そうしてリィとサイファはウルフの前から姿を消した。ウルフは一人、サイファが残していってくれた道具を手に木を切っている。 剣に慣れた手は容易く斧にも馴染んだ。元々思索的な男ではない。そのせいだろう、体を動かしているほうが思い悩むよりはずっと楽だった。 「さてと、どうしようかな」 積み上げた丸太を前に考えるふりをした。たいてい、やることなど手順は決まっているものだ。ウルフは肩をすくめ今度は丸太を切断し始めた。 少しずつ建材ができていく。それはそれで楽しいことだった。こればかりは手に余るため、サイファが魔法で整地してくれた土地をウルフは歩いたりしてみる。 「帰って、くんのかな」 思わずもれた呟きにぎょっとした。帰ってくる、そう思っている。願っているといったほうがいいのかもしれない。 ウルフは強く首を振った。いまだとて、顔も見ないというわけではないのだ。毎日一度は顔を見せる。食べ物を持ってくるためではあったけれど、それでも話しくらいはしていくのだ。 「お師匠様とさ、なに話してんの」 尋ねたことがあった。サイファは曖昧に微笑うのみ。 「面白いことを、習っている」 しつこく問うウルフに辟易したのか、それだけは教えてくれた。ただ、なにを習っているかは教えてはくれなかった。 サイファがリィの元に戻った後、ウルフはその場に座り込んでしまった。せっかく持ってきてくれたものも食べる気になれない。 嫌な想像ばかりが頭に満ちる。妄想と言っていいことばかり。彼の元にいるサイファ。自分には見せない顔をするサイファ。無防備に笑うサイファ。ウルフの知らないサイファばかりをここにきてから見続けた。 「大好きだよ、あんたが」 誰も聞かない宙に向かって言ってみる。サイファがたとえ自分よりリィを愛していたとしても、だからなんだと言うのか。自分は自分。サイファを好きなことに変わりはない。 そう強がってみたりもする。だがウルフは切なかった。苦しかった。自分で知っている嘘など、なんの役にもたたないのだと知ってしまった。 「なにやってんのかなぁ、サイファ」 天を仰げは青い空。今の季節は何なのだろう。春と言われれば春のような気もする。穏やかな冬と言われればまたそのとおり。 ゆっくりと体を伸ばす。労働に強張った筋肉をほぐしては気分転換に剣を取る。木立を相手に剣を振る。動かない的ではつまらなかったけれど、枝を狙えば気ぐらいは紛れる。 と、突然ウルフが剣を引く。顔から血の気が失せていた。 「やだなぁ、俺」 片手で顔を覆った。木立に見てしまったもの。幻だとわかっている。だが目が見てしまった望み。木立がリィに見えていた。 「んなことしたらサイファに怒られるって」 自分で自分の頭を殴りつけ剣を置く。リィを殺して何になる。あれほど大切に思う彼を再び失ったら、サイファが壊れてしまう。それくらいはウルフにもわかっている。そして何よりも確実なのは、そんなことをした自分をサイファは決して許さないだろうこと。 「どんな子供だったのかな」 丸太相手の格闘に戻りながらウルフは呟く。斧の一振りごとに木っ端が飛んだ。 あれほどの信頼を寄せられる相手。彼だけはなにがあっても自分を裏切らないと確信しているかの態度。 それは人間で言えば親子関係に最も近いものかもしれないとウルフは思いたい。けれどウルフは和やかな親子の情愛など知らずに育った。父親と顔を合わせるのは儀式のときくらいのものだったし、そもそも母親が誰なのかもよくは知らない。自分を産んだ時に亡くなったとだけ。 「だいたいさ、兄弟が多すぎんだよね」 今更ながらの苦情を申し立てては笑ってしまった。兄弟など誰が誰なのか、名前と顔が一致しない。あれでよくぞ父王は自分の子供を把握できるものと思う。もっとも、子供を直接に面倒みているのは臣下であったが。 「どうしてるかな」 兄弟から連想は例の兄弟へと飛ぶ。あれこそ兄弟としてのあるべき姿だと思う。仲が良くて喧嘩もして、すぐに仲直りして。 「あ、でもちょっとまずいか」 兄弟の一線を越えてしまった彼らを懐かしく思う。あの二人と出会うことがなかったならばサイファを知ることもなかった。あの二人がいてくれたからこそ、自分とサイファは共に過ごすことができるようになった。 半エルフの歴史を思えば仕方ないことなのだろうとウルフは思う。けれどそれにしてもサイファは警戒的で人間を好かない。どこかいつも壁があってそこからはたとえ自分でも入れない。 はじめは何もかもを拒絶していたサイファの壁が、少しずつ開かれたのは兄弟のおかげだった。だからウルフは彼らに感謝している。それからサイファと過ごすうち、もっと壁は開かれるようになった。 だから、サイファの壁は完全になくなったと思っていたのだ。ここ幻魔界にくるまでは。あるいはリィに会うまでは。 「ずるいよな、お師匠様」 もしも自分が彼より先にサイファに会っていたら。考えても無駄なことをウルフは願う。もしもサイファが一番最初に心を許した相手が自分だったら、リィの立場に立てただろうか。 「絶対無理」 自分で言って自分で笑う。自嘲の響きに口の中が苦かった。 木っ端だらけになった顔を触っては顔を顰める。木屑が触れて痛かった。それよりも手に触れたもの。 「サイファが、怒る」 ぽつりと言って悲しくなった。怒ってくれるのだろうか。戻ってくるのだろうか。いま自分が建てている小屋に、彼は住む気でいるのだろうか、自分と共に。 溜息まじりに首を振り、着ている物を脱ぎ捨ててウルフは川に身を浸す。冷たくて心地良い水だった。ざぶざぶと乱暴に顔を洗って木屑を落とせばようやくさっぱりした気分になる。 「あ、いけね」 やらなければ、と思ったはずなのに物思いに囚われて道具を忘れてしまった。慌てて水から上がって取りに行く。すぐに石鹸と剃刀を持って水辺に戻った。 「痛っ」 剣はあれほど巧みに使うくせに、剃刀だけは巧くならない。元々ひげが濃いほうではないせいだろうと自分では思っているけれど、サイファに言わせれば不器用なだけとなる。 シャルマークを旅した少年時代、ウルフはひげなど剃った例がなかった。まだ子供だったから、と言うよりはそれほど薄いと言ったほうが正しい。大人になった今でも毎日剃らなければならないほど伸びはしなかった。 傷をつけてしまった顎先を水で洗って冷やす。冷たい水にすぐ血は止まった。 「嫌がらせ、してみようかなぁ」 川面に映る、ぼやけた自分の顔に向かって言ってみた。このまま剃らずに伸ばしてしまおうか。きっと不揃いで疎らで、みっともない。 「ねぇ、サイファ。怒ってくれる?」 映った顔は流れて消えて答える声などあるはずがない。無精ひげで触れると嫌がるサイファ。きっとあたって痛いのだろうと思うから丁寧に剃ることにしていた。けれどサイファは今どこにいるのか。自分の元にはいない、リィの側にいる。 震えた体を水に冷えてしまったせいにして、ウルフは服を身につけ焚き火にあたる。程なく血色が蘇った。心の中の冷たいしこりには気づかないふりをする。 「ん。腹減った!」 勢いよく言う言葉の虚しさ。体を伸ばし、それから強張っていないことを思い出しては苦笑する。 サイファが持ってくる食べ物はどれも旨かった。ウルフが調理などろくにしないことを知っているのだろう、いつもすぐに食べられる物ばかりを持ってきてくれる。 それはパンであったり菓子であったりした。それからたまには鍋に入ったままの温かい物も。どことなく、以前食べていた彼の料理とは味が違う。 「あ、やだやだ!」 せっかくの食事なのに嫌なことを考えてしまった。これはサイファが作ってくれた物、世界が違うから味も違うけれど自分のために作ってくれた物。そう思いたい。決して、リィが作った物の残りなどではないはずだと信じたい。 ウルフの舌は確実に味が違うことを知っていたけれど、頭は認めたくなかった。ウルフは溜息をつく。 もしもこれがサイファの作った物であるとしたら。それはそれで嫌だった。リィが彼の作った物を食べているのかと思うと嫌だった。彼らは二人で楽しく食事をしていることだろうとひがむ自分が嫌だった。 「せっかくのご飯なのになぁ」 ちっとも食が進まなかった。旨いのに、食べたくない。こんなことはいまだかつてなかった。ウルフだとて風邪くらいは引く。そんなときは食欲がなくなりもする。当然、旨くもない食事を取る羽目になる。 だが、いまは。体調はどこもおかしくない。適度な労働に心地良く体は疲れてもいる。食事が旨くないわけがない。 「あんたがいないからだよ、サイファ」 この時間には帰ってくるはずもない彼に文句を言ってウルフは炙ったパンを齧った。もそもそと、砂でも噛んでいる気分だ。 一人の食事など慣れている。慣れていた、と言ったほうが適切かもしれない。シャルマークに旅する以前は食事とは一人で取るものだと思っていた。 兄弟と、そしてサイファと取る粗末な野営食が、ウルフにとってはどれほど旨かったことか。おそらく兄弟にとってもそうだったのだろうとウルフは思う。彼らだとて、城中での食事は似たようなものだろう。けれど彼らには互いがいた。自分は一人だった。 「会いに行ったら、怒るだろうなぁ」 どこを探すかなど、わからない。それでもウルフはサイファがいる場所ならば見つけられる気がしている。 「行っちゃおうかな」 立ち上がり、焚き火の前で腕を組む。それから再び座ってしまう。 「あんなこと、言うんだもん」 彼のあの言葉を聞かなかったら、行ってしまったかもしれない。サイファは言った。誰にもリィの住む場所に行かせたくない、と。ウルフは無言のサイファの言葉も感じ取っていた。誰も、の中には自分も含まれていると知っていた。 ちくりと胸が痛んだ。シャルマークの時とよく似ていて、それよりずっと強いもの。嫉妬。あの時のリィは影だった。が、今は。 せせらぎのものではない水音が聞こえ、はっとウルフは顔を上げる。物思いからはあっという間に立ち直り川辺を見つめた。そこには目をみはるようなものが立っていた。 |