息を呑む音が二つ。サイファは溜息をつく。ウルフには隠しておきたかった事実。彼には、ずっと師とはなんでもない、誤解だと言い続けてきた。それもまた事実ではある。 「サイファ、お前……」 「好きだったよ」 伏せていた目を上げれば見えたのはリィの苦い笑み。彼は短い言葉で理解していた。 「だった、か?」 「そう」 「あの頃……」 「覚えてる、リィ? 私、あなたが大好きだった。子供だったからね、わからなかったけれど、大好きだった」 「それとこれと、同じか?」 「同じだって、気がついたのが最近」 「最近ってのは、それか」 「そう。ウルフと暮らし始めてから」 そっとウルフを見上げた。感心にも聞かないふりをしている。あからさまに遠くを見やった視線がいかにも嘘くさかった。 「ねぇ、リィ。どうしてあなた、何も言わなかったの」 「どうしてって、そりゃ、お前が子供だったから」 「そうだね、子供だった。なんにもわかってなかった」 「だろ? だから――」 「教えてくれればよかった」 リィは目をみはる。サイファが何を言ったのか、まるでわからなかった。彼の言葉が空中で崩壊して耳に届かない。意味もない音の連なりにしか聞こえない。 「あなたが教えてくれればよかった」 「サイファ……」 「あなたが好きだった。教えてくれれば、わかったと思う。いまでも思うよ。あの頃の私があなたを拒んだはずがない」 じわり、体の中にサイファの言葉が染み込んでくる。それは強烈な痛みを伴っていた。 「……できなかった」 「どうして」 「子供相手にそんなことが言えるか!」 「あなたが教えればよかったって、言ってるじゃない」 「教えられたかったのか、サイファ。俺を……」 「教えて欲しかった。あなたが大好きだった。なんにもわからないであなたに死なれて、一人きりで放り出されて、おかげで私はあなたの塔が崩れるまであそこに座ってる羽目になった」 目を閉じれば浮かんでくるあの情景。今ここにリィがいても痛みは消えない。 「便利なんだか、不便なんだか。寝なくても食べなくても、死ななかった」 一人きり、冷たい塔の中にいた。魔力の絶たれた塔は、当たり前の石造りの建物より早く崩壊を始めた。 「あなたの本をだめにしたくなかったから、仕方ないから引越したの」 埋まってしまってもよかったんだけどね、そう言い足したサイファの手が強く握られる。サイファは隣も見ずに握り返した。 「俺が、好きだった?」 「好きだった。……聞き流せよ」 言葉の後半はウルフに向けてだった。了解、の合図だろうか、また手が握られる。ちらりと窺えばやはり目は遠くを見ていた。 「あなたがいてくれればね、リィ。私はだれも要らなかったの。あなたがもしずっと一緒にいてくれたなら、たぶんウルフには会ってなかった。私の隣にいたのはあなただった。……たぶん、じゃないね。間違いなくウルフに会うきっかけさえなかったと思うもの。あなた以外に誰か欲しいなんて思うはずがない……なかった」 溜息まじりのサイファの言葉。ウルフが一瞬、緊張したのが手を通さなくても伝わった。黙ってサイファは彼の手を握る。 「無茶、言うなよ」 「どこが?」 「俺は、人間だ」 「だから? ウルフは一緒にいるよ、今ここに」 サイファの言葉にリィは貫かれる。言い分がないわけではない。共に生きる方法を考えなかったわけでも捜し求めなかったわけでもない。けれど、結果はひとつ。 「ねぇ、リィ。ここにくるには、強い意志が必要なんだね」 「そう、だな」 サイファの言いたいことがわかってしまいそうでリィは曖昧にうなずく。 「ウルフは人間。死すべき定めの人の子が、死なない決心をするのは大変だったと思う。想像ができないけど。ウルフは、したよ」 「俺は、できなかった」 「あなたは私が子供だから、自分が人間だから」 「逃げたんだな……、お前から」 少しばかり哀しい顔をしたサイファがいた。 「私からじゃなくて、自分から逃げたんじゃない?」 呟くようなその言葉。リィは現実を直視する。あの時サイファを導いていたならば。言い訳などせず、素直に愛していると言ったならば。 今ここにウルフはいなかった。自分で自分の幸福を、壊した。遥か昔、共に過ごした幸福の時代。サイファがもしも大人になったとき自分が側にいたならば、彼の隣にいるのは自分であるはず、そう抱いた確信は間違ってなどいなかった。いまさら知っても苦いだけ。 「それでも」 「リィ」 「待て、サイファ」 「待たない。諦めてとは、言ってないからね」 「おい」 「呆れなくてもいいでしょ」 言ってサイファは笑った。リィは歪みそうになる唇をせめて笑いの形に歪めた。 「若造が、嫌がるぞ」 嫌がらせのようなその言葉。ウルフがそうだと言ってくれたならどれほど楽か。リィはまだ逃げている。卑怯で怯懦な自分を見たくない。大人のふりをしてサイファから逃げた。あの頃も、そして今も。 「俺は別に?」 リィの希望は打ち砕かれる。愕然とウルフを見たのはけれど、リィではなかった。 「ウルフ?」 サイファの驚きの目にウルフは唇を尖らせて見せる。心外だとばかりに、わざとらしかった。 「無理をするな」 「してないって。お師匠様はあんたの特別」 今度の驚愕はサイファからではなかった。呆れたようウルフはリィを見た。そんなこともわからないのかと言いたげな目に、一瞬リィは頭に血が上りそうになる。 「あんたは、サイファの特別なんだって」 確かめるよう、もう一度。ウルフが言った言葉が染みとおる。 「気がついてるでしょ、お師匠様。サイファ、あんたに話すときと俺に話すときと全然違うじゃん。それだけあんたは特別なの」 「……ウルフ」 「でも、俺も特別だけどね」 言って不安そうに声をかけてきたサイファに視線を落とした。 「俺と一緒にいるのはあんたにとってはたかが十何年かだよね、お師匠様は?」 「三百年くらい」 「んー。勝てないよなぁ」 「そう言う問題か」 「ん。ていうかね、俺とお師匠様と並べてみなよ、どっちが人間として出来てると思う?」 サイファは答える言葉を持たなかった。ウルフはそのことにがっくりと肩を落として見せ、けれど笑う。 「だから、お師匠様に勝てるなんて思ってない。でも俺ね一個だけ、勝ってる」 「なにがだ」 サイファにはウルフの言いたいことがわかっていた。あえて聞いたのは、リィに聞かせるためだったのかもしれない。 「俺はあんたに愛されてる。俺の取り柄なんてそんだけ」 にやり、笑みを作って言ってウルフをサイファは殴らなかった。覚悟の上で言ったウルフは多少、拍子抜けする。改めてサイファを見た。この上もない顔を、していた。 「充分だろ」 苦い声がサイファの代わりに答えた。 「そう思うよ」 「自信家だな」 「じゃなきゃ、世界の壁を一緒に越えようなんて言えないって」 「そりゃ、そうか……」 茶化したのは、ウルフの虚勢。口で言うほど自信などない。あるいはサイファへの優しさ。ウルフは知っている。サイファが誰よりも、もしかしたら自分よりもリィが大切なのだと。そのリィを苦しめるのがつらくないはずがない。 これはサイファなりのけじめだった。今なお自分を愛するリィがいる。三人が、どこにも進めなくなってしまうその前に。 「若造」 「なに?」 「ちょっと来いよ」 同情と言えばリィは怒るだろう。だが、素直にサイファの手を解いて従ったのは、たぶんきっと同情だ。 「可愛いサイファ、許せよ」 隣に来たウルフの手を掴む。はっとする間もなかった。サイファが身構えるより先に魔法が飛んでくる。半ば、侮っていたのは事実だ。人間の魔法がかかるはずはない、と。たとえリィ・ウォーロックであろうとも。 「え……」 動けなかった。馬鹿な、と思う。ウルフがリィの横で顔色を変えた。咄嗟に振りほどこうとする腕はほどけない。 「リィ」 何をしたのか、問いたかった。動けない事実より、そのほうが気にかかるのは魔術師の性と言うべきか。本気でリィが自分を害するはずがない、信頼の証とも言える。 「聞こえなかったか?」 薄い笑い声。その事実に背筋が冷えた。思い出す、詠唱に混じったひとつの言葉。リィの詠唱を聞き取る癖がついている。それが幸いした。 「名前……」 「こういうことがあるから、真の名を教えたりするもんじゃない」 「どうして!」 わからなかった。リィは人間だ。なぜ、自分の真の名を発音できるのか。 「俺は人間じゃないよ、可愛いサイファ」 「どういうこと」 「幻魔界の生き物ってことだな」 「ウルフも、だね?」 「あってる」 莞爾としたリィにサイファは納得のいく思いでうなずいた。道理ですぐに精神の接触が巧くいったはずだ。そしてあの時の堕天使の言葉が蘇る。ウルフの選択はすでになされた、と彼は言った。彼はすでに人間ではない、とも。幻魔界の生き物である、と言うことがようやく理解できた思いだった。 「さて、若造」 サイファとの会話を打ち切ってリィはウルフに向き直る。ゆっくりと笑みが広がった。 「その前に、ちょっと質問」 事態をまるで理解していないとしか思えないのんびりとしたウルフの声に気を抜かれたようリィは肩をすくめる。それから言ってみろとばかり片手を上げた。 |