薄く、東の空に咲き初める一輪の花。太陽の光が森に差し込む。と、光を浴びた昨日の花から色が薄れる。見る間に花は光の中、粒子となって解け消えた。眠るウルフはそれを知らない。そして花が光に消えたとき、ウルフから花の記憶と共にそれにまつわるすべてが消えた。
「まだ寝ていたのか」
 サイファの呆れ声がする。それにウルフは慌てて目覚めた。辺りを見回せば太陽はすでに高い。自分がこんな時間まで熟睡してしまったことが信じられなかった。
「んー、おかしいなぁ。あ、おはよう」
「早くない」
「だね」
 笑ってウルフは体を起こす。それからサイファの手許を見ては食べ物を催促した。いつもの仕種、いつもの顔。それなのにサイファは今朝に限って何か違うものを感じている。
 具体的になにが違うとは言えない。けれど強い違和感。ウルフではない誰かがここにいたかのような。そう考えてサイファは内心で首を振る。結界に触れた者はいない。
「あ……」
 考え事に耽っていたサイファの耳に届いたのはウルフの驚きの声。何事かと眉を顰めて彼を見れば手が伸びてきた。
「なにをする」
「珍しい……」
「なにがだ」
「髪。編んでる」
 言われてはじめて気がついた。リィのところで編んだまま、出てきてしまった。
「ふうん」
 背中でひとつに編んだ髪をウルフが手に取る。妙に淫靡な仕種で目をそらしたくなってしまう。そしてはっと体を引いた。
「嫌がんなくったっていいじゃん」
 唇を尖らすウルフにサイファは答える言葉がなかった。
 首筋が光の中にさらされている。それを思えば恥ずかしくてならない。たとえウルフが首などではないすべてを見て知っているとしても。
「見るな」
「恥ずかしい、やっぱ?」
「言うな!」
 きつく言っては頭を一振り。それだけで髪はほどけた。元々何かで留めてあるわけではない。自分の髪を魔法で強化してまとめていたもの。魔法を解けばほどけるのは道理だった。
「なんで編んでたの?」
 旺盛な食欲を見せながらウルフが言う。やはりおかしいことなどなにもない。サイファは違和感を否定する。けれど否定すればするだけ不安が募った。
「邪魔だからだ」
「それくらいはわかってるって」
「ならば聞くな」
「だから、なんで邪魔だったのかって聞いたの」
「魔法の習得をするのに邪魔だった」
「どうして?」
「理解できるのか、お前に?」
 ふっとサイファは笑った。決して蔑んではいないサイファの言葉。ただの言葉遊びだとウルフは知っているはずなのに、なぜか冷たく聞こえてしまう。僻み心がそうさせる、心の中で自嘲した。
「それもそうだね」
 サイファにそんな自分を知られたくない。だからウルフは無理をする。サイファはそれを感じ取ってはいた。違和感と渾然一体となって。今朝のウルフはよそよそしい、そうも見えてしまう。
 会話など、だから弾むはずもなかった。ウルフはあれほど望んでいたサイファとの会話を巧くすることができない。苛立ちがまた空回りを生む。
「お師匠様とは……」
 だから、言うつもりのなかった言葉が口から出てきてしまう。慌てて唇を噛んだとき、サイファがしっかりとこちらを見ているのを知ってしまった。
「続きは」
「いい、なんでもない」
「言え」
「いいって」
「殴られてから言うか。殴られないうちに言うか」
 これ見よがしにサイファは拳をウルフの目の前に突き出す。そっと微笑ったつもりだったけれど、ウルフはどう見ただろうか。あれほど通じ合っていた、と思った心がこの世界ではすれ違う。
「お師匠様の前では、平気なんだなと思っただけ」
 溜息をつきつつウルフは言った。なんの事だかサイファにはわからない。それに苦笑してウルフが一筋、サイファの髪を指に巻きつけた。
「あぁ……」
 髪のことかと気づいた。確かにウルフの前ではまず編んでいることなどないのだから。
「恥ずかしく、ないんだ?」
 挑むよう言うのは、なぜなのだろう。サイファは目をみはる。もしや疑われているのだろうか。自分の口で彼は言ったではないか、疑わない、と。
「そんな顔しないでって」
「どんな顔だ」
「怒ってるよ、サイファ」
「お前が……」
「怒らせちゃった? ごめんね、ちょっと不思議だっただけ」
 ウルフが髪から手を離し、少し微笑う。あまり彼らしい表情ではない。不安が胸に迫った。
「あれかなぁ、サイファにとってお師匠様って父親みたいなもんなのかな」
「私は人間ではないからな。親と言うものがよくわからんが」
「俺だって父親なんかよく知らないって。一般論、一般論」
「それは人間にとっての一般論だろう」
「ま、それはそうだけどさ」
 肩をすくめて言うウルフを見ているうち、サイファは彼の言いたいことが少しずつ飲み込めてきた。
 つまるところウルフは疑っているのだ。けれど疑いたくなくて、そうやって自分でも無理があるとわかっている考えにしがみついている。まったくさりげなくもなく彼は問うている。リィと自分とどちらを選ぶのか、と。
 この馬鹿に、いったいどうしたら自分の思いが伝わるのだろう。サイファは心の中で溜息をつく。だからこそ今、リィの元にいるのだけれど。
「さて、と。腹も満ちたし働こうかな」
 話を振り切るよう立ち上がったウルフを見てサイファは確信した。やはりこの男は世界の壁を越えても馬鹿だ、と。
「手伝うか」
「いいよ、大丈夫」
「そうか」
 まだ建材になりかけの丸太。更地には何もない。これからも一人ですべてを作るつもりなのか。
「いいよ、サイファ。戻っても」
 ちらり、振り返ってウルフは言った。妙に大人の顔。シャルマークでは自分にだけ大人の顔を見せた。共に過ごすようになってからは子供になった。素直になった。それなのに今のウルフは。
「ほう、邪魔のようだな」
 自分も同じようなものかもしれない、ふとサイファは思う。ウルフの些細な言葉が癇に障って言い返している。ほんの少しだけ、おかしくなった。
「違うって」
「どこがだ」
「あんたの邪魔したくないの、わかる?」
「わからん」
「もう、サイファってば!」
「なにが言いたい」
「あんた、ずっと手伝わせちゃうよ。お師匠様んとこ戻らせてあげないよ、俺」
 茶化して言って振り返ったウルフがサイファの肩に手をかける。今度こそサイファは笑った。
「なにがおかしいの」
「行かせたくないならば素直にそう言え」
「サイファ」
 むっとウルフは唇を噛みしめた。そんな無様なことが言えるか、と思う。言えるくらいだったら、こんなに寂しくはないとも。
「あんたの邪魔、したくないんだって」
「邪魔か?」
「だって、今なんか習ってんでしょ。終わるまで、邪魔しない」
「終わらなかったらどうするつもりだ」
 ふと聞いてみたくなってしまった。ほんの出来心。ウルフがそれほど悲しげな顔をするとは思ってもみなかった。
「馬鹿か、お前は」
 そむけた顔に手を伸ばす。嫌がる顔を無理に真正面から見つめた。
「馬鹿だよ、俺」
「知っている」
「だろうね」
「馬鹿」
「うん」
 ウルフの心にあった鎧が溶けていくのを感じているのに、サイファは落ち着かなかった。まだ違和感は付きまとう。
「ウルフ」
 呼び声に彼が目を合わせた。やっときちんと正面から見た、そう気づいた。今朝の彼はやはりどこかおかしい。
「なに」
 拗ねたような声。また目をそらす。その顎にある乾いた傷。指で触れても痛まないだろうそれにサイファは触れ、かすかな魔法を流し込む。
「治ってるよ」
「どこがだ。傷がある」
「たいしたことないって」
「相変わらず、不器用だな」
 嫌がるからとウルフはひげを剃る。本当は、それほど嫌がっていないなど、この男は理解できるのだろうか。わかって欲しいと思う反面、そのままでいて欲しい。
「サイファ」
「なんだ」
「笑ってる。なんかおかしいの」
「……怒るな」
 言った途端、笑いがこみ上げてきてしまった。それをウルフが不機嫌そうに見やっているのもまた、楽しかった。
「いいよ、もう。行きなって」
 離れていくウルフの体。早くリィの元に戻りたい。けれど今日はこのまま留まってもいい、そんなことを思う。
「行きなって、サイファ」
「行かせたくないくせに、なにを言う」
「……サイファ」
「なんだ」
「怒るよ、俺だって」
 唇を引き結んだウルフ。真面目な顔をすれば本当に貴公子で通る。珍しく見惚れてしまった。それを気づかれたくなくてサイファは目をそらす。ウルフがどう感じるか、かまう余裕などなかった。大きく溜息をひとつ。
「ウルフ」
 名を呼んだ。和解と聞こえただろうか。今度は彼がそらした目。彼に聞こえないよう、溜息を再び。
 手を伸ばし首筋を掴んで引き寄せる。ウルフがよける暇など与えない。驚きに目をみはったままの彼の唇に自分のそれを重ねた。
「サイファ……」
「目ぐらい閉じろ。なぜお前はそんなに背を伸ばした。届かない。かがめ、馬鹿!」
「……届いてるじゃん」
「うるさい!」
 日の光に、サイファの頬に上った赤さが映える。見えた、と思った瞬間サイファは身をひるがえし駆けて行った。ウルフは、唇に手を当てたまま立ち尽くすだけ。ただ、どうしようもない寂しさは少し、薄れていた。




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