精神の接触は感心にも保ったままだった。それだけは褒めてやってもいい、サイファは思う。まだ目の前で呻いていたけれど、生憎と繋がったままの心はさほど痛くはない事をサイファに知らせてしまっている。 「サイファってば」 「言いたいことがあるなら、聞かなくはないが？」 「もう、ほんと可愛いね」 「まだ殴られ足らないか？」 「んー、て言うか、なんで俺、殴られたの？」 　あっけらかんと言われてしまった。やはりもう一度殴っておくのだったと後悔してももう遅い。すっかり気が抜けたサイファは接触を断ち、ウルフの髪を乱暴にかき回すことで苛立ちを収めた。 「ああいうことは、口に出すな、馬鹿。恥ずかしい」 「……サイファ？」 「なんだ」 「なんか、その。誤解してない？」 　言葉もなく振り上げた手をウルフはあっさり掴み取る。怒りに、と言うよりはむしろ羞恥に震えているサイファを見てようやく失言を知った。 「気をつけます」 「よろしい」 「……できるだけ、ね」 　いたずらをするよう言い足したウルフにサイファは溜息をついて見せた。が、ウルフは彼の目がいつになく和んでいるのを見てしまった。それほど充足感のあるものなのだろう、と思う。 　曖昧な言葉などと言うものに頼るよりよほど、確実に思いが伝わる。互いのことを理解しあうのに最も適した手段。こうしてリィと過ごして来たのかと思えばサイファが彼を慕うのも無理はないなどと思ってしまう。 「サイファ」 「なんだ」 「質問」 　片手を上げてウルフはサイファを見て笑う。何を問われるのかと思わず身構えてしまった。 「お師匠様に習ってたのって、これ？」 　ほっとしてサイファはうなずく。未熟すぎて何も見えなかったのだろうと今更ながら心に言った。 「はじめてにしては、上出来だ。練習しろ」 「わかってるって」 「どうだかな」 　投げやりな言葉とは打って変わってサイファは笑みを浮かべウルフを見つめる。それからリィを振り返って感謝の眼差しを投げた。 「ありがとう」 「どういたしまして」 　茶化して笑うリィの笑みにあるもの。ウルフは苦さを見て取った。サイファは気づかないのだろうか、不思議でならなかった。自分よりずっと彼のことを知っているはずなのに、と。 「なぁ、サイファ」 　ウルフに気を使ったのだろうか、少しばかり言いよどみながらリィはサイファを呼んだ。思わずそれをサイファは笑う。たしなめるよう、リィが軽く睨めば肩をすくめて見せる。 　少し、羨ましいとウルフは思う。いま経験したばかりではあったけれど、いま彼らの精神が繋がっていないことはわかるような気がする。それなのにほんの少しの動作、ごくわずかな表情の変化で彼らは互いの心をやり取りできる。いつかサイファとそんな風に過ごすことができるのだろうか。 「なに」 　物思いに沈んでしまったウルフを気遣うよう、サイファが軽く彼の腕に手を添えた。はっとしてサイファを見れば目許だけで視線を向けてくる。嬉しかった。 「ちょっと話があるんだけどな」 　リィのためらいがちな口調にサイファは面倒だとばかりに溜息をつく。 「今じゃなきゃだめなの」 「できりゃ今のほうがいいだろ」 「あとで……ウルフ抜きで」 　今度はサイファが言いよどむ番だった。リィが驚きに目をみはる。そしてかすかに首を振って自分の思いを否定した。 「お前、何の話だかわかってんのか？」 　紛れもないからかいの口調。サイファは騙されない、とばかり唇を引き結んでリィを見る。 「わかってるから、言ってるの」 　それからウルフをちらりと見て、サイファは彼の額に手を伸ばす。瞬く間に紡がれた呪文がウルフに流れ込んだ。途端に眠気が襲ってくる。瞼が合わさる、そう思ったときまたもや突然に睡魔は去った。 「リィ！」 　背後から、リィが対抗呪文を飛ばしたのだとサイファには知れている。今度は本気で睨みつけた。 「若造にも、聞く権利があると思うがな」 「聞かせたくない」 「若造」 「なに、お師匠様」 「お前、今ここで聞きたくない話を聞くのと、あとになって伝聞で知るのとどっちがいい？」 「そんなの聞くまでもないじゃんか」 「ほらな、聞かせてやれって」 「ウルフ。寝ていろ。そのほうが……」 「大丈夫。だいたい見当はついてるし」 　きっぱりと言ったウルフにリィのみならずサイファまでもが驚く。サイファを間に挟んでリィとはさりげない暗闘をしてきたのだから彼の表情はもしかしたら驚いたふりでしかないのかもしれない、そうウルフは思う。 　けれどまるで何もわからないようにサイファに思われるのは多少、心外だった。いま思い知ったよう、彼のすべてがわかるなど思ってもいない。けれどウルフはサイファを愛している。だから、彼に誰かが同じ思いを寄せればそれくらいはわからないはずがなかった。 「俺がわかんないと思ってたの」 　リィを見据えてウルフが言えば彼が苦笑と共にうなずく。それから悪い、と片手を上げた。お互いにサイファへ向けた演技だった。彼の前で醜い争いをしたいとは二人とも思っていない。 　それをどう理解しているのだろうか、サイファはまだ呆然とウルフを見上げていた。 「ウルフ、どうして」 「って言うか、あんたが知ってることのほうが驚きなんだけど。お師匠様、サイファって知ってんの」 「知らん、と思ってたんだが。間違ってたみたいだな」 「ねぇ、リィ」 「なんだよ」 「私、幾つだと思ってるの。あなたが死んでから何年経ってると思ってるの」 「それでも、だ」 　一度言葉を切り、リィはサイファを見つめる。それから唇が緩んだ。けれどウルフには歪んだように見えた。ほんの少し、胸が痛む。 　そして痛んだ自分に腹が立つ。優越感からくる同情でしかない、それをウルフは理解していた。 「いつ、気づいた？」 　苦渋の滲む声。ウルフは自分の喉が同じ声を出したことを覚えている。やはり、聞くべきではないのかもしれない。しかしリィが選んだのだ、自分に聞かせる道を。だからウルフはじっと耳を傾ける。 「ウルフと……暮らすようになってから」 「なるほどね」 「すぐには、わからなかったけど」 「それってお前……まぁ、いいか」 　苦笑するリィにサイファが頼りない顔をして笑った。いつの間にかウルフの腕に添えられていた手が、彼の袖をきつく掴んでいる。ウルフはそっとその手を外し、自分の手の中に包み込む。 「ねぇ、リィ。私、待ってたんだよ」 「なにをだよ」 「ここにきてから」 「だから、何を」 「あなた、お師匠様を続けるつもりなの。それとも違うの」 　リィは息を呑む。サイファからこうもはっきり問い詰められるとは思ってもいなかった。言葉を濁すつもりはなかったけれど、その言葉自体が出てこない。 「私はあなたに会えて本当に嬉しい。でも、あなたはどうなの」 　まるで甘く問われているかのようだった。後わずかでいい、それを味わいたい。リィは軽く目を閉じる。開いた目に映ったのはサイファの微笑。 「私は卑怯だからね。あなたがお師匠様するつもりなら、好きなだけ甘えてるよ」 「サイファ！」 「なに？」 「……自分を貶める発言はよくないって、言っただろ」 「あなたはどうなの」 「え？」 「あなたは、どうしたいの。私にどうさせたいの」 「言わないのは、逃げてるってか？」 　そういうこと。サイファはうなずきリィを見据える。 「……物凄く状況として、おかしいと思わんのか、お前は」 「どこが？」 「そこが」 　言ってリィは困ったようにウルフを指した。それにサイファが笑い声を返す。 「聞かせろって言ったの、あなただもの」 「自業自得だな」 「まったくね」 　溜息がリィの口から漏れた。ここまで直接にサイファに問い質されるとは思っていなかった自分の過ちだった。 「サイファ」 「なに」 　変わらないサイファが、ひっそりと笑みを刻んでいる。深い呼吸をひとつ。 「愛してるよ」 「知ってる」 「ずっと、お前が大事だった」 「知ってる」 「俺のところに、来ないか？」 「行くと、思う？」 「思っちゃ、悪いか？」 「悪い」 「なぜだ？」 「ねぇ、リィ」 　一度サイファは言葉を切った。それからウルフを見上げる。ウルフのほうがよほど困った事態だろう。たとえ知っていたとしても心安くしていられる話ではないはずだ。サイファの心遣いにウルフはかすかに微笑み、大丈夫とばかり軽く手を握り締める。 「ウルフ」 　サイファは決心して彼を呼ぶ。真実、聞かせたくないと思っていた。リィが聞かせたくないのは、自らの誇りゆえだろう。サイファは違う。ウルフに聞かせていい話では、本当にないのだから。 「なに？」 　しかしサイファは今のウルフならば、あるいはと思う。信頼しても大丈夫だと思う。彼ならば、いまの自分ごと受け入れてくれる、そう信じたかった。 「せめて聞こえないふりをしろ。忘れる努力をしろ」 「できるだけね」 「二度と話題に出すなよ、出したら……」 「あんたに嫌われるようなことはしないって」 　それなのに、そんな無茶な言い方しかできない自分が呪わしい。ウルフがそれを笑った気がした。はっとして目を上げる。間違ってはいなかった。彼のわざとらしい軽い口調にサイファは肩の力を抜く。それからじっとリィを見つめた。 「ねぇ、リィ。私あなたが好きだったよ、ずっと」

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