まっすぐに駆け戻った。どうして彼はああも分からず屋なのだろう。だからこんな恥ずかしい思いをする、とサイファは一人ごちる。 「どうした? 可愛い俺のサイファ」 うっかり、そのままリィの前に出てしまった。どうにも今朝は調子が狂っていけない。 「別に。なんでもないもの」 「って顔でもねぇぞ」 「なんでもないの!」 伸びてくる手をかわしてサイファは置いてあった茶を一口飲む。まだ熱かった。それに思わず苦笑する。 「ねぇ、リィ」 「なんだ」 「私が帰ってくるの、わかってたの」 「言ってみりゃここは俺の結界内だからな」 「そう」 「なんだよ?」 「別に。やっぱりね、と思っただけ」 いささか動揺しないでもない。自分が駆け戻ってきた理由までリィに悟られているのではないかと思えば落ち着かなかった。 「なぁ、可愛いサイファ」 ようやく椅子に腰掛けたサイファの目をリィは覗き込む。具体的になにがあったかまではさすがのリィにもわからない。ただサイファの精神の乱れは感じる。 「どうしてこんなに早く戻ってきた?」 「どこが? いつもと同じくらいだと思うけど」 「だからな、サイファ。こんなに早く戻らなくてもいいんだぞ、いつも」 「いいじゃない。早く覚えたいんだから」 「でもなぁ」 「なに?」 「若造が寂しがるだろうが」 「放っておいて」 「お前をか? 若造をか?」 「両方」 からかうリィにサイファは応じる。目の前のリィの目が笑っている。彼とならばこれほど心安く話せるのに、どうしてウルフとはできないのだろう。理由など、サイファにはわかっているがウルフがわかっていない。それが問題なのかもしれなかった。 「時間なら、いくらでもあるもの」 ぽつり、サイファは言った。いつかは解決できるかもしれない。解決できなくても、自分が慣れるかもしれない。 「お前はそうだろうがな」 それに水を差すようなリィの言葉の鋭さだった。はっとして彼を見た。 「可愛いサイファ。お前は時間が無限であることに慣れてるだろう?」 「私は神人の子だもの」 なにを当たり前のことを、サイファは不思議に思う。今になってリィが殊更に差異を言い立てるとは思ってもみなかった。 「若造は人間だぞ」 「だから?」 「時間が永遠にあるってのに、すぐにゃ馴染めないんだよ。お前がいないのが寂しいだろうに」 「……あなただって人間じゃない」 「俺は慣れたさ」 「千年」 「うん?」 「あなたが死んで千年。あなたはここで待ってたんでしょう? 私を待っててくれたんでしょう? 寂しくなかったの。私はすごく寂しかったのに」 「寂しかったよ、可愛い俺のサイファ」 髪に触れる手を、今度は拒まなかった。懐かしい感触に、もう大丈夫だと思ったはずがまた目許が潤みそうで困る。 「あなたが待てたのに、どうしてあれが待てないわけがあるの」 「お前なぁ」 「なに」 「俺と若造を一緒にするなよ」 呆れ声に笑った。以前、ウルフに言ったことがあった。師と自分を同列に語るなど不遜だ、と。よもやリィが言うとは。そのおかしさにサイファは笑う。 「一緒になんて、してないもの」 リィは特別だった。ウルフは別の意味で、特別だった。リィはそれを理解しているとサイファは思っている。けれどウルフは。思い出せば溜息をつきたくなってくる。 「俺はここで一人だった」 「だから、寂しかったんでしょ」 「聞けって。一人だったから、我慢できた。あいつは可哀想に、お前がここにいるのに、側にいるのに一人だぞ。もう少しかまってやれよ」 「いいの」 「よくねぇだろ」 「いいの!」 「好きなくせに」 「リィ」 「なんだよ」 「放っておいてって、言ってるの。いい?」 「はいはい。どうしてこんなになっちまったかなぁ」 「なにが」 「可愛いサイファだったのに」 「いまだって、可愛いでしょ」 「よく言うよ」 ついに吹き出したリィにつられてサイファも笑う。自分が歪んだと言うならば、責任はリィにある。そしてその歪んだ自分を好きだというウルフならば、もう少し放っておいても大丈夫、そう信じていた。 ただ、不安がないわけではない。あの不思議な違和感。自分に悟られず結界内に浸入した者がいるとは思えない。が、間違いなくなにかの気配が漂っていた。 恐れているのかもしれない、とふと思った。ウルフが自分に隠し事などするはずがない。それなのにウルフは今朝、何も言わなかった。何者かの気配があったのに、彼は黙っていた。 そう思ってしまうのが怖いのかもしれない。想像しただけで身の内が冷えていくような気がする。いったい何のために自分がいま、ここにいるのか。 「サイファ」 わずかに沈んだ顔を心配したリィが伸ばしてきた精神の指先を、サイファはやんわりと拒絶した。 「ほら、可愛くねぇ」 苦笑して引いた指先に、思わずすがった。ただ、精神の指先同士を絡めるだけ。心の中には入れない。それでも充分、サイファのささくれ立った精神は静まる。 「どこが?」 いつの間にかあの頃のよう、腕の中に抱き取られている。苦笑するのはサイファの番だった。 「お師匠様の手を嫌がるような子だったかな、お前は?」 笑いを含んだ声が頭上から聞こえる。だから、安心して体を任せておける。彼はいまも変わらずサイファの、サイファだけの至福の地だった。 「大人になったから、私も」 「そうか?」 「少しは隠し事くらい、するようになったもの」 「まったくだな」 なだめるよう背を軽く叩くリィの大きな手。失ったと思っていたものがここにある。懐かしくて嬉しくて、それだけで世界の壁を越えてよかったと思う。これでウルフとまた通じ合えさえすれば何も言うことなどないのに。 「どうした?」 知らず苦笑したのが伝わったのだろう。相変わらず心配しすぎる、そうサイファは今度は声を立てて笑う。 「ウルフが、あなたのことをね」 腕の中から抜け出しては見上げる。あの頃のままの瑠璃色の目。自分の指に嵌った指輪の石と同じ色だとサイファは思う。それをウルフがどう思うかまでは知りようがない。想像を巡らせることは、できる。けれどそれをすると不快にならざるをえない。師と自分の間のことを疑われるのは嫌だった。彼がどれほどなにを疑おうと事実はひとつ。リィとの間には、何もなかった。 「なんだって?」 「私にとって、父親みたいなものなのかって」 「そりゃ、あまりにも人間らしい質問だな」 「でしょう? わかるわけないのに」 「お前には答えられない質問だな」 そう言ってくれると思っていた。その言葉が聞きたくて、リィに言ったのかもしれない。サイファは微笑みテーブルの上、頬杖をつく。 「でも聞きたくなる気持ちはわからんでもないがな」 リィはサイファをたしなめるよう、言った。確実に自分の思いをウルフは知っている。それくらい悟らないリィではなかった。それなのになぜ、自分の手にサイファを戻すのか理解ができない。 リィはあえて長い時間、サイファを拘束していた。いずれウルフが何事かを言うのを待っている。そのつもりでしていたことなのに、ウルフは文句も言わず律儀にサイファを戻してくる。 そのくせ、こうして疑っているのだ。親のような存在なのかと問うことは探りを入れることに等しい。サイファの心がどちらにあるのか、と彼自身に聞いたに等しいのに、サイファだけがそれを理解していないらしい。 「どうして?」 だから無邪気な顔をして尋ねることができる。そう思えばリィはいまになってもまだ笑顔の裏で物を思うより仕方ない。 「お前が俺に懐きすぎるのが、嫌なんだろ」 「馬鹿みたい」 「そういうなよ」 「どうして? リィはリィ。あれはあれ。違うの」 「そう思えりゃ、いいんだろうがな」 「あなたは?」 一瞬、問いの意味がわからなかった。リィはまじまじとサイファを見つめる。いま改めて自分の位置を聞かれるとは、思わなかった。 「俺のことは大好きだろう? 可愛いサイファ」 「好きだって言ってるじゃない」 「若造は?」 「リィ、しつこいよ」 照れたのだろう、顔をそむけて立ち上がるサイファの後ろ姿を目で追った。 まだ子供だと思いたいのかもしれない。けれど、あの程度の言葉ではぐらかされるサイファはまだ子供だ、そうリィは思う。 「リィ」 「うん?」 「あの青い果物の菓子、また焼いて」 「いいけど、なんだよ」 「ウルフが気に入ったみたいだから」 「……お前なぁ。それを言ってやれよ、本人に。どうせ知らないんだろ、あいつは」 「絶対、嫌」 にたり、サイファは笑う。きっとそれを聞けばウルフも安心するに違いないのに、なぜ言ってやらないのかわからない。もっとも、その不安定の上に成り立っている関係ならば、リィに出す口はなかった。 「さぁ、はじめようよ、リィ」 緩く髪を編み始めているサイファを見て、疑問に思う。ウルフの前では髪をほどくのか、と。そしてきっとウルフも、リィの前では髪を編むのかと疑問に思っただろうことは想像に難くない。それを思えば苦笑するしかなかった。 |