく知っている。民にこれ以上の不安を与えることはないと。
 かりかりと筆記具を動かす音だけが夜の執務室に響く。平素からハイドリンに兵は常駐しているけれど、スクレイド公が出陣するほどの大規模になることはこのところなかった。そのせいだろう、さすがに城中も静かだ。
 ――すまぬ、従弟殿。
 執務に励みつつ、リーンハルトは内心でひとりごちる。口に出せばアリステアは怒るだろう。たとえ今ここで聞こえないのだとしても。自分は従兄上のためにこそ戦っていると言って。
 リーンハルトの口許に小さな笑みとも言えない影が浮かんで消える。本当ならば自ら剣を取り、戦いの場に出て行った方がずっと楽だ。アリステアと共に戦えたならばどれほど。何度そう思ったことだろう。言葉にする寸前でいつもアリステアの眼差しに止められた。王は前線になど出るものではないと。
 思い出すだけで小さな溜息。彼の言っていることは正しい。が、従いたくないときも稀にある。
「ふむ――」
 どうにもならないことを考えるとは多少の疲れが出たか、とリーンハルトは顔を上げた。ちらりと視線を走らせればいまだ書類の山。
 うちの一枚を取った。従軍魔術師が連携して届けてきている報告書だった。魔術師たちのおかげで一日足らずの遅れでアリステアの様子を知ることができる。兵たちに走らせてはこうは行かない。そればかりはありがたかった。
 すでに目を通したそれを何度も読むのはたまらない気分だからだろう。やはり、共に出たかった。この国の王たる身ならば民を守るのは自分の役目。アリステアに押しつけているような、嫌な気分だ。
「従兄上には他にすることがいくらでもおありのはず。力仕事は下々にお任せあれ」
 明るいアリステアのいつかの笑い声が聞こえた気がした。思わず苦笑する。自分は何度も同じことを言っているらしいとふと気づいた。
 明日にはミルテシアの陣が見える場所まで到達するだろう、報告書はそこまで来ている。となれば、明日届くものは会戦か、あるいは会談か。そのどちらかだろう。
「従弟殿はどちらを選ぶ?」
 問いかけに答えは返らない。それでも聞こえる気がした。まずは会談を持とうとするだろう。今回の出陣はミルテシアからの、言ってみれば苦情が発端。アリステアならばうまく収めるだろう。リーンハルトは疑わない。
 まだ終わらない仕事に目を戻し、リーンハルトは再び執務をはじめる。静かさの中、夜の物音。ふと扉が開く。
「陛下、まだおやすみになられませんのでしょうか」
 立ち居振る舞いに心遣いを感じた。けれどリーンハルトはただうなずくだけ。毎晩同じことの繰り返しにもなれば放っておいていただきたいとも思ってしまう。
「でしたら早咲きの月下香をご覧になりませんか。今夜は殊の外によく香るようですもの」
 優しく微笑む王妃にリーンハルトは苦笑する。それから黙って首を振った。
「王妃は楽しんでこられるとよい」
「わたくしではなく――」
「私がここで休むわけにはいかないのだ。スクレイド公はいまも戦地にある」
「ですが、陛下がここで」
「私がここで執務をしていてもなにも関係がないとそなたは思うか?」
 問いの鋭さに王妃テレーザは口を閉ざす。王妃についてきた侍女が立ち竦んでリーンハルトは内心で溜息をついた。
「スクレイド公をはじめ、常駐している兵たちはどれほど過酷な場に身を置いていることか。私がここで楽しむわけにはいかぬ」
 たとえ短時間であっても。アリステアのいる場所に月下香は咲いていない。その香りを楽しむことも彼はできない。公爵位にありながら、王子と呼ばれながら、アリステアはいま夜営をしている。速さこそを貴んでいる彼のことだ、天幕など持って出なかっただろう。兵たちと同じよう、毛布一枚にくるまって地面に直接横たわっているに違いない。
 だからこそ、せめて、とリーンハルトは寝室に休むこともしていない。簡素な軽食を取り、硬い簡易寝台に身を横たえる。
「そなたは楽しんでおいでになるといい」
 これは自分が好きでしていること。アリステアはこんなことをしても喜びはしない。むしろ聞けば怒るだろう。勝手気儘な自己満足に王妃が付き合う必要はない。王の言葉にテレーザは少し悲しそうな顔をして、結局はそのまま出て行った。
 溜息を一つ。中断していた執務に戻っても、身が入らなかった。こんなことではいけないと集中しても、散漫になる。
「致し方ない――」
 一度立ち上がり窓辺へと。ちらりと庭を見下ろせば、侍女たちが王妃を慰めているのか、やはり月下香を眺めに行くらしい後ろ姿が見えた。
 その後ろ姿より、リーンハルトは別の後ろ姿を幻視する。出陣して行くアリステアのそれを。武勲を上げて帰ってくる、とは彼は言わない。無事に帰ってくると言う。壮健であれ、と送り出す。
「無事に戻れよ、従弟殿」
 強いのは知っている。なにしろ彼を鍛えたのは自分だった。まだまだ幼かったあの頃。共にこの王宮で暮らしていた。小さく細い子供用の剣で何度となく立ち合い、鍛錬に励んだ。
「あの泣き虫がな」
 リーンハルトの唇が笑みの形になる。これほど気分の良い笑顔は王宮では中々に見られないものだった。
 小さなアリステアは何度叩きのめしても音を上げなかった。ぐしゃぐしゃに泣きながらかかってきた。泣くならやめる、と言うとしゃくりあげながら涙を止めようと努力した彼。
 あの日の子供がこれほど屈強な男になるとは想像もできなかった。いつの間にか背を越され、肩幅は広くなり。大人になった彼はあの泣き虫とは夢にも似ていない。
「あのころのままであれたならばどれほどよかったか。なぁ、従弟殿」
 暗い窓に自分の顔が映っていた。従兄弟同士でありながら、容貌はまったく似ていない。暗い髪色に灰色の目をした彼と、金髪に蒼の目をしたリーンハルト。だがリーンハルトは思う。アリステアこそ、明るい、太陽のような男だと。
「だからこそ、私は――」
 アリステアにこの重責を担わせたくなかった。先王の子だから王冠を得た。アリステアにその資格が充分にあると理解しつつ、リーンハルトは真っ直ぐと王冠を得た。
 理由は一つ。アリステアには明るいものを見ていてほしい。いまは背後にある執務机の書類一つとってもそう思う。
 魔族の横行がはじまって以来、いったいどれほどの犠牲者が出たことか。それを機に集落でどれほど不快な事件が起こっていることか。アリステアのような陽性の男にはこんなものは見せたくない。自分が受け持てばそれでいい。
「従弟殿は戦場にあればよい」
 暴言に聞こかねない。それでもそれはリーンハルトの優しさだった。せめて自分の手の届く場所で、届かないことを嘆く方がどれほどよいか。見えも聞こえもしない場所から悲劇が聞こえるだけとはどれほどの苦痛か。
「従弟殿――」
 窓に触れれば冷たい。それに正気づき、リーンハルトは机に戻った。何度か首を振る。思わず腰に手が伸びる。佩剣の柄を握れば硬い感触。アリステアの手を取ったような安堵、そんなことを思う自分に笑う。
 燭台の灯りは、夜が明けるまで消えることはなかった。王妃は朝になってそれを聞く。眉を顰め、王を案ずる彼女を侍女たちが何くれとなく世話していた。

 一方、ハイドリン。
 ミルテシア側はすぐさまスクレイド公爵家の紋章を旗に読み取ったらしい。どことなく慌てふためく気配がする。
「驚くならばなぜ悶着を起こした?」
 不思議そうにグレンに問うアリステアに側近が苦笑する。
「よもやお館様御自らお出ましになるとは想像もしていなかったのでは」
「なにを御大層に。私が出てきたことがそれほど不思議か?」
 リーンハルト王の出陣ならば理解する。それならば自分も驚くだろうとアリステアは思う。たかが、と言うほど軽い身分ではないが臣下の一人が騎士を率いてきたからと言って驚く道理はない。
「お館様」
 軽く馬上で身を寄せてきたグレンにアリステアは渋い顔。心得た騎士たちが離れて行く。騎士たちの輪の中、アリステアはグレンに囁かれていた。
「お館様が陛下に身を尽されることがミルテシアには理解できないのでしょう」
 グレンは息を飲む。切って捨てられたかと思った。それほど鋭いアリステアの眼差し。腹に力を入れ、真っ直ぐと見つめ返す。小さくアリステアの口許が緩んだ。
「お前に怒りを見せてもなににもならんな」
「口が過ぎましたこと、お詫び申し上げます」
「気にせんでよい。――ミルテシアはずいぶんと私を甘く見てくれたものだな」
 平素は穏やかな灰色の目が険しく輝く。鋭さを増したそれはミルテシアの陣に。この身の忠誠を他国に疑われた不快さ。
「お館様」
「言うな。陛下はご存じである。それでよい」
 他国だけではない。むしろ疑われているのは自国においてこそ。口にしかけたグレンをアリステアは留める。言葉にしては危険なもの、というものがある。それには無言で頭を下げるグレンだった。
 グレンにも、わかっているだろう。あるいは彼こそが、ひしひしと感じているかもしれない。アリステアの忠誠を疑い、反逆を唆そうとしているのが誰なのかを。
 ――すまぬ、従兄上。お手間をかける。
 いまは王都の城で執務に励んでいるだろうリーンハルトに内心で詫びた。共にあればあるで噂をされる。離れていれば反逆を口にされる。一切を疑わずにいてくれるリーンハルトだけがアリステアの支えだった。




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