うっとりとした溜息だった。聞き間違えなどするはずがない。ウルフにとって、何度聞いても慣れることのないサイファの吐息。
「リィ、なにするの」
 抗議をしているつもりなのだろう。リィを見上げた視線は柔らかかったけれど。
「お師匠様としては、精一杯の助言をしたつもりなんだがな?」
 からかいの声音にサイファは眉を寄せる。ウルフが感じたようなことを、リィはしていない。接触させた精神の指先が、ほんの少し愛撫の手つきを帯びただけ。もっとも、そのほうがよほど淫靡ではあるのだが。
「あ……」
「わかったか?」
「うん」
 晴れやかにサイファは笑う。それからリィの腕を抜け出してウルフを呼び寄せる。あまり見た例のないサイファの変化の激しさにウルフは戸惑う。
「なに」
「どうした?」
「それは俺の台詞。呼んだのあんたでしょ」
 言いながらウルフはそっぽを向く。リィが苦笑して、やっとウルフの嫉妬に気づく有様。サイファは困ったようウルフの腕に手をかけた。
「妬くな、馬鹿」
「無理」
「せめて努力しろ」
「あんたさ、わかってる?」
「なにがだ」
「俺、あんたが好きなの」
「……自重する」
「別に仕方ないけど。せめて俺の見えないとこでして」
「お前が……」
「思ってるようなことじゃないんだと思うけどさ、それでもやっぱ、嫌なもんは嫌。わかる?」
「努力する」
 珍しくウルフに怒られた。本人は怒っているつもりなどないのだろう。けれど言われているサイファにしてみれば叱られているのと同じことだった。それを殊勝に聞く気になっている分、ウルフを大切に思っていると彼が理解できる日は来るのだろうか。
「まぁ、いいや。それでなに?」
 今すぐ急に変われ、と言っても無理なのだとウルフにもわかっていた。ウルフにはサイファの過ごしてきた時間がわからない。リィと過ごし、彼を失った日々がわからない。
 ウルフにわかることはひとつ。リィは彼にとってたった一人のかけがえのない者。ウルフがただ一人であるのと同様に、サイファにとってリィは一人。別の種類の特別ならば、諦めもつく。つけなくてはいけない、そう思う。そう簡単に思い切ることなどできるはずもなかったけれど。
「試したいことがある」
 肩をすくめたウルフの髪にサイファは手を伸ばす。跳ね返った赤毛をさらにかき回した。
「もう、サイファ!」
 大きな声を上げたけれど、サイファなりの謝罪だとウルフは理解した。素直ではない彼のやり方にももう慣れている。リィが視線をそらしたのを良いことに、ウルフは軽く彼の額にくちづけた。
「馬鹿」
 小声で怒られた。リィを気にしている気配がするけれど、ただ恥ずかしいだけなのだろう。
「それで?」
「だから、試したいことがある、と言っている」
「それって痛い?」
「殴られなければ、痛くない」
「んー、殴んの?」
「素直にいうことを聞けば、殴らない」
「聞く、聞きます」
 慌てて頭を庇って見せたウルフのわざとらしさに、サイファは声を上げて笑った。それからウルフの目を見つめて言う。
「私を欲しがれ」
 一瞬どころかまったくしばらくの間、ウルフは何を言われているのかまるで理解出来なかった。何度も瞬きを繰り返し、サイファを見つめてしまう。
「えっと、その。ここで?」
「……馬鹿か。お前は」
 自分の言い方が悪かったのだということを棚に上げ、サイファはウルフを非難する。呆れて物も言えない、そんな顔を取り繕ったのがきっとウルフにはわかってしまったことだろう。
「心の中で、だ」
「んー、難しいな」
「手は、出すなよ」
「抱きしめるのも、却下?」
「……許可する」
 顰め面のサイファをウルフは笑い、そっと腕に抱いた。少しばかり身をよじる。ちょうどいい場所を見つけたよう、ウルフの胸に頬を寄せサイファは吐息をついた。
 人間の精神の脆さをサイファは思う。弱くて頼りなくてどうしようもない。いままでだとてウルフはずっとサイファを望んでいる。それでもサイファにはウルフの精神の力を感じ取ることができずに来た。それがもどかしい。
 リィとするよりずっと静かに精神を凝らす。ウルフが伸ばした指先を感じ取れるように。身じろぎもままならないような窮屈さを覚える。そして見た一点の光。
「見つけた」
 思わず口で言ってしまった。あるいはそれはウルフを慮ってのことだったのかもしれない。晴れやかな笑いにウルフがふと肩の力を抜く。
「なんか……変」
「それでいい、維持しろ」
「って言われてもなんのことだか」
「動くな」
 言われてウルフは体の動きを止める。それをたしなめるよう、サイファは背中を叩いた。軽く首をかしげ、ウルフは捉えている感覚を止めた。
「それでいい」
 サイファの満足げな声にウルフは目を閉じる。何か不思議な感覚だった。腕に抱いているよりずっとサイファが近くにいる気がする。
「ん、なに」
 何かが絡み合った。嫌な感じのものではない。サイファが答えないということは自分で考えろと言うことか。そう思った途端心の中にサイファの笑い声が聞こえた。
「あれ? あんた笑った?」
「口では笑っていない」
「んー、心の中で、笑った?」
「正解」
「じゃあ……」
 確かめるよう、絡んだ何かを一度離す。それからもう一度絡め合わせてみた。手でも繋いでいるみたいだ、思ったことで理解した。それは確かにサイファの手だった。心の手、ではあったけれど、間違いなくサイファの手。
「あっている」
 いま考えたことをサイファは肯定する。口には出していないと驚いてサイファを見れば笑みが浮かんでいた。
「俺の考えてることがわかる魔法?」
 ウルフの思いつく限りではそれが限界だった。
「違う」
「んー、なに?」
「精神が繋がっている」
「あんたと?」
「他に誰がいる」
「そりゃそうだけどさ。んじゃ、あんたの考えてることもわかっちゃったりする?」
「やってみたらいい」
 どうやって、とは問わなかった。勝手にしていいということなのだろう。そして疑問が湧く。自分の心を探られているような気はしなかった。
「技術の差。あとは種族の差、と言うところか」
「種族?」
「人間の心は脆弱すぎる。慣れるまでは危なくてな」
「じゃ、お師匠様は」
 ウルフは唐突にリィとどのようにしてサイファが会話しているのか気づいたのだろう。そんな疑問を口にする。サイファはひっそりと笑って答えた。
「リィは魔術師」
「そっか。それが技術の差か」
「そう言うことだ」
 納得したのかウルフが静かになった。方法を考えているのだろう。教えてできることでもなかった。自分で体得するよりない。
 覚束ない手つきではあったけれど、ウルフの手が伸びてきた。ひとまずは、とほっとサイファは息をつく。まるで小指が一本、伸びてきたようだ。それで突きまわされるのはどこかくすぐったい。
「サイファ、全部見てもいいの」
「できるものならやってみろ」
「それってできないってことじゃんか」
「見られて困るようなことは……」
「あるんでしょ」
「あるからシールドしている」
 笑いを含んでいたのはサイファの声か、それとも彼の心の声か。戸惑いながらウルフは指先を伸ばした。結局のところ、何も見えなどしなかった。ただそこにサイファがいる、ずっと近くにサイファがいる。彼の感情の波がわかる。きっと彼は何かを見せてくれるつもりでいることはわかるのだけれど、ウルフにはまだそれを感じ取ることができなかった。
「慣れだ」
 慰めだろうか。言葉はそうだった。けれど心の中は違う。早く慣れて欲しい、彼は懇願していた。鼓動が跳ね上がる。
 サイファの言葉とは裏腹の気持ちなど、わかっているつもりだった。それなのに何もわかっていなかったことを思い知らされる。
「サイファ……」
 頼りない、細すぎる指先なのだろう。彼にとっては。もっとたくさんのことを見て欲しいと願っているのだろう。応えられない自分が歯痒くてならなかった。
 と、サイファの心に包み込まれた。不思議な感覚だった。腕の中に彼を抱いているのに、全身をサイファに包まれていると感じている。
 ウルフはそこからもう一度手を伸ばす。サイファに触れる。確かめるよう何度も、ゆっくりと。サイファの口から吐息が漏れた。
「さ――わり方が、いやらしい!」
 弾んだ息と怒鳴り声。赤くなった頬。ウルフは笑い出す。サイファの誤魔化しがいまはもう良くわかる。
「ごめん」
「もうちょっと真面目に触れないのか」
「だって、あんた言ったじゃん」
「なにをだ!」
「あんたを欲しがれって」
 愛されている自信を覗かせたウルフにサイファは言葉もなかった。あからさまな溜息をつくことで返事に代えた。
「待って、もうちょっと」
 接触を解こうとしたサイファをウルフは引き戻す。意外と覚えが早いことにサイファは微笑んだ。
 じっと、ウルフはサイファの心に触れていた。少しずつ感じ取れるようになってきた。まだ何も見えないけれど、サイファの気持ちがわかるような気がする。
「あ……」
「なんだ」
 ウルフの驚きに、サイファは怪訝な声を返す。彼が見て驚くようなものはないはずだ。そもそもまだ見えてなどいないはず。サイファの不審にウルフの声が被さった。
「あんたの中、俺でいっぱいだ」
 ウルフの、幸福そのものといった声にサイファは咄嗟に彼の口を塞ぐことが出来なかった。わなわなと震える手でウルフの腹を殴りつける。呻き声が上がった。




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