小首をかしげてウルフはリィを見た。聞きたいことはあるのだが上手に言葉にならない、と言うところか。
「早く言え、若造」
「あ、ごめん。んー、どこから聞いたらいいのかなぁ」
「最初から話して最後まできたらやめればいい」
 言葉面は茶化しているのにリィの声音は冷たい。サイファはその事実に顔色を変えた。リィのそのような口調など、一度しか聞いた覚えがない。そしてそれは最悪の形だった。
「そりゃそうだね」
 リィの冷たさなど、まるで意に介した様子のないウルフがへらへらと笑い声を立てた。サイファの顔に血の気が戻る。
 わざと、やっている。時間稼ぎのつもりだろう。時間さえかければ、サイファは自分で呪文の影響下から脱することができる、と。
 だが、ウルフは間違っていた。真の名を用いてかけられた魔法はそう易々とは解けない。時間をかけたからと言ってどうなるものでもない。現時点でサイファには打つ手がなかった。
「真の名ってさ、魔法? 呪文? それ使うとサイファでも魔法かかるの?」
「神人の子らに魔法がかかりにくいのは知ってるみたいだな」
「うん、知ってる」
「真の名は彼らであっても支配できる。人間ならば易いこと」
 ふっとリィの口許に笑みが浮かんだ。
「こんな風に」
「え……?」
 サイファが警戒する間もなかった。リィの高速詠唱は、サイファよりもさらに速い。
「動くな、カルム・ラピス」
 が、詠唱ですらない。ただ、真の名をもって支配しただけ。薄い笑みがリィの唇を彩っている。
「リィ、どうして!」
 彼がウルフの真の名を知るはずなどない。サイファから読み取ることも、ウルフから読み取ることもできたはずがない。彼とは精神を奥深くまで繋げたこともないのだから。再び血の気を失った顔をしてサイファは叫んだ。
「心配するな、お前からじゃないさ」
「どうして」
「それは、知らなくていいこと」
「リィ! 教えて」
「どうしようかなぁ」
「言って」
 まるであの頃に還ったような言い合い。こんな緊迫した状況でなかったならば、それを楽しんだことだろうに。そう思えば唇を噛みたくなってくる。
「内緒」
 唇の前に指を一本立ててリィが笑った。サイファに向けていた優しい視線がウルフに向けられ、一変する。それをどう感じているのか、ウルフは動けないことを確かめるよう、瞬いていた。
「うわ、ほんとに動けないんだ」
「当たり前だ」
 言って馬鹿馬鹿しいとばかり拘束を解いた。それにも素直に喜ぶウルフが忌々しかった。
「じゃあさ、反対も出来るの?」
「反対?」
 驚いているのかいないのか、ただ遊んでいるだけのように見えるウルフにいささか疑問が湧く。が、リィは絶対的な優位を意識していた。
「俺、馬鹿だから巧く説明できない。だからさ、例えば今だったら、サイファがあんたの真の名を知ってたら、サイファが動けるようになったりするわけ?」
「あぁ、そういうことか。可能だな」
 その時だった、ウルフの目の色が変わる。
「ルーファス・ラズリ!」
 ウルフの叫んだ言葉。サイファの意識に、なんのことだか理解できないまでもどこか細波を立てる言葉。が、一瞬にしてリィの顔色が変わった。
 彼の真の名。ためらうより先にサイファは呪文に組み込む。
「ちっ」
 リィの舌打ち。かまう余裕はない。複雑にかけられた魔法を解除する。
 しかしリィがわずかに速かった。ウルフの片手を掴む。その手は噛み破った指先から流れる血で汚れていた。
「リィ!」
 詠唱が完成する。ウルフの爪がどす黒く変わる。そして見る見るうちに元の爪の色へと戻った。
「なにを……」
 走り寄り、ウルフの手をとる。突然、魔法から開放されたウルフの足下が乱れた。片手で彼を支えながらサイファはリィの魔法の正体を探る。
「リィ。あなた、私に嫌われたいんだったら、ずいぶん婉曲なやり方だね」
「そう言うつもりじゃないけどな」
「だったら、どういうつもりだって言うの!」
 呪文の性質を知ったサイファがリィに詰め寄る。それをウルフがそっと押さえた。
「サイファ、これって何?」
「呪い」
 一言で答えた。ウルフが首をかしげる。呪われた感じはしない、と顔が語っている。
「正確には、禁じられたことをすると呪いが発動する」
「禁じられたことって?」
「可愛い俺のサイファを一度でも悲しませたら、石と化す。その場で砕けて消える」
 笑っているのに、冷ややかなリィの声。サイファは黙って彼の前に対峙する。
「じゃ、なんの問題もないじゃん」
 二人の魔術師は呆然とウルフを見た。事態の把握ができていないとしか、思えなかった。
「俺があんたを泣かせる? そんなことあるわけないでしょ」
「……もっともだ」
 溜息まじりのサイファの声にウルフは晴れやかに笑った。リィ一人が立ち尽くす。
「ねぇ、リィ。この馬鹿は人間であることをやめてまで私についてきた。あなたは?」
 生を賭けて、友を捨て、人の世から離れ。ウルフは自分と共に生きることを選んだ。リィは一人で探した。そして死んだ。
 リィは言葉を持たなかった。完敗だ、そう思う。否、そう思いたいからこそ、ウルフにギアスをかけたのかもしれない。完膚なきまでに叩きのめされなければ、サイファを悲しませることになるのはこの自分。
「ねぇ、リィ。ウルフの真の名。どうして知ってたの」
 それ以上追い詰めないサイファの心遣いがいまは恨めしい。いっそ憎いと言ってくれたならばどれほど。
 そして気づいた。すべてサイファのせいにしていた。あの頃も、今も。サイファが子供だから、黙って耐える。サイファが憎むなら、身を引こう。何もかも、サイファのせいに。
 もしもあの頃サイファに思いを告げていたならば、彼の言うとおりだっただろうとようやく素直にうなずける気がした。誇りでもなく、苦味でもなく。ただ体に染みとおる事実として。
 新しい弟子を見るたびに幼い嫉妬をした彼のこと。自分の傍らで眠る彼のこと。まっすぐに視線を向けて言ったたくさんの言葉。
「お前が、好きだったよ」
 ぽつりと言ったリィの言葉。それをサイファは誤解する。はぐらかされた、と感じたのだろう。わずかに唇を引き結んだ。それがいっそう、あの頃を思いさせてリィはつらくなる。永遠を生きるとしても、時間は還らない。
「リィ。話して」
 惰性でうなずいたリィの視線をウルフが捉える。彼もまたまっすぐな視線を持っていた。
「俺も聞きたいんだがな。若造」
「別にいいけどさ、言っていいの」
 ウルフの言葉に含まれたもの。サイファに聞かせていいのかと問う言外の声。知らず苦笑が浮かんだ。
「どういうことだ、ウルフ」
「別にー。お師匠様が話してくれるんじゃない?」
「よく聞け若造。私はお前を馬鹿だと言うが、さほど愚かだとは思っていない」
「うん、知ってる」
「愚かな演技はほどほどにしておけ、馬鹿」
「……どっちだよ」
 小声で悪態をつく辺りが哀しい。サイファが聞こえている、とばかりかすかに眉を上げて見せれば、ウルフは肩をすくめる。
「話してやるよ、可愛いサイファ」
 半ば呆れてしまった。ウルフはひとつだけ勝っている、そう言った。正にそのひとつは最強の手札だった。
「なに?」
 まだ険悪な表情をしているのは、呪いをかけたことを恨んでいるからに違いない。呪文を探ったならば、解除の方法も見つけていることだろう。それが余計サイファを苛立たせているに間違いはなかった。
「お前、怒るだろうからなぁ」
「リィ」
「うん?」
「言わないで怒られるのと、言ってから怒られるの、どっちがいい?」
「一般的には、言わないで怒られるほうを選ぶだろうな」
「あなたは?」
 サイファが微笑んだ。ようやくと言うべきか、それとも突然と言うべきかリィは惑う。そして知った。サイファに許されている。顔を覆いたくなる片手を、リィは耐えた。
 あれほど苦しんだというのにサイファは逃げた自分をまだ特別だと言うのか。間違いがない、そうリィは思う。ウルフに向けるのとは別種の愛情を彼に寄せられている。仄かな痛みとぬくもりを感じる思いだった。
「……話してから怒られることにしよう」
 わざとらしい溜息まじりの言葉。サイファが声を上げて笑う。それで、元に戻った。何もなかったことにはできない。しばらくは顔を合わせるたびに緊張することだろう。けれどサイファは自分を見捨てずにいてくれる。それで、リィには充分だった。臆病で卑怯だった自分には、過分だ。そう思うことにした。
「その若造は、俺の直系の子孫になる」
 放った言葉にサイファが息を呑む。もう少し柔らかく言いたかったが、一度で理解したほうがまだしもだろう。
「どういうこと、子孫? リィの? 子供、いた?」
「お前に逢う前にな」
 苦笑するリィの言葉がサイファの理解力を奪う。自分と出会う以前に子供がいたのはいい。けれどウルフはミルテシアの。
「リィ、あなた……」
 言葉が巧くまとまらない。そんなはずはない、と振りたい首が動かない。
「念のために言っておくと、即位はしていないからな」
 疑ったことをすぐに指摘される。信じたくないことを言われた気分だった。
「ごく若い頃に結婚させられて、娘が一人いた」
「それが、ミルテシア初代女王・アデルハイト姫、だよね?」
「よく知ってんな、お前……」
「歴史の講義は嫌いじゃなかった」
 にやり、ウルフが笑う。呆気に取られてサイファは言葉もない。
「迂闊だったね、ルーファス王子」
 嫌がらせだろう、わざとらしくウルフがリィを呼ぶ。
「なにがだ。まず、それやめろ」
「了解。あんた、痕跡消したつもりだろうけど、肖像画が一枚だけ残ってたよ。だから、サイファのお師匠様の姿を初めて見たときは驚いた。心臓止まるかと思ったもん、俺」
 大袈裟に胸を押さえてウルフが笑った。




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