王都を出で、たけなわの春を踏み軍馬は行く。ハイドリン到着までは何事もなく過ごせるだろう。だからといってのんびり行軍するわけにもいかない。それでもアリステア自身はさほどすることがない。配下の騎士たちがすべてを行っていた。
 アリステアはスクレイド公爵家の長でありながら、神官戦士でもある。日常は領地にいるより王都の神殿にいる方が多い。その中で公爵家の騎士団が侮られてはならじ、と鍛錬を積んでいる騎士たちだった。行軍を眺めつつアリステアはそれを頼もしく思う。
 よけいなことを考える隙があるのがよくなかったのかもしれない。もう一つ、痛恨事があったのを思い出してしまった。
 神殿に入ったアリステアだったが、そのまま修道生活、と言うわけにはいかなかった。二十歳を待たずして突然に生家に一時帰宅を命ぜられたかと思ったら、婚約者がそこにいた。
「何事ですか、これは――!」
 慎ましく眼差しを伏せた婚約者、エレクトラが睫毛を震わせた。申し訳ない、とは思ったが聞かされてもいなかった不意打ち。エレクトラを庇うよう母が微笑んでいるのがいっそ忌々しかった。
「あなたは独り身が許されるご身分ではありませんよ、アリステア殿」
「私は一介の神官ですが」
「お戯れをおっしゃって。お優しい方でしょう、エレクトラ? あなたをくつろがせようとなさっているのですよ」
「はい、義母上様」
 負けた、瞬間にアリステアは悟る。あとから聞いてみればエレクトラは母の里、アントラル大公家の当主の従妹に当たる、と言う。絡め取られた気がしたものだった。
 出会いが悪かったのか、エレクトラと相性がよくないのか。神殿にばかりいる夫にエレクトラが愛想を尽かしはじめたのはいつだったか。
「アリステア殿、次のお子はまだですか」
 何度母に言われても、すでに嫡子レクランがいる。最後の抵抗とばかりアリステアは次の子を儲けなかった。
 母の魂胆はわかっているつもりだった。アリステアか、その子を玉座に。亡き夫の弟など、断じて王とは認めない、誰憚ることなく言う母に苦い思い。
 幸いレクランは気性穏やかな息子だった。祖母に踊らされることもないだろう。領地を離れているアリステアだったが、戻れば息子の相手はする。そんなときレクランはいつもマルサドの教えを問う。
「ありがとうございます、父上。もう少し、自分で考えてみます。またお尋ねしてもよろしいですか」
「無論だ。が、学問ばかりに偏るのはよくない。剣の腕もだいぶ上がったと聞く。一手指南しようか」
「とんでもないことです。いずれ、もう少し上達いたしましたらお目にかけますので、ご容赦ください」
 口ではそう言いながら嬉しそうに含羞んだ息子がアリステアは愛しい。騎士たちの評判も上々だ。だからこそ、断じて野望の的にはさせない。
 あるいは、領地ではなく王都に連れてきてしまうべきか。またも考える。エレクトラが騒ぎを起こす気もするが、息子を思うのならばそうした方がいいかもしれない。何より、何度か顔を合わせているリーンハルト王の王子アンドレアスとは気が合う様子。
「三つ違い、か――」
 思わず呟いた独り言に隣で馬を走らせていたグレンが怪訝な顔。なんでもない、と首を振り、アリステアは前を見る。
 王と自分は二歳差の従兄弟同士だった。リーンハルトの方が二つ上で、けれど婚儀は彼の方が少し遅い。レクランが三歳年長の十二歳、王子はまだ九つだ。自分たちのよう、物心ついたときから共にある、と言うわけにはいかなかったけれど、いまからでも遅くはないかもしれない。
 親しくなれば逆らうことなど考えなくなるだろう、と思うのは打算が過ぎるか。だが隔意がある王子であれば反逆もまた容易になされる。あの人を苦しめたくない、との思いは案外に強いものだ、とアリステアは思う。甘いことを考えているとは思いつつ。
 彼が、そうだった。叔父が王冠を得たその日から、リーンハルトが玉座につくを当然と思ってきた彼だった。
 アントラル大公家を背後に持ち、スクレイド公爵位にある王子アリステアが本気でリーンハルト王子を慕っていると思うものなどどこにもいなかった。否、ただ一人。
 充分だった、それで。リーンハルト本人がこの身の忠誠を信じてくれているのならばそれで充分だった。むしろ彼は言ったものだ。
「従弟殿のほうがずっと王冠に相応しい。従弟殿ほど民を思う気持ち篤い男はおらぬものを」
「ご冗談を、従兄上。従兄上こそ正しき方、正当なラクルーサの御主」
「さて、どうかな?」
 悪戯っぽい目の輝き。二人きりでいるときだけ、リーンハルトはそんな顔をした。普段は物憂く沈んでいる蒼の目もそんなときばかりは明るい。たぶん、誰も知らない。叔父王ですら、知らなかったのではないかとアリステアは思う。思わず口許に笑みが浮かんだ。
「ご機嫌よろしくあられますな、お館様」
 そろそろハイドリンが見えてくるだろう。数日に及ぶ行軍も一旦は終了だ。もっとも、到着すればすぐにも作戦行動がはじまる。休息の暇はないだろう。
「動いている方が気が楽なだけだ」
「若君はじっくりとお考えになる御気性でいらっしゃるというのに、父君はこうですからな」
「あれの鍛錬はどうだ。進んでいる、とは聞いているが」
 言えばグレンは嬉しそうに微笑む。横目で騎士たちの行軍の様子を監督しつつ、彼は少し馬を寄せてきた。
「素晴らしい上達を見せておいでですよ。ご覧になったことは?」
「至らない我が身が恥ずかしいから、と言って見せようとはせん」
 肩をすくめればグレンが笑う。不器用な親子だとでも思っているのかもしれない。案外うまく行っていると思っているのだが。
「ただ、時折遠くをご覧になったり、何事かに耳を傾けておいでであったり。それが心配ではあります」
「ふむ。……魔術師には見せたのか」
「は。真言葉を聞く耳はない、との見解でしたが。他の魔術師にも――?」
「いや、それならばそれでよい。いずれ時至ればどういうことかわかるだろう」
 ただぼんやりとしているとは二人とも思わなかった。十二歳の幼い身ではまだまだ学問も鍛錬も逃げ出したいこともあるだろうに。レクランはそのようなことを考える子供ではなかった。
「先日は学問の師が音を上げていたらしいな」
「そのようなことがありましたか」
「あぁ。レクランの進み方が早すぎる、と言ってな」
「喜ばしいことではありませんか」
 そうでもない、内心にアリステアは言う。才知が勝り過ぎれば敵を作る。噂がよろしくない物を呼び込む。たとえレクランがただ真っ直ぐと学問に身を入れたいと思っていたのだとしても、世間はそうは取らない。悩ましいところだな、と彼はそっと溜息をついていた。
 できることならばこの父のように次代の王とは睦まじく歩んでほしい。息子を愛するがこそ、平穏であってほしい。
 アリステアの口許が苦くなる。息子を愛するがゆえに玉座を望む、と言う母に二人、心当たりがあっては致し方なかった。もっとも、彼らにはなにができるわけでもない。いまのところは。ただ城に向かって遠くから不満を口にするだけだ。リーンハルト王の耳に届いていたとしても、彼は苦笑で済ませている。それに不満を漏らす臣下をたしなめてくれているほど。
 だからこそ、こうして率先して戦場に立つアリステアだった。王のため、この肉体をもって敵を食い止める。それを誰にでもわかる形で示す必要がある。王はそのようなことをせずともわかってくれている。理解しないのは周囲だとしても。
「王子の剣のご様子は聞き及んでいるか」
 ふとグレンに問うてみた。王都ではなく、スクレイド領に常駐する彼の耳にどう届いているのだろうと。グレンは思わず、といった素振りで破顔した。
「それは素晴らしい、と聞き及んでおります」
「そうか」
「幼くしていらっしゃるというのに、それは熱心で奢ることなく励んでおいでとか」
「さすが従兄上のお子だな」
 アリステアの唇が笑みの形になった。それにグレンは小さく笑う。世辞でもなんでもないのだが、彼にはそうは聞こえなかったらしい。
 アリステアはマルサドの神官戦士となり、ラクルーサでは有数の剣の腕を誇る。マルサド神がそもそも軍神であるからして、その神官もまた戦いに長じるは当然。その中で神官戦士、とまで呼ばれるものは少ない。抜きんでて優れた技量と篤い信仰心を持つものだけがそう呼ばれる。
 だが、とアリステアは思う。有数の腕であるのは偽らない。卑下もしない。が、その腕を鍛え上げたその基となったものは間違いなくリーンハルトだった。
 幼い日、リーンハルトにどれほど容赦なく叩き込まれたことだろう。剣の握り方、足さばき、鍛錬の方法も。教えてくれたのは彼だった。
「泣くな。涙をこぼすならばここまでにする」
 痺れる腕に、すりむいた膝に、唇を噛んだアリステアに無情なリーンハルト。悔しくてむきになって突きかかっていった。そのたびに呆気ないほど簡単に剣は叩き落とされた。ようやくなんとか柄を握っていられるようになったときのリーンハルトの笑顔を彼は忘れていない。
「よくやった。偉いぞ、アリステア」
 頭を撫でてくれた二歳年長の従兄。リーンハルトに褒められるのが嬉しくて鍛錬を続けていたらこうなった、そんな気がしないでもない。
 あまり感情をあらわにする少年ではなかった、当時から。王弟の子息であったころから、リーンハルトはあまり変わっていない。それだけ国王に向いているのだ、とアリステアは思っている。
 余人の知らないリーンハルトを一番知っているのはたぶん間違いなく自分だ。思ったところで苦笑が浮かぶ。王妃を忘れていた自分に。
 冷淡ではないが、優しい言葉一つ吐けないあの従兄がいったいどんな顔をして王妃を寝台に招くのか、思うだけで微笑ましい。スクレイド公爵夫妻と違い、幸いにして王には二男三女に恵まれた。次女は生まれてすぐ逝ってしまったが、長子の王子と末の王子と、玉座は安泰だ。
「陛下の御為にも早急に片づけるぞ」
 は、と鋭い声が上がった。グレンのみならず、聞こえていた騎士たち全員から。明日にはミルテシアの陣が見えるだろう。
 暮れなずむラクルーサ北部の景色。アリステアにとっては懐かしい景色でもあった。いまでこそスクレイド公爵領にあるアントラル大公家の屋敷だったが、アリステアが幼い当時には北部にあった。否、いまでも本邸はそちらのはずだ。アルハイド古王国が被った大災害の折、公爵領を献じ王都と為した功績によりアントラル公爵家は大公に格上げされ、いまなお重んじられている。形骸化した権威だけを後生大事に抱えて。




モドル   ススム   トップへ