シャルマークより魔族の侵攻がはじまり百十余年。殲滅の目途はまったく立っていなかった。どころか、押されてすらいる。
 原因はおそらく「人間だから」と後世の歴史学者ならば言うだろう。ラクルーサとミルテシア、当初こそ共同戦線を張れたものの、些細な行き違いや擦れ違い。他愛もないことであえなく崩れ、現在では双方が魔物と相手国の二正面作戦を取らざるを得ない。
 そもそも、原因がわかっていなかった、この魔物の大侵攻の。遠因ならば、想像がついている。シャルマーク王だろうと。そして至高王だろうと。
 何があったのかは、知られていない。ただ、魔物はシャルマークから湧き出し、そして至高王と神人は消え去った。シャルマーク王と戦ったのだ、討ち果たしたのだ、とも聞く。が、魔物は止まらない。いくらでも湧き出してきた。
 二王国ともにそれをなんとかハイドリンで食い止めている、と言うのが現状だった。またハイドリンの位置が悪い。大陸東西から伸びる山脈が途切れた、平原の中央に至高王の居城はある。おかげで大規模な兵を展開させにくい。
 至高王はいかなる理由であれども人間を捨てて去った。ならば居城である三叉宮など壊してしまえ、それで戦いはずっと楽になる。そう言ったものがいったいどれだけいたことか。
 三叉宮は壊されなかった。信仰他、どんな感情的な理由でもない。単純に、壊せなかった。つるはしを打ち当てればそちらが壊れ、鑿鏨の類を持ち出しても道具の方がこぼたれる始末。結局、壊せたものと言えば摩耗しきって何が書いてあるかわからなくなっていた半ば壊れかけの石碑くらいのものだった。
 なに一つ打開できないまま、百年を超える戦い。倦むより先に恐怖が来る。兵たちはよく耐えている、と言うべきだろう。だからこそ、人間同士の諍いは絶えない。魔物よりはまだしもと。
 ラクルーサの王都アントラルに届いた報もまた、よく聞くものだった。かといってないがしろにできるものではなかったが。
 王城・白蹄城の謁見の間。ずらりと並んだ武官文官。正面の玉座にはすでに王が座す。美しい王だった。が、なよやかな美ではなく、この男が完全武装したならばどれほど美々しいかと想像したくなるような。痩身ではある。しかし鍛え上げられた細身、と言った方が正しい。整えられた金髪も、昏い蒼の目も繊細さより剛毅を。それでいてなお優美な男。ラクルーサ国王、リーンハルトだった。三十代も半ばを超えたが、それよりも多少は若く見える。玉座の横に座す王妃の優しい姿が霞むような王だった。
 軽く玉座の腕に肘を乗せ、頬杖をつく姿。伏せられた眼差しは何を見ているのか咄嗟にはわからない。その視線の先に映りたいのかも。研いだばかりの剣に刺し貫かれたい者はいない。ただ一人を除いては。ゆっくりと謁見の間の大扉が開く。到来を告げる声。
「スクレイド公爵にしてマルサド神の神官戦士、アリステア王子殿下ご入来」
 朗々と響く声が相応しい男だった。丈高く、逞しい肉体。厚い胸と幅広い肩。男ならばこうありたいと誰もが願うような。黒褐色の髪だけならば重々しすぎる。しかし灰色の理知的な目が幾許かの柔和さを与えていた。
 その柔和さを破るような完全武装のアリステアではあったけれど。背後に従う男たち、スクレイド公爵家の騎士たちはすべてが甲冑に身を包む。アリステアはけれどそれよりは簡易な武装。鎧に脛当て、籠手までつけた、それでも神官戦士の完全武装だった。鎧の下から覗くのは紛れもない神官服。腰に佩いたいかにも重そうな剣は、アリステアの体の一部のようぴたりと嵌っているせいもあり、彼の全体像として見るとき軽やかに見える。
「武装中ゆえ全礼を欠きます」
 国王の面前に出て、膝もつかずにアリステアは胸をそらす。戦いに身を置く武官にだけ許される所作がしっくりと決まっていた。右の拳が胸元を叩いた鈍い音が謁見の間に響いた。
「従弟殿にはお手間をかけるな」
 悠然とした王の一言。あげられた眼差しはアリステアに止まったとき、ふと柔らかみを帯びる。
「恐れ多いことを仰せになりますな。陛下の御為に尽くすは臣下の誉れ。安んじてお任せあれ」
 再び胸を叩いては忠誠を誓う。真っ直ぐとあげられた顔は王を見ていた。王もそんな彼を真っ直ぐと見つめ返す。わずかに口許がほころんだ気がした。
「スクレイド公にはどうぞよろしゅうお頼みいたします」
 王妃の優しい声にアリステアは軽く膝を折って礼をした。本来ならばする必要のない礼ではある。が、王妃の言葉に打たれたのだろう。
 前線のハイドリンでまたもミルテシアとの諍いが起きた、と言う。他愛ない、と言って放置するわけには断じていかない。一触即発、何が起こるかわからない。
 だからこそ、スクレイド公爵アリステアが最前線に赴くことになった。すでに準備は整っている。この謁見は多分に儀礼的なもの。出立の挨拶をして、そしてアリステア以下騎士たちは発って行く。
「お館様」
 騎士の一人に声をかけられ、アリステアは無言でうなずく。馬上の人となり、ゆったりと王都を進む。民たちの歓呼の声に応えて手を振れば、大きな響き。
「――従兄上」
 振り返れば王城遥か高みの露台に人影。片手を上げた姿すらよくは見えない。それでも民は王と知る。アリステアも無論、見紛うことはなかった。
「お忙しいというのに従兄上は。もう少しお休みいただかんと」
 むつりとこぼせば騎士が小さく笑い声を上げる。国王の多忙さを彼らは熟知してはいない。自らの主人の忙しさならば嫌と言うほど知っている。
「お館様こそ、多少は休んでいただきませんと」
「それを出立にあたって言うか?」
「機会を選んでいては言うに言えませぬ」
 スクレイド公爵家の騎士を実際に束ねているのはこのグレン・ジャクソンだった。騎士団長は老齢で領地の屋敷で静養中だ。それ以前からグレンが騎士たちの面倒を見ていたが。飄々とした口調とあっさりとした仕えぶりがアリステアは気に入っている。
 王都を出るまで疾駆に移ることはなかった。それをしては民たちに要らぬ不安を与える。緊急事態ではない、いつもの出陣だ、と思わせる必要がある。もっとも、いつもの出陣、になってしまっているところがすでに問題だ、とアリステアは内心で顔を顰める。
 前線の問題を処理するため、誰を派遣するかと会議があったのはたかが数日前だ。そこでアリステアと決まり、その日数で騎士団を呼び寄せ、出陣の準備をする。異常だ、と彼は思う。あまりにも慣れ過ぎだと。この百年がそんな体制を作りあげてきた。
 アリステア自身、一度王都の南に位置するスクレイド領に戻っている。自身の準備もあったし、何より家中の指示を出すのは自分しかいない。
「またもお発ちとか。陛下は殿下をいささかよいように――」
 騎士たちのあまり見たためしがないアリステアの姿だった。振り返った先にいたのはエレクトラ。アリステアの妻だった。
 折り合いがいいとは言い難い夫婦ではある。それを言えば大抵の貴族の夫婦など円満とは言いにくい関係ばかりだ。そこに照らし合わせても、アリステアとエレクトラはうまく行かない。幸い、すでに一子がある。あとはお互い勝手をしているようないかにも貴族の夫婦、ではあった。
「従兄上を侮辱することは許さん」
 ぎらぎらとした目だった。理知的な眼差しが、一瞬にして曇ったかのような。エレクトラは何度も見慣れたそれに惑わされはしない。屈しもしない。
「殿下はいつも従兄上従兄上と。ですが陛下は殿下をそこまで思っておいでなのか」
「王に尽くすは臣下の務め。それになんの不満がある」
「なにを。――あなた様こそ至高の座に」
 う、と息を飲んだ、エレクトラは。さすがに喉元に短剣を突きつけられては黙らざるを得ない。ちらりと視線を落とせば、それでも最後の理性か。喉に触れているのは柄だったが。
「それ以上はそなたでも、いや、そなただからこそ許すわけにはいかん。断じて口にするな。よいな」
「殿下は我が子を愛しゅうお思いになりませぬのか」
「思うからこそ口にするな、と言っている」
 わかったか、睨み据えてもエレクトラはこたえた様子もない。息子がすくすくと育っているのはありがたいが、エレクトラが息子を盾にするようになったのがいただけない。
 何度もすでに繰り返している会話ではあった。何度たしなめてもエレクトラが改めないことも。息子を王都に呼び寄せ、神殿にでも入れるべきか、とアリステアは行軍しつつ考えている。笑みを浮かべ、民たちに手まで振ってやりながら。
「若君はつつがなくお過ごしのご様子。祝着ですな」
 まるで内心を読まれたようだった。グレンはただこの場にいない彼の息子のことを思ったに過ぎないだろうに。
「初陣には早い、と思うがな」
「さようでしょうか。そろそろお許しになっては」
「まだ、早い」
 重々しく言うアリステアにグレンも思うところがあるのか口をつぐんだ。アリステアは何より王を敬いたい。リーンハルト王に仕えることこそ喜び。常々そう口にしているし、幸いなことに本心だった。それを誰より理解してくれているのは何を隠そう国王本人。ありがたいことだ、とアリステアは思う。
 百年に及ぶ魔族、異形との戦いがラクルーサに不測の事態をもたらしていた。リーンハルトの父は確かに先代国王だった。けれど、その前は彼の祖父ではない。その兄だった。早逝した兄の後を承け、弟が王冠の重責を担った。
 それだけならば美談だろう。けれど早逝した兄王には息子がいた。アリステア、という息子が。そして弟にもリーンハルトという息子がいた。二歳違いの従兄弟同士。アリステアの父王が玉座にあったころは共に転げまわって遊んだものだった。
 父が急逝し、アリステアにとっては叔父が玉座についたその日から、従兄を名で呼ぶことはなくなった。
 早熟だったのだろう、アリステアは。このままでは政争が起きかねない、すぐさまそれと悟った。いまそのようなことをしている場合ではない、それを子供ながら敏感に感じていた。
 ゆえにアリステアは叔父が玉座につくなり、マルサド神殿に入った。神官として修行を積む日々。たとえ王子と尊称されようとも、自分は一介の神官である。身をもってそれを示した。
 若すぎる身で、すべてがうまく行ったわけではない。母の生家アントラル大公家の暗躍を許し、断絶していたスクレイド公爵位を継がされてしまったのは痛恨だった、といまでもアリステアは腹立たしい。
「いまは、そのようなことをしている場合ではない――」
 確かにアリステアの父は長子であった。幼いアリステアが戦乱の中、玉座につくのは無理がある。民を思えばこそ、叔父は王冠を受けたのだろうに。守るべき民に手を振りつつ、アリステアは溜息を内心に押し込めていた。




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