リィに言われたからだ、内心に言い訳しながらサイファは何度かウルフの元に帰った。その実、不安で仕方なかった。それを認めたくないだけだと自分でもわかってはいた。が、不安の源がなにに発しているのかがわからない。
 そして帰るたび、小さな小屋が少しずつ積み上がり出来上がりつつあるよう、不安もたまっていく。ウルフの周りにある濃厚な何かの気配。それを彼は言わない。言う気がないのか、言いたくないのか、それさえわかれば少しは不安も薄れるものを、サイファは自嘲する。
「手伝うか」
 朝食を終えるのを黙って見ていた。最近はなぜかウルフも口数が少ない。あれほど無駄話ばかりをしていた男と同じとは思えないほどに。
「んー、いいよ。大丈夫」
 まるで、手伝われたくないようだ。そんなことを思ってしまう。邪魔なのかと邪推してしまう。
「今日はなんか調子もいいし、さっさと続きをやっちゃおうかな」
 サイファに聞かせるつもりで言っているのだろうか。じっと見つめてしまった。ウルフはどこも見ていないようでいて、視線はわずかに小川に向いていた。
「そうか」
「うん」
「……ウルフ」
「なに?」
 立ち止まったまま振り返ったウルフにかける言葉など思いつかない。何を言いたいわけでもないのだ。
「いや」
「ふうん?」
 そしてまた彼は前を向いてしまう。苛ついた。どうしてすれ違ってしまうのか、わからない。サイファは物も言わずウルフの前に回る。
「どうしたの?」
 じっと見上げた。一瞬、震えた。それからわずかに仰のく。サイファの唇がふっと緩んだ。
「サイファ?」
 その仕種の意味が理解できないとばかりの声。サイファは答えず黙って視線をそらした。
「なんでもない」
「お師匠様、待ってるんじゃないの?」
「待ってるだろうな」
「早く、行かなくていいの」
「……邪魔なのか」
「そんなわけないでしょ」
 どこか上滑りの言葉。彼の心はどこにあるのだろう。思わず見上げてしまった目に映るのは、ウルフの横顔だった。彼はサイファを見てもいなかった。
 強い風に、空の桶が転がった。ウルフが驚いたよう、それを拾って元に戻す。自分より、そんな物が大切なのか、理不尽な比較をしているとわかっていてもサイファは唇を噛みしめるよりない。
「ウルフ」
 こちらを向かせたくて、そっと彼の腕に手をかけた。と、ウルフが体を引いた。
「あ……」
 引いたという意識など、なかったのだろう。ほんの少しの動作。サイファには、それで充分だった。
 何も言う言葉はなかった。できたのはただ、少し微笑うことだけ。それから毅然と顔を上げ、背を返す。
「サイファ!」
 答えない。黙って、歩いた。走らなかった。それなのにウルフは、追いかけてはこなかった。結界の鈴は、鳴らなかった。
 サイファはどこを歩いているともわからない。森の中さまよった。危険だと思わないわけではなかったけれど、近くにはリィがいる。
「リィ」
 彼とはわずかばかり、精神が繋がったままだった。呼べば、来てくれる。だから呼んだのだ。サイファは思い込む。
 そして自分でも知っていた。この声はリィには届かない。本当に、呼んではいない。
 呼びたい名前は別にある。呼べなかった。
「なにが、あった……」
 おかしかった。ウルフが自分を見ない。そんなはずはない。彼はいまで自分だけを見てきた。その自信はある。
「過信、したかな」
 もう少しかまってやるべきだったのか。思い惑う。けれど、いまリィの元で過ごしているのは彼のため。それを言ってやればよかったのだろうか。
「あの頃と、変わらないな」
 シャルマークの旅の途次、何度アレクに言うべきことを言えと言われたことか。サイファはゆっくりと息を吐く。それまで息を詰めていたことにも気づかなかった。
「言えるか、馬鹿」
 言いたかった、本当は。けれどもしも叶わなかったときのことを考えれば、言うに言えない。余計、ウルフを傷つけてしまう。だから黙ってきた。
「それが、よくないのか?」
 ならば、いったいどうしろと言うのか。なにをどうしたら、ウルフが自分を見てくれるのだろうか。信じてくれるのだろうか。
「あの馬鹿……」
 森に差し込む光の中、サイファは片手で顔を覆う。リィと出逢った頃の森のよう。そのくせ、目にする植物は何もかも見覚えがない。
「どうしたら、いいの」
 知らず浮かんだのはリィの顔。こんなとき、どうしたらいいのかは、いまだに良くわからない。リィに教えて欲しいとは思わなかったけれど、それでも尋ねてはみたかった。
「あなたなら、なんて言うんだろうね」
 唇が歪んだ。天を仰ぐ。深い森の木々に囲まれ空は見えなかった。
 そっと何かに耳を傾けるような仕種の後、サイファは迷いもせず歩き出す。
「便利」
 ふっと笑う。半エルフの感覚の鋭さを思うことは絶えてなかった。こんな所で、こんなときに思い出すとは。
「人間に、生まれたかった」
 そんなこともいまさら思い出してしまう。もしも人間に生まれていたならば、リィにもウルフにも会う機会はなかったものを。
 程なく小屋に戻ったサイファを、リィは訝しげな顔で出迎えた。
「どうした」
「別に」
「って顔じゃねぇよ。言いなさい」
「嫌」
「だめ」
「放っておいて、お願いだから」
「可愛いサイファ」
「リィ、お願い」
 手を取られた。じっと覗き込んでくる目に逆らえない。だから、目をそらす。リィは片手でサイファの頬を包んで自分のほうへと顔を向けさせる。
「お師匠様の言うことを聞きなさい」
「嫌!」
「サイファ!」
 珍しいリィの強い声にサイファは体をすくめる。それを詫びるよう、リィは緩く肩を抱く。きゅっと拳を握った。いまここで、彼にすがりたくなかった。
「サイファ、なにがあった?」
 リィはサイファの良いように、とそれ以上はせず、髪に手を滑らせる。いつの間にかうつむいてしまったサイファの顔を上げさせることもしなかった。
「……私」
「うん?」
「リィ、怒らないでよ」
「いいから言えって」
「……こんな所、来るんじゃなかった」
「どうした?」
 あまりにも寂しい声だった。リィはそのことに驚く。ウルフが寂しがっているだろうことは予測済みではあったけれど、なぜサイファがこのような。
「可愛いサイファ、なにがあったか言いなさい」
 有無を言わせなかった。唇を噛んだまま、サイファがリィを睨むよう顔を上げる。視線が揺らいでいるのを、リィは見逃さない。
「若造と、なにがあった?」
 間違いのないこと。だからリィはあえて柔らかい声でただす。きっとサイファは聞かれたくなどないのだから。
「なにも……」
「嘘をつかない」
 その言葉にサイファは崩れた。何度もウルフがからかうように言った言葉。あんた、嘘が下手だね、そう笑った言葉が耳の中にこだまする。
「ウルフに、嫌われたみたい」
 思ったより、素直に言えた。ゆっくりとリィを見上げられた。少し、笑うことができた。
「サイファ……」
 リィは何も言うべき言葉がなかった。あの若造がサイファを思い切ることができるわけがない。その程度の思いで、世界の壁を越えられるはずもない。
 それよりもなによりも、リィはサイファのことだけが心配だった。あの若造が、彼を思い切ったのならばそれでもいい。
「そんなはずねぇだろ」
 けれど、リィは己にわずかな希望も許さない。だから静かにサイファの髪を撫でる。
「だって」
「なんだよ」
「ウルフ、私のこと見なかったもの」
「それだけか、うん?」
「からかわないで」
 顔をそむけるままにさせた。指に髪が絡まる。ほどく間もなく風に流れた。
「リィ」
「うん?」
「私、言ったほうがよかったの?」
「いまやってることをか?」
「そう」
 言ってウルフは理解できるのだろうか。リィはそれを案じる。理解できないまま、サイファのしていることを認めるのだろうか。無論、彼は認めるだろう。
「お前はどうして言わなかった?」
 聞くまでもない。サイファの答えなどわかっている。サイファも知っているだろうと視線にこめて見つめ返してきた。
「もしも失敗したら」
「そうだな」
「習えなかったら」
「あぁ」
「ウルフを……傷つけたくないもの」
「ほんとにあの若造が好きなんだな、可愛いサイファ?」
「うるさいよ、リィ」
「本当のことだろう?」
「……うん」
「じゃ、行かなくちゃな」
「どこへ」
「真実を知りに」
「嫌!」
 引かれた手を振りほどく。けれど再びリィはその手を取った。反論など許さないとばかり、サイファの手を取って歩き出す。わずかばかりの抵抗、サイファは引きずられるよう、リィについて行った。




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