ウルフが肩口に顔をうずめ、できるだけ努力しているのだろう軽い口調で言う。 「優しいね、お師匠様」 彼の言葉に黙ってうなずく。自分のせいでサイファが余計な気遣いをしないよう、喧嘩を仕掛けたのはリィだった。サイファは気づかず乗せられ、喧嘩を売らされただけ。 「哀しくなってくる」 また失ってしまった。あの小屋にリィはいる。けれど会いに行くことなど。 「なんで? すぐそこにいるんだから遊びに行きなよ」 愕然とサイファは振り向く。ウルフの笑みが目の前にあった。 「全然気にならないって言ったら嘘だけど、お師匠様があんたに嫌な思いさせることもないと思うし」 「強がりを」 「うん。でもサイファ、俺が好きでしょ」 「……うるさい。黙れ」 ふっと視線をそらしたサイファに、今だけはリィが羨ましくなる。彼に対してだけは素直なサイファ。いつか彼のようなりたい。一瞬そう思う。そしてすぐさま否定した。リィはリィ、自分は自分。サイファにとって占める位置がまるで違う、と。 「サイファ、ごめんね」 「なにがだ」 謝られる覚えなどない。反って謝罪するべきは自分のほう。それを言えずサイファはぶっきらぼうに問うしかできない。 「お師匠様のこと」 「リィ?」 「うん。俺、知ってたから」 「なにを、だ?」 訝しく思う。リィの真の名を知ってたことか、それとも彼の出身を知っていたことか。見上げたウルフはわずかばかり言いよどみ、それから言葉を続けた。 「あんたがお師匠様、好きだったって」 何かが喉に詰まった。サイファは息を呑み、そのままウルフを見据える。視線をそらすことはできなかった。否定も今となっては無駄なこと。 「嘘を、ついていた」 ようやくそれだけを言えばウルフが笑う。厳しい視線を向ければ腕の中、抱きしめられる。無骨な戦士の手が、不器用に髪を撫でていた。 「嘘じゃないでしょ」 「どこがだ」 「だって、あんたなんにもなかったって言ったじゃん。それはほんとでしょ」 「……あぁ」 確かに事実だ。それを疎ましく思ったのも、事実だ。けれど、サイファは思う。何もなかったからと言ってウルフに嘘をついていないことにはならない、と。ウルフが聞きたいのはリィとどのような関係だったのかと言うことなのだから。だから嘘だとサイファは思う。愛し合っていた。互いがそれに気づかぬままに。 「あんたが嘘下手だって、よく知ってるって」 後悔と狂おしさに身を焼くサイファの心に染みる喉の奥で笑う声。内心を見抜き、それでも嘘が下手だと笑ってくれた。 いつから彼は知ってたのだろうか。自分の不実をそれでも許してきたのだろうか。たとえようもなく苦しかった。 「こっち来てからさ、お師匠様があんたを好きなのはよくわかってたし、塔にいる頃からちょっとだけ気がついてたし。あんたがあの人好きだったのも知ってた。だからさ、ここでお師匠様に会ったの、かなりきつかったんだ、ほんとはね。あんたにしたら恋焦がれた人だしさ。あのままお師匠様んとこ行っちゃうのかなって、誤解してた、ごめん。でもさ、悪いけど済んだことでしょ。今は俺といる。だからいいの。黙っててごめんね」 「謝るのは……」 「俺だよ、サイファ」 「違う」 「いいから、俺だってことにしときなって」 「それほど言うならそういうことにしておいてやる」 「うんうん、それでいいの」 軽く、言われてしまった。サイファは言葉もない。大切なことのはずだった。ウルフはつらくなかったのだろうか。そんなはずはない。彼を苦しめてきたのは自分。下手な嘘で彼を悩ませてきた。 「あんたが好きだよ、それでいいんだって」 「なにがだ」 「俺はあんたが好き。あんたも俺が好き。他に何がいるの? あんた、長生きなんだから昔のこと問い詰めたって不毛じゃん」 「そういう、ものか?」 不思議に思ってつい、見上げてしまった。優しい茶色の目が和んでいた。変わったものだ、と思う。ついこの前までは自分より背も低かった少年。ゆったりと抱きしめるまでに伸びた背より、懐の深い目が彼の成長を語る。 「お師匠様にも言ったでしょ。俺があの人に勝てるのは、あんたに好かれてるってとこだけなんだから」 他にもたくさんある。サイファは声に出さず笑った。何もかも捨てて自分を選んでくれた。ずっと側にいる、誓ってくれた。 「そうやって、勝ち負けを決める辺りで負けてるな」 言葉とは裏腹に目許を和ませサイファは言う。ウルフにはそれで通じたのだろう。わずかに残っていた緊張も、消えた。 「あんたが好きだから、あんたの一番でいたい。変?」 「なにをいまさら」 一蹴し、サイファはウルフの腕を抜け出した。ゆっくりと伸びをする。リィとの諍いも、大気に溶けていくようだった。 リィは許された、そう感じているらしい。精神の接触がなくともおおよそは見当がついてしまう。けれどサイファは思う。許されたのは自分のほうだ、と。リィにも、そして誰よりもウルフに。 素直にそれが言えるようになるには、あとどれほど時間が必要なのだろう。リィと出会ったときは子供だった。ウルフと会ったのは、もうひねくれたあとだった。 最初に会いたかった。わずかに思う。けれどウルフとはじめに出会っていたならば、こうしてはいられなかっただろうことも理解している。 「お師匠様はあんたの初恋だね」 「ウルフ!」 「うん? なに?」 「恥ずかしいことを、言うな」 「だってそうでしょ」 「……否定はしない」 「あんたが人間だったらね、そんなに恥ずかしがるようなことでもないんだけどな」 まるでたいしたことではない、と言いたげなウルフの言葉に反感を持つ。誰が許しても不実だった自分をそう簡単に許せるものではない。 「人間だったら、だいたい通ってくる道だしさ」 「お前は」 「俺? ちゃんと好きになったのはあんたが最初」 「ほら……」 「だって、あんたに会ったの、まだガキの頃だもん」 「それがなんだ」 「だから、俺は例外だって言ってんの。わかる? 一般論として、人間だったらたいてい初恋は実らなくって、何度か誰かを好きになってって繰り返すんだって」 「……本当にお前は意外なことばかりを言う」 「どこがだよ」 気分を害したよう、ウルフは唇を尖らせ座り込む。あからさまに拗ねて見せる辺りが愛おしい、とは決して口にはしないがサイファが常々感じていることだった。 「一般論? 歴史の講義が好きだった? 遥か以前に見たことがある肖像一枚でリィの正体を知った? 他にも言うか?」 「いいよ、もう」 「お前は馬鹿でも愚かでもない」 口許をほころばせ、サイファはウルフの隣に腰を下ろす。その肩をウルフが抱いた。 「あんたが知ってればそれでいいの。それに頭が働くのはあんたに関してだけだし」 「充分だ」 胸の中が、温かくなる。平穏も、捨てがたいものではあるけれど次になにが起こるかわからない彼が、好きだった。 「話がそれちゃったじゃんか」 「そうだったか?」 「それてんの。だからね、俺が言いたいのは、前になにがあってもあんただし、今のあんたがあるのは、前になんかあったからでしょ。それで俺と会って、一緒にいて――」 「もういい」 「よくない」 「いい、ウルフ」 言い募るウルフの言葉は必要ではなかった。首を傾けて彼を見上げる。黙ってウルフがくちづけた。それでいい、とばかりサイファは彼の首に手を当てて引き寄せる。 「あんたが、好きだよ」 言葉一つ。要らないはずの言葉一つ。それで罪悪感も何も溶けていく。いまここにいる自分でいい、ウルフのくれた言葉。サイファはそっと微笑んだ。 「サイファ」 「なんだ」 「お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」 わざとらしい言い方にサイファは唇を緩めた。どうしてこうも自分に関わる人間たちは甘やかすのが巧いのだろう。 ふっと気が軽くなる。リィは態度ひとつで師であり続けることを示した。いつでも甘えられる場所をサイファに残した。何も変わらない。ただ一つ違うのは、これから彼は自分の思いを隠そうとはしないだろうこと。それでいいのだと、ウルフまでもが言う。 「勝手に言え」 だから、聞く気になった。せめてもの謝罪に。罪悪感が消えても、彼を悩ませた事実まで消えるわけではないのだから。 「んー、あれさ」 そうウルフが指差したのは大量に積み上げられた材木。サイファは腕の中で忍び笑いを漏らした。 「笑わないの」 「すまない」 「あれさ、なんとかしてくれると嬉しいなぁって」 「手に余るか?」 「多少ね。でも、それより囲いがあったほうが……その……」 ついにサイファは盛大に笑い出す。不機嫌に黙り込んだウルフのそっぽを向いた顔が赤かった。 「時間はいくらでもある。のんびり建てればいい」 わざとらしい言いぶりでからかえば、声も返ってこなかった。手近な小石を拾っては川に向かって投げ捨てる。 「どうした、ウルフ?」 向こうを向いたままの彼は、きっと唇を尖らせているのだろう。思えばたまらなかった。背中に寄り添い、サイファは彼の胸へと腕を回す。 「あんたが嫌だろうなって思って言ってんのに」 不満そうな声。いささか意外だった。覗き込めば目をそらす。 「ウルフ」 返事をしない代わりに彼はサイファの腕を引き、自分の前へと抱きなおす。 「あんたが欲しい。でも、ここじゃ嫌でしょ」 はっきりと言われてサイファは口ごもる。目許を伏せることで半ば肯定に代えた。 「ほら」 「違う」 「なにが?」 サイファの好きな拗ねた口調。大人になっても変わらないのは、きっと自分が好んでいると知っているせいだ、そう思う。 「別に、かまわないが」 彼のよう真正面から言うのは気恥ずかしい。今度そっぽを向くのはサイファの番だった。 「いいの?」 「うるさい」 「でも、あんたさ」 「黙れ、と言っている」 ウルフが何かを言い出すより先、サイファは彼を黙らせた。 |