音も立てず燃え上がる炎が二つ。一つは大きく、もうひとつはリィの手に。二つの炎は静かに対峙した。 「やはり、面白いな」 聞こえたのはおかしがる悪魔の声。リィは黙って返答しない。 「魔界に来ればいい」 「なにを」 「お前には魔界のほうが住みやすい」 背後にいてさえ、サイファにはリィの顔色がさっと変わるのがわかった。緊張に体が強張る。悪魔は気にした風もなく、炎のままパーンを撫でていた。 「どうだ、来ないか」 「行くと、思っているのか」 「魔界のほうが面白いぞ。性に合うだろう」 すっとリィの視線が動いた。否、動いたとも見えなかった。けれどサイファは確かにリィの視線を感じた。 「リィ、手伝う」 震える声を必死でこらえ、サイファはようやくにそれだけを言う。大きく呼吸をひとつ。ウルフになどかまっていられなかった。唇を噛み、ゆっくりとリィの隣に立つ。 「サイファ?」 リィの視線がサイファを捉える。サイファは歪んだ笑みを浮かべた。怖かった。目の前で燃える火球を正面から見据えることが怖い。今この場面でなかったならば、悪魔を呼び捨てたリィに抗議をしたことだろう。そのような余裕もなかった。 「誰であれ、もう二度と私からあなたを奪わせない」 込み上げてきたものを嚥下する。喉が鳴った。恐怖を抑えつけ、サイファは呪文の詠唱に入る。詠唱中に狙われたら終わりだとわかってはいる。が、そうせずにはいられなかった。 「アーシュマ、忠告をひとつ。これは感情過多で、おまけに集中力に問題がある。魔法を暴走させて見渡す限り焼け野原になったことがあったなぁ」 「あ。俺も知ってる。サイファ、山二つ完全破壊したよね」 いきなり何を言い出すか、サイファは呆れてわずかに首だけウルフに振り向けた。少し笑っている彼がいた。高まる緊張を感じていないのではないかと疑う。が、彼はそれをほぐそうとしているのだと気づいた。 「お前なぁ……。本当かよ?」 「本当。うっかり制御を誤った」 ウルフに倣ってサイファは笑う。それで少し強張りが解けた。 「どうだ? 強大な悪魔ともあろうものが、防御する手間をかけるのはちょっとみっともないと思わないか?」 からかうようなリィの声音。自分はいつになったらあの悪魔と対等に物が言えるようになるのだろう。リィに対する憧れが、恐怖を圧する。 爆発は突如として起こった。咄嗟にリィが障壁を張る。同時にサイファは同じ物を背後に飛ばしていた。 「うわ」 けれど上がった声に振り返る。ウルフが炎から目許を庇っている。傷がないのを確認し、サイファは息をつく。 「すまんな、あんまりおかしかった」 炎が言った。してみれば、どうやらあれは悪魔の笑いだったらしい。その炎がするり、溶け消え立つのは男の姿。以前、目にしたアーシュマの姿がそこにあった。恐れた顔も浮かべずパーンは彼に寄り添っている。当然だ、サイファは思い直す。パーンは彼に仕えるものなのだから、と。 「面白いな、お前たちは」 言ってアーシュマがウルフに視線を向ける。彼が背後で肩をすくめた気配がした。 「リィ」 「なんだ」 「いつでも迎える。来たくなったら、来るがいい」 「誰が行くか」 「それがいるからか?」 それ、と呼ばれたサイファは莞爾とリィを見た。リィが困ったような顔をしてサイファを見下ろす。背中に突き刺さる視線もいまは気にしないことにする。 「否定はしない」 「素直じゃないな」 「放っておいてくれ」 「暇つぶしの遊びにはちょうどいい、しばらくは……」 「下手に手出しをするつもりならば、サリエルに言う」 「それは怖いな」 「脅しではない」 リィが目を細めた。険悪なリィの顔など、サイファはほとんど見た覚えがない。サイファは待機させていた炎を大きくする。いつでも放てるように。 「先に帰っていろ」 視線を外しアーシュマがパーンに言う。小首をかしげたパーンを抱き上げ、と見るやアーシュマはパーンを放り投げた。 「いやぁん」 泣き声なのか笑い声なのか、頓狂な悲鳴を上げてパーンは放物線を描きそのまま消えた。アーシュマの唇に笑みがあるからと言って、それが悲鳴でないとは言いきれない、そうサイファは悪魔に視線を据えていた。 それに悪魔が笑みを浮かべた。思わず背筋が粟立つ。悪魔の笑みが濃くなった。悟られた悔しさにサイファは唇を噛み、けれど悪魔は意に介した様子もなくリィに目を戻した。 「混乱を起こすのは、悪魔の性。ただの遊びだ」 ふっと口許に笑みを浮かべ、悪魔はサイファに向かって言った。その笑みに触発され、サイファは後先考えず炎を放った。 爆音が聞こえる。それと共に華やかな笑い声が。炎が消え去ったとき、悪魔の姿もまた、なくなっていた。 「うわー、怖かったねー」 小走りに寄ってきたウルフにサイファは返事も出来なかった。 「お前なぁ」 呆れ声のリィ。うつむいてしまった。 「ごめんなさい」 小声で謝れば黙って頭を撫でられた。あの場で三人とも消滅させられてもおかしくはなかったのだと今更ながらに気づいた。 「それはねぇな」 「どうして」 「言ってただろ。遊びだって。遊びでそこまでせんよ」 「でも」 「あるいは悪魔同士だったら、そうでもないんだろうけどな。俺たちじゃ、からかうのがせいぜいだろうよ。本気で遊び相手が務まるほど、力はない」 リィの言葉に納得した。力がないということがこれほどありがたいことだとは思わなかった。ようやく肩から力が抜ける。急に膝が震えた。 「サイファ」 いつの間にか隣に来ていたウルフがサイファの腕を取る。この男に恐怖と言う感情はないのかと疑いたくなってくる。 「怖かったもんね」 「本当か?」 「んー、俺はあんたたちと違うからね、あんたほど怖くなかったけどさ」 意外と的確なことを言う。思わず笑った。それでサイファは己の回復を知る。 「ところでウルフ」 「なに?」 返事をしつつウルフは手を離し、そのまま一歩を引いた。サイファは笑っている。が、ウルフの目にはサイファが怒っていることがよくよくわかっている。 「えー、あー。その。失言でした。ごめんなさい」 「許さない」 「ごめんって!」 「謝ればいいと思っている、その根性が気に入らない」 「だって、サイファ」 「反論は許さない」 「ごめん!」 「謝ってもだめだ」 「んー。どうしたら許してくれる?」 「許さない、と言っている」 そしてサイファは少し笑った。なにが良かったのかウルフにはわからなかった。それでもサイファの目元の険が薄らいだのは見て取れた。 「なに怒ってんだ?」 不思議そうにリィが言う。慌ててウルフが目配せしたものの時すでに遅し。 「ああ、そうか。山二つ完全破壊か……お前ねぇ、可愛いサイファ」 じろりとねめつけられサイファは言葉もなくうつむいた。リィにだけは知られたくなかったというのに。いまだに未熟だと叱られるのは恥ずかしかった。 「お師匠様」 「なんだよ、若造」 「それ、やめてって言ってるじゃん」 「あぁ、可愛いサイファ?」 「それそれ」 「どうしようかなぁ。俺、お年寄りだからなぁ、すぐ忘れちゃうもんなぁ」 ウルフのわざとらしい介入に、サイファは唇をほころばせ、それから小声でリィを罵った。 「なに言った? 聞こえなかったなぁ」 「嘘」 「どこがだよ」 「聞こえてるくせに」 「全然聞こえなかった。因業爺なんて、絶対聞こえなかった」 「リィ?」 「呆れんな」 「だったら、呆れられるようなことしないで」 「お前もな」 そう言われれば返す言葉もない。口をつぐんだサイファをおかしそうにウルフが見ていた。 「ねぇ、リィ」 言葉を改めてサイファはリィを見上げる。不安に視線が揺らいだ。 「うん?」 「……どこにも、行かない?」 「行かない」 「本当?」 「俺がお前に嘘ついたこと、あったか?」 和らいだリィの視線にサイファは唇を噛む。ない、とは言い切れないけれど、まずないはずだった。しかし不安は途切れない。 知らずサイファの手はリィの胸元を握り締めていた。掴んだ指が、白い。リィは黙ってサイファを抱きしめる。なだめるよう背中を叩く大きな手に息をつく。 「サイファ」 「なに」 「あのな」 「うん」 「俺はいいけどな、若造がな」 「しらない」 「知らなくないだろ」 笑うリィの声。あの頃と同じよう、頭の上から聞こえたけれど、少しあの頃よりは近い距離。サイファはリィの肩口に顔を摺り寄せ安堵する。 ウルフは黙っていた。サイファの心がわからなかった。彼が選んだのは自分だと思っている。信じては、いる。けれどいまのこれは。目をそらしては、リィに負けてしまう気がしてウルフはじっと彼らを見続けた。 「言いたいことがあるなら言えよ、若造?」 緩くサイファを抱いたままリィが笑った。はっとしてサイファがリィから離れる。後悔、と言うよりは気恥ずかしい、そんな顔をしていた。 「別に?」 強がっている。わかっている。それでもウルフにはそれしか言えなかった。 「ほう?」 リィのよう、余裕が持てない。ウルフはじっとサイファを待つことしかできない。ちゃんと帰ってくるのだ、と信じることしかできない。 「可愛いサイファ」 ウルフから視線をはずし、リィは見るともなしにサイファを見つめる。サイファもぼんやりとリィを見上げた。ふ、とサイファの視線が曇る。 「ん……嫌」 とろり、濁ったサイファの目の色をウルフは知っていた。ウルフは緩慢に、それでも拒絶するようリィの胸を押し返したサイファに、ほんの少しの希望を見た気がした。 |