じっと黙ったままのサイファの顔をウルフは覗き込む。それに気づいたのかサイファが視線を上げた。
「聞いていい?」
「なにをだ」
「あんたさ、俺のこと好き?」
「なにを馬鹿な」
「やっぱり……」
 がっくりと肩を落としたウルフを唖然とサイファは見てしまった。何を誤解しているのだろうか。それほどおかしなことを言ったつもりはなかった。
「ウルフ?」
 訝しげなサイファの声にウルフは頼りない目を向けた。唇を噛むこともせず、ウルフはその場に佇んでいる。
「あんたが帰ってくんのか、不安だった」
「帰ってくるに決まっているだろうが」
「え。だって」
「なにが、だって、だ!」
「だって、サイファ最近なんか変だったじゃんか。言いたいことがあんのに言えなくて困ってた。だから俺、きっとお師匠様――」
 最後まで言わせずサイファはウルフを殴りつける。怒りのあまり言葉にならなかった。荒く息をつく。
「帰ってくるつもりがなかったら住む場所を作れとは言わん」
 もう一度拳を振り上げる。呆れ顔のリィが見ているのを感じてはいたけれど、サイファは自分を止められなかった。その腕を止めたのはウルフ。そっと握られているだけなのに、動かなかった。
「あんた、寝室ひとつでいいって、言ったじゃんか」
「ひとつ聞く」
「なに」
「お前、塔に住んでいたときにはどこで寝ていた」
「あ……」
「物忘れをするにもほどがある。なぜわざわざ余計な物を作る必要がある。少しは物を考えろ、この鳥頭!」
「サイファ、それはちょっと、酷くない?」
「あぁ、そうだな、鳥に悪いことを言ったな。鳥だってもう少し頭がいい」
「サイファ……」
 わざとらしく肩を落とした。けれどうつむいた顔をが笑っている。馬鹿馬鹿しくなってサイファは彼の手を振りほどいては軽く、頭を殴った。
「あんまり殴ると馬鹿になるよ」
「それ以上馬鹿になれるものならやってみろ」
「はいはい、ごめんなさい。俺が悪かった。ねぇ、サイファさ、ほんとになんか言いたいことがあったんじゃないの」
「あった」
「なに?」
「……誰が来た、ここに?」
 質問しても無駄だと、いまは悟っていた。物の試しに尋ねてみただけのこと。案の定ウルフは何のことやらわからない、と首をひねる。
「誰か来たような気がしたの、あんた?」
「そうだ」
「それで俺が黙ってると思ったから、変だったのか」
「まぁ、そういうことになる」
 そのとおりではあったが、口に出されると途端に気恥ずかしくてたまらない。向こうでリィが笑いをこらえかねたよう、喉を鳴らしていた。
「リィ!」
 すまん、と片手を上げる彼を見てはつられてサイファは微笑んでしまう。それに隣でむっとした気配がした。
「可愛いサイファ、おいで」
 手招くリィに従おうと足を出した。と、腕が引かれる。
「ねぇ、お師匠様」
「なんだ、若造」
「それやめてよ、俺がいるときだけでいいからさ」
「それ?」
「サイファの呼び方」
「あぁ……」
 うなずいてにたり、リィが笑った。嫌な予感がしてサイファは身構える。そっとウルフの手を握った。
「これでも多少は遠慮してるんだがな。そうだろ、可愛い俺のサイファ?」
「リィ!」
 怒りにだろうか、青ざめたウルフの手をきつく握ってサイファはリィを睨む。笑っているのが忌々しかった。間違いなく、わざとやっているのだ、彼は。
「あんまり調子に乗ると嫌いになるよ、リィ」
「どうかな? このくらいのことで俺を嫌いになれるのか、うん?」
「なるもの」
「そうか、そうか。可哀想なお師匠様を見捨てるのか」
「……因業爺め」
 ぼそり、呟いたサイファにウルフが吹き出す。仕方ない、と諦めでもしたようリィに向かって力なく笑った。
「ちょっとでいいから俺のこと気にしてね」
「めいっぱい、気にしてる」
「なんでかなぁ」
「なにがだ」
「物凄く信じらんない」
「それは俺のせいじゃねえな」
 鼻で笑ってリィが言い放つ。肩をすくめてウルフが受け入れる辺り、どうかしているとサイファは思う。やはり、人間の考えることは良くわからなかった。
「サイファ、おいで」
 おそらくはいまだけだろう。が、リィはサイファをそう呼び寄せる。隣で笑うウルフにかまうことなくサイファは彼の元へと行った。
「なに」
「水鏡」
 それだけを言ってリィは詠唱を始める。興味深げに覗き込むウルフを横目で見ながらサイファもまた川面に視線を落とした。
 映った物に驚く。不可思議な生き物とウルフが話しをしていた。生き物の手にあるのは見慣れぬ花束。
「へぇ、あれってなに?」
 過去の情景だと理解できないウルフが面白そうなものと見てはサイファに尋ねる。サイファは首を振り、黙っていろと指示をする。
「やっぱりな」
 思ったとおりだ、とリィがうなずく。サイファにもなにかはわからなかった。小首を傾げれば、リィが莞爾とする。それから川向こうに向かって彼は声を上げた。
「パーン、出てこいよ」
 はっとした。リィの言葉に従ってぴょこりと顔を出したのはあの水鏡に映った生き物。可愛らしい子供のように見え、山羊の足を持った異形の生き物。
「なぁに?」
 悪びれもせず顔を出した彼の手にあるのはやはり、あの花束だった。
「それはお前からか?」
「ううん、お使いなの。アーシュマ様のお言いつけなの。そこの人間に届けておいでって、お使いなの」
「だろうなぁ」
 苦笑してリィがウルフを振り返った。呆然とウルフはパーンを見ている。その目に見る見ると浮かぶ理解。記憶が蘇ったのだろう、頭を押さえていた。
「俺……」
「お前はあの花束を活けるために桶を作ったわけだ」
「んー、花瓶のつもりだった」
「花瓶……」
 呆気に取られてリィは言葉を続けられなくなった。あまりにも下手だった。この男の手に、サイファが住む場所を任せていいのか疑問に思う。
「それは、魔界の花?」
 サイファがパーンに向けて言葉を放つ。
「そうなの、綺麗? 綺麗でしょ?」
「それは、消えるのか」
「うん、朝日に消えるの。とっても綺麗なの」
 道理で見当たらなかったわけだとサイファはうなずく。そしてちらり、リィを見た。そっと精神を触れさせる。あれが消えることで記憶が封じられるのか、心で尋ねた。返ってきたのはうなずきの気配。
「つまり、パーン。それはアーシュマの嫌がらせって訳だな?」
「違うのー、アーシュマ様の贈り物なの」
「可愛いサイファに対する嫌がらせだとしか思えんがなぁ」
「贈り物なの、贈り物」
 嫌々をするよう、パーンは首を振る。それにつれて花束が揺れる。強い香りが結界の中まで漂ってきた。
 思わず花束をじっと見てしまった。否、花束を見たわけではない。サイファはその気配に覚えがあった。ここに帰ってくるたびに感じていた不安の源。誰かの気配。それはあの花束だったのかと気づく。
 呆れて物も言えなかった。自分は花に嫉妬していたのかと思えば気が抜けてしまいそうだった。が、リィはアーシュマの嫌がらせ、と言った。ならばあれをただの花と見るのは間違っているのかもしれない。むしろそう思いたがっている自分に気づいてサイファは苦笑する。
「まぁ、いいさ。贈り物でもな」
 納得した、と思ったのだろう。パーンがにこやかに笑って跳ね回る。独特な物言いと踊るような仕種が、いまでなかったならば可愛らしい、と思うことだろう。
「パーン。伝言を頼まれてくれるか?」
「アーシュマ様に? いいよ、いいけど何かくれる?」
 苦笑してリィは手を閃かせる。そこに出現したのは彼手製の菓子だった。それを見た途端、パーンが飛び跳ねだす。どうやらリィの菓子はあの可愛らしい魔界の生き物にとっても気に入りらしい。
「お菓子、お菓子。サリエル様の分もちょうだい。ちょうだい?」
「やるから伝言を頼むぞ」
「はぁい」
「アーシュマに伝えろ」
「なにを?」
「……サリエルに言いつけるぞ、と」
「いやぁん、だめなの。内緒なの。内緒なのー」
「やっぱりな。彼に知られたくなかったなら、サイファたちから手を引けと……どうやら伝えるまでもないようだな?」
 にたり、リィが笑った。視線の先に出現した火球をサイファは見つめたくなかった。
「アーシュマ様!」
 できる限り目をそらしていたかった事実をあっさりとパーンの声が打ち破る。ぱっと火球は燃え立って、飛びついてきたパーンを受け止めた。
「サイファから、手を引いてもらおう」
「からかっただけだが?」
 声は炎から聞こえた。どこかおかしがっている声は間違いなくあの悪魔のもの。
「この若造をからかうとサイファが嫌がる。サイファに危害を加えるならば、アーシュマ。敵わないまでも敵対する用意がある」
 掲げたリィの手にぽっと炎が灯った。サイファはリィの背中を見つめていた。強大な悪魔に対して、リィは震えてもいなかった。自分との差が嫌でも思い知らされる。深い呼吸をサイファは繰り返していた。




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