サイファが作っていった結界の外側、困ったような顔をした子供が立っていた。こんな所に子供が、と一瞬惑う。けれど幻魔界にだとて生き物がいる以上、子供くらいいるだろうとウルフは一人うなずいた。
 川の対岸は深い草が生えていた。子供はそこに埋まるよう、腰から上を出してこちら見ている。ウルフは手招こうかどうしようか悩む。サイファがここにいてくれたならばきっといい方法を教えてくれるはずなのに、そう唇を噛んだ。
「キミがウルフ? 人間の? そうだよね、そうだよね?」
 歌うような子供の声が聞こえた。驚きつつもウルフはうなずく。それに喜ばしげな声を上げ、子供は草地から姿を現した。
 ウルフは知らず一歩、下がっていた。子供は子供ではなかった。ふくふくとした愛らしい上半身、だがその下につくのは山羊の脚。よくよく見れば頭上に可愛らしい獣の耳も生えている。
「あのね、アーシュマ様のお使いなの。キミにご用なの。入っちゃだめ、入っちゃだめ?」
 結界の向こう側、子供のような生き物は言う。ウルフは強張ったまま首を振った。
「じゃ、いいの。これ、投げるから、取って。いいね? いいね?」
「あ、いや……ちょっと待って!」
 膨れ面の彼をウルフは慌ててとどめ、さすがに結界からは出なかったけれどもう少し側へと川の向こうへ飛び渡る。間近で見てもやはり、山羊の足をしていた。
「あんた、ここの生き物?」
「ここって、幻魔界? ううん、僕は魔界なの。アーシュマ様にお仕えしてるの」
「アーシュマって、あの悪魔?」
「そうなの、僕らのご主人様なの。アーシュマ様から贈り物、はいどうぞ」
 結界の向こうから彼は小さな花束を差し出す。魔界の生き物と言うことは彼も悪魔なのだろうか、とウルフは思う。アルハイド大陸で見知った悪魔と彼らは、実際には違う存在なのかもしれない。
「ありがと。でもなんで?」
 受け取れば、それは強く香る花。とろりと甘くいつまでも残る香りをしていた。
「知らない。アーシュマ様のお言いつけだもの。サリエル様には内緒なの」
 言ってはっと彼は口許を押さえた。それから上目遣いにちらり、ウルフの顔を窺う。
「あ、いけない! 内緒なのも内緒なの。内緒、内緒ね?」
「内緒な。いいよ。内緒」
 つられてウルフは言ってしまう。どこか苦笑したくなってくる。可愛らしい生き物につられたのかもしれない。
 けれどそれでも良かった。ぱっと明るくなる彼の顔を見ていたら、急に嬉しくなってきた。久しぶりに楽しい会話をしたせいかな、内心で苦く思った。
「あんた、名前は。聞いてもいいのかなぁ」
「いいよ? 僕はキミの名前聞いてきたら。僕はパーン」
「パーン、か。よろしく、パーン」
 つい、手を差し出してしまった。パーンは結界の向こう困ったよう立っていた。入れないのか、と改めてウルフは気づいた。
「ちょっと質問」
「なぁに?」
「あんた、これって見えてんの?」
 言って結界のあるはずの場所を曖昧に指差す。それにパーンは驚いた顔をした。
「これって、キミ見えないの、見えないの? 可哀想なの」
「なんで?」
「だって、とっても綺麗、綺麗。きらきらだよ、サリエル様みたいに素敵」
 歌いながらパーンはくるり、まわって見せる。それから触れられないのが残念といったよう、小首をかしげた。
「ふうん、綺麗なんだ」
「とっても綺麗、きらきら」
「俺には見えないんだ」
「だからキミ、可哀想、可哀想。これを張ったの誰。きっと綺麗な人だね? 素敵だね?」
 くるりくるり、パーンは回る。嬉しくてたまらない、そんな顔を見ているうちにウルフは切なくなってくる。
 自分はサイファが張った結界を見ることができない。彼が行使する魔法の結果しか、見ることができない。なにが起こっているのかもわからないし、その美醜などましてわかるはずもない。
 自分が魔術師であったならば、わかるのだろうか。けれど戦士でなかったならば、出会うことすらなかった。そして魔術師であるリィには、彼の魔法の美しさが、見えるのだろうか。
 きつくウルフは唇を噛みしめる。それから無理に笑ってパーンにうなずく。
「すごく綺麗だよ」
「サリエル様よりも?」
「俺にとってはね」
 その言葉をどう聞いたのだろうか、パーンは再び嬉しそうに回りだす。ウルフは間違ったことなど言っていない。サリエルとここでは呼ばれるらしいサール神は確かに綺麗だった。けれど自分は誰よりもサイファが綺麗だと思う。
 そんなことを思ったのは一度ではなかったな、と苦笑する。シャルマークの旅の途中、半エルフの隠れ里に入り込んでしまったことがあった。あの時もそう思ったのだ。たくさんいた半エルフの誰よりもサイファは綺麗だった。
「あんた、また来る?」
 人恋しいのかな、言ってしまってからウルフは思った。パーンは踊りをとどめ、不思議そうに首をかしげる。そんなこともわからないの、と言いたげに。
「アーシュマ様がお使いに出してくれれば来るよ。それ以外に幻魔界に用はないもの、ないものね?」
「じゃ、お使い待ちかな。また会えるといいな」
「変な人間、変な人間」
 笑いながらパーンは手を振り、そして一瞬後にはかき消すよういなくなる。それが魔法だったのか、それともあっという間に姿を隠したのか、ウルフには区別がつかない。それが無性に寂しかった。
 一つ大きく溜息をつく。途端に手に持ったままの花が強く香った。改めて目をやれば明るく暗く、様々な色をした花弁。
「これってここの花なのかなぁ」
 それとも魔界の花なのだろうか。植生さえよく知らない世界。改めてここが異界なのだと思い知る。いずれにしても見たことがない花だった。
「どうすんだよ、これ」
 心の中、悪魔に向かって罵った。さすがに口に出す勇気はない。まだ丸太が切ってあるだけの更地を見やり、花瓶なんかないぞ、とウルフは毒づく。
「うーん、ほっといたら萎れちゃうよなぁ」
 そもそもずっと持っていたら手の熱で萎れるのではないだろうか、と気づいた。慌てて離し、とりあえずは、と丸太の上に置く。
 それから大急ぎで丸太を適当な大きさに切り、中身をくりぬく。けっこうな時間がかかる。ちらりちらりと花束を見ては萎れない、と安心した。
 ようやく無骨な花瓶と言うよりは桶、むしろ出来損ないの鉢が出来上がった頃、日が暮れ始めていた。ウルフは桶に水を汲み、花束を活ける。ふっと香りが強くなった気がした。
「よかったな、ほっとしただろ?」
 思わず花に向かって語りかけてしまった。そんな自分に苦笑する。会話に飢えているらしい。サイファと話すのは一日のどれほどの時間だろう。とても足りない、ウルフは思う。
「やせ我慢だよなぁ」
 大好きなお師匠様と話したいだろう、一緒にいたいだろう。そんな強がりを言うのではなかった。いまになって後悔してももう遅い。
 彼にとっては必要なことだと思うからこそしたことではあったけれど寂しくてたまらない。帰ってきて欲しい。けれどサイファは帰らない。この小屋だとて、どうなることか。
「あんた、どういうつもりなんだよ」
 花に向かって言ってみる。聞こえるのだろうか、あの悪魔に。どこかで聞いているような気がしてならない。サイファが言うとおりの強大な力を持っているならば、それくらいのことはできそうな気がする。
「これって新手の嫌がらせ?」
 自分が一人でいることが際立つように。寂しいだろうと同情しつつからかうように。あの悪魔ならばそれくらいのことはしそうだった。
 宵闇に、花の香りが強く漂う。ウルフは焚き火を熾し火の前に座った。ちょうど良い具合に桶を据え、花に光があたるよう、手直しする。
「サイファ、なんて言うかな」
 喜ぶだろうか。嫌がるだろうか。ウルフには理由などよくわからないけれど、サイファは自然の中にいるのを好む。そうしていると怪我をしても回復が早いともかつて言った。
 それがなぜなのかわからない。だからウルフはサイファはただ草や木や、花々が好きなのだ、と思うことにしている。この花を見たら、だから喜ぶかもしれない、とも。
「あの悪魔からでも。どうかな?」
 ウルフが結界から出ないことをサイファは知っている。無闇に心配させたくはなかったから、あるいは心配もしてくれないことを知りたくなかったから、ウルフは結界から一歩も出ていない。
 この花の出所など、ウルフが言わなければサイファにだとて知りようがないだろう。それを思えば少し楽しい。
 会話の、端を掴んだような気がする。あててみて欲しい、と言っても不機嫌な顔をするだけだろう。それでも考えてくれることはウルフにはわかっている。もっとも、ここでの知り合いなど、いないに等しいのだからすぐにサイファにも思い当たってしまうだろうけれど。
「あんた、いまなにしてんの」
 ぼんやり火の前で呟いた。言葉に出して、初めて口にしていたのだと気づく。ふっと顔を覆った。
「お師匠様、返してよ」
 いっそ言ってしまったほうが楽になるとばかりウルフは言う。
「俺のサイファ、返してよ」
 誰の物でもない。彼は彼自身。けれど自分はサイファの物だと思う。あの塔を出るのではなかったと、そんなことを思ってしまう。
 あのまま塔で寿命を迎えれば良かったのかもしれない。サイファは嘆くだろうけれど、きっとリィを失った時ほどではないはず。
「僻み、かな」
 苦く思うけれど、おそらくきっと間違ってはいない。サイファにとってリィはそれほど特別なのだと、それくらいは見ているだけで充分にわかる。彼がそれを自覚しているのかは知らなかったし、聞けもしない。そんなことをしたならば、間違いなく蹴りが飛んでくる。それも数回は確実、と言うところ。
 ウルフが魔術師と暮らした男だと言うならば、サイファもまた戦士と生活を共にしたのだ。人間のひ弱な魔術師とは違う。蹴りには力が乗って重たい。ウルフを痛めつけるのも彼とじゃれるのも思いのままだった。
 リィはそんなサイファを呆れたけれど、ウルフとサイファはそうして暮らしたきたのだ。半ば会話のようになっている暴力が、ウルフにとっては楽しかった。甘えてじゃれているだけであったり、照れて恥ずかしがっているだけであったり。口に出せない思いを乗せた拳と蹴りなのだから。
「サイファ」
 ここまで来てサイファがいない。自分はなにをやっているのだろうかと思う。
 これが、悪魔が言ったことなのだとしたらいくらなんでも早すぎる。
「それでも、あんたが好きだ」
 聞こえないサイファに向かってウルフは言う。どこにいるのかもわからないサイファに向かって、夜の中ウルフは言う。




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