ただ唇を重ねているだけ、それがこんなにも充足感をもたらす。ウルフは少し、驚いた。きっと、サイファがリィから習ったという精神の接触のせいだ、そう思う。
「あってる」
 不意に言われて思わず唇を離してしまった。
「どうした?」
 からかうような口調。ウルフは心の中でリィにそんなところが似ている、思った途端軽く叩かれたような気がした。無論、サイファは動いてなどいない。
「んー、いまのって心の中?」
「そうだ」
「俺にもできる?」
「やってみればいい」
 彼を抱きしめ、ウルフは気持ちを集中する。柔らかい声のようなものが響いて、ウルフの心を引き込んだ。
「そんなに硬くなるな」
 声は心の中で聞こえる。サイファの甘さを含んだ声。現実の、耳で聞くそれよりずっと甘いのはおそらくウルフの心の耳にだけ聞こえる声だからだろう。
「サイファ」
 呼んだつもりなどないのに、自分の声が彼の心にこだまする。どこかくすぐったい。理性の剥ぎ取られた、奥底からの呼び声だった。
「あ、わかった」
「なにだが」
「ん。あんた、お師匠様といるとすごく安心する」
「なにを今更」
「でも俺といると不安だよね」
「だから?」
「そんだけ俺のこと好きなんだな、と思って」
「……言葉の定義が違うのか? 何を言っているのか理解できない」
「嘘ついて。わかってるくせに」
 いつの間にか声に出しての会話ではなくなっていた。ウルフの飲み込みのよさには呆れてしまう。
 彼が言ったのは、紛れもない事実だった。彼が好きで、いつかどこかに行ってしまうのではないかと不安でたまらない。それを知られた羞恥より、知ってくれた温かさのほうがいまはずっと強かった。
「あんたのそういうとこ、可愛いな」
 からかっているのでも冗談でもない、ウルフの心からの声。サイファは反論せず、ただ彼の心の表層を軽くなぶるのみ。
「ん……」
 とろりとした声がサイファに響いて思わず引き込まれそうになる。
 ウルフの中、かすかな嫉妬を見つけた。こんな風にリィと過ごしていたのか、と。すぐさまサイファは否定する。このような触れ合い方をしたことはない、と。
「ほんとに?」
 薄く笑う声に含まれた寛容。嘘と知っていて、ウルフは受け入れた。
「サイファ」
 手近に放り出したままの毛布を引き寄せ、ウルフはサイファのローブを脱がす。外気にほんのり震えた。
「恥ずかしい?」
「わざとらしいことを」
 少しばかりそむけたのは、気恥ずかしいから。それでもサイファは視線を戻し、ウルフの頬に手を触れる。
「ごめん」
「なにがだ」
「伸びてるでしょ、その……」
「いい」
「嫌いなんじゃないの」
 嫌がることを承知で不揃いに伸びた無精ひげをサイファの頬に寄せれば上がる悲鳴。
「それは嫌だと言っている」
「でしょ? だから」
「ウルフ」
 軽く彼を押し戻し、両手で頬を包んだ。
「触るのは、本当は嫌いじゃない」
「そっか」
「そうだ」
「うん」
 そのままウルフはサイファに唇を寄せ、くちづける。自分ひとりが肌をさらすのを嫌がるよう、サイファはウルフの服に手をかけた。
「なにがおかしい」
 くちづけの合間に漏れた笑いをサイファは咎め、彼の耳に歯を立てる。大袈裟な悲鳴。じゃれるよう、謝罪の代わりに頬にくちづけ。
「あんた、変なとこで不器用だから」
 自分でするよ、そう言ってウルフはするりと服を脱ぐ。鍛え上げられた体。目にするたび、目をみはる。シャルマークの頃のよう、まだ発達途上のそれではなく、すでに大人の男の体をしている。
「そんなに見たら恥ずかしいでしょ」
「お前が?」
「あんた、見られるのは嫌なくせに」
「見るのも嫌いだが」
「俺のは見てるじゃん」
「お前だけだ」
 言った途端、サイファは顔をそむけた。言うつもりもなかった言葉が口をついてしまう。案の定、ウルフが莞爾とした。
「そっか」
 ただそれだけを、どうして彼はこんなにも嬉しそうに言えるのだろう。仕方なくてサイファは彼のしたいまま、くちづけを受ける。次第に熱の篭るそれが肌をなぶる風を忘れさせた。
「サイファ」
 うわ言のような呼び声。サイファは答えなかった。肌の上、ウルフの指が這っている。呼んだと思ったらまた唇を塞がれた。
「ん……」
 ふわり、体が浮いて何事かと目を開ける。はっとした。一気に熱が引く。
「下ろせ」
 ウルフの膝の上、抱え上げられている。膝を開いて跨がされるなど、いくらなんでも恥ずかしすぎる。
「あんたは動かなくっていいから」
「そう言う問題……」
 抗議は最後まで聞かれることがなかった。ゆっくりと這っていた指が、性急さを増す。
「こうしてて、いいよね?」
 言葉を返す余裕など、なかった。不器用はどちらだ、心の中で罵った。ウルフの精神の接触は、サイファからすれば頼りなくてじれったい。小指だけで心の表面を撫で回されるのにどこか似ている。
「離せ……」
「そうは、思ってないの、わかってるもん」
「ウルフ!」
 目の前で、熱に浮かされた目が溶ける。映っていたのは、彼と似た自分の目。見たくなくて目を閉じれば腰を抱えられた。わずかな緊張。サイファの喉が仰け反る。
「く……」
 ウルフの喉も、声を上げる。つらいのはどちらなのか、いつもほんの少しそう思う。思ったそばから抜けていく。
「サイファ……」
 哀しいような苦しいようなウルフの声。彼を抱きしめずにはいられなかった。抱きかかえられたまま、体を繋げたまま、心も繋がったまま。ウルフをサイファで包み込む。
「動くよ」
「一々言うな、馬鹿」
「だって」
 いいわけ半分、ウルフが笑う。サイファも笑み返そうと思った途端、体が揺すられた。声にはならない呼吸の音ばかり。
「サイファ」
 ウルフの心がサイファのそれをも愛撫する。頼りない手つき。体のそれよりもずっと。
「ウルフ、離せ」
「いやだもん」
「これ、嫌だ……」
 子供のよう、首を振るサイファをウルフは口許をほころばせて見ていた。本気ではない、この接触とか言うものにはずいぶんいいことがある、と。
「どうして、いやじゃないでしょ」
 ひときわ強く揺すり上げれば、言葉にならない悲鳴が返る。
「じれったい、入ってこい、馬鹿!」
 けれど心の声は強くウルフの中に響き渡った。何かを理解するより先、サイファの心の中に連れ込まれた。
 襲い掛かってくる強烈な快楽。サイファの心に愛撫されていた。これでは叱られるのも無理はない、とはあとになって思ったこと。
「ん、サイファ……、待って」
「待たない」
「だめだって、俺」
 止めようといつの間にか瞑っていた目を開けば、サイファの潤んだ目。半ば開いた唇にウルフは物も言わず噛みつくようなくちづけを。
 絡まりあう舌が、まだ足りない、もっと欲しい、と。これほどまでの充足など、知りはしなかった。そう感じているのはウルフのみならず、サイファもまた。
「だめだ。サイファ……ごめん」
 ウルフが腰を突き上げる。仰け反るサイファの腰を両手で支え、もっと奥を欲しがった。苦しげな声をウルフの喉が絞り出し、サイファの中のウルフが熱を増す。
「あ……」
 叩きつけられた熱に、サイファもまたウルフに向けて熱を放った。汗に濡れたウルフの肌。抱きしめる彼の腕。何より心の中、圧倒的なまでのウルフの存在感がある。押し寄せる彼の心にサイファはそのとき、意識を放り出していた。

「あ、よかった」
 薄く開いた目に何かが映る。何かではない、ウルフだと、気づいた。
「私は……」
「ごめん」
「なにがだ」
「その、加減がわかんなくって」
 それで思い出した。それについ、笑ってしまう。ウルフの不満そうな声が心に響き、まだ繋がったままだと知る。
「生きてんのは、わかってたんだけど」
 見上げた目は、いつもどおりに笑っている。けれどウルフの心の中、思っていることは違った。
 自分と同じよう、不安に慄いている。いつかサイファがどこかに行ってしまうかもしれない。そう思っている。不意にこれが恋をすると言うことなのだ、と悟った。
「あんたが好きだよ」
「知ってる」
「たまには好きだって、言って欲しいってのも知ってる?」
「知ってる」
 笑いを含んだサイファの声にウルフは溜息をつき、そっとサイファを抱えなおした。寒くなどない、きっとそう言うはずだけれど、まだ素肌のままの彼の体を背後から抱きしめる。
 触れ合う肌のぬくもりが、心地良かった。サイファは文句も言わず黙って微笑んでいる。二人の体をウルフは毛布で包んでふと目を上げた。
「あ……」
「なに?」
「夜明け」
「きれい」
「ね?」
「ん」
 指差したのは淡くかすんだ明け初めの空。そのままウルフは驚きに強張った。
「ウルフ?」
 悪戯をするような目が、自分を見ていた。
「ん、なんでもない」
 はぐらかしたのは、もう少しだけ、自分の心にしまっておきたかったせい。サイファの甘えたような声音。それで通じると思ってくれた短い言葉。
「世界が違っても、夜明けは綺麗なんだなってさ」
「嘘つけ」
「ほんとほんと」
 喉の奥、サイファが笑う。振り仰いで見かわせば言うまでもないことだと心が伝える。また一晩分、伸びてしまった無精ひげにサイファは手を添え微笑んだ。
「好きだよ、お前が」
 一瞬硬くなり、それからウルフの笑みがとろけた。返す言葉などどこにもない。必要なのはただひとつ。
 くちづけをかわす影の上、夜明けの曙光は力強さを増し新しい一日が始まる。永遠に続く毎日の、そのひとつが。




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