ウルフが目覚めたとき、サイファはまだ眠っていた。背後の木にもたれかかって眠るリィの膝に頭を乗せ、丸くなって眠っている。ずきりと胸が痛んだ。
 まだ眠る二人を起こさないようウルフは立ち上がる。昨夜リィが笑って止めた果実をひとつもいでは口に運ぶ。
「うわ、まず」
 苦くて渋い。口が曲がりそうだった。ただ、今の気分には相応しいような気がする。ウルフは薄く自嘲した。
「だからまずいって言っただろ」
 はっとして振り向いた。
「起きてたの?」
「いま目が覚めた」
「ふうん。あ、おはようございます」
 ぺこりと律儀に頭を下げる。リィの身じろぎに気づいたか、サイファがようやく目を開けた。
「なに……」
「たいしたことじゃない」
「だから、なに」
 半身を起こし、サイファがリィの目に見入っている。彼にはそんな柔らかい口調で話すのだな、とウルフは思う。
「若造が人の言うこと聞かないでまずいもん食ってた」
「……いつものこと」
 あからさまな溜息をついて見せ、サイファがウルフに視線を向けた。
「腹が減ってたなら、昨日の残りを食えばいいだろう」
「そう言うわけじゃないんだよね」
「ではなぜだ」
「なんと言うか、興味?」
 へらへらと笑うウルフを見ては久しぶりに癇に障った。なぜリィの言ったことが聞けないのかと思う。彼は自分の師である上にここ幻魔界に来てから長いのだ。先住者の言うことは聞くほうが賢明と言うもの。もっとも、それをウルフに求めるのは無駄と知ってはいたが。
「死にたくなかったら自重しろ」
「了解。でもサイファ」
「なんだ」
「死ぬのかな?」
 あっけらかんと彼は言う。言われてみればそのとおり。ここに死はあるのだろうか。
「死より悪いものがないわけじゃないぞ、若造」
 サイファの疑念を感じ取ったよう、リィが言う。そちらに顔を向ければ彼の視線が和らぎ手が伸びてくる。髪を撫でる懐かしい感触にサイファは体を委ねた。
「どういうこと?」
「死にはせんでも、滅びはするぞ」
「んー、どう違うの?」
「まぁ……どちらにしても生きてはいないということだけ覚えておけ」
 ウルフの理解力の覚束なさを思ってリィは言葉を濁す。と、サイファが閉じていた目を開けリィを見た。
「説明して」
 意外と強い口調にリィは苦笑を漏らす。すっと細められた目が剣呑だった。自分以外の誰かがウルフを侮辱するのは許さない、と言うところかと思えばリィは苦笑するしかない。
「死は永続ではない」
「もっとちゃんと」
「これからだって。地上の生き物が死んだとき、魂は残る。幻魔界にくる者は少ないけど皆無じゃない」
「他は」
「そうだな、生まれ変わる者もいる、と言う」
 歯切れの悪い言葉にサイファは首をかしげ、リィにもわからないことがあるのだと知った。
「滅びは」
「完全に永続的なもの」
「魂さえも残らない?」
「名残の記憶すらも。もっとも例の悪魔からの伝聞だ。俺も理解しているとは言えん」
 潔くリィは認め、サイファに視線を送る。それで納得できたわけでもないだろうが、当面はそれでいいとばかりサイファがうなずいた。
「気をつけろ」
 そしてウルフを見もせずそれだけを言う。ウルフに理解できるのだろうかとリィは危ぶむ。サイファの見せた懸念を、その思いの深さを。震えかねない恐ろしさに目を向けることもできなかったことを。
「わかってるって」
 軽く言った彼が理解しているとは、リィには思えなかった。密かに息をつき、ようやくじろりと彼をねめつけたのだからサイファにも疑わしく思えたのだろう。
「あんたを置いてどこにも行かない。約束したでしょ」
 ふっと笑ってウルフが言う。
「どうだかな」
 答えるサイファはそっけない。が、ウルフはそれで満足とばかり昨夜の残りの食べ物をあさる。程なく座り込んでは菓子など口に運び始めた。
「ねぇ、お師匠様。これってここの果物なの」
 まるで子供ではないかとリィは内心で目をむいた。これほど簡単に話を変えられるような話題ではなかったはず、と。
「そうだが?」
「ねぇ、リィ。どこで採れるの。教えてやって。うるさいから」
「どこって……そこに生えてるだろ」
 サイファの目の和やかさにもリィは驚く。話を変えられて喜んででもいるようだった。あるいはあの投げやりな会話で理解しあってでもいるというのか。
 リィの知るサイファは素直でまっすぐで優しい子供だった。あのようなひねくれた会話で満足するような彼ではなかった。少なくともこの自分に対しては今もなお。不思議に囚われながらリィは目の前の一樹を指していた。
「これ?」
 まさか、といった顔をしてウルフが振り返る。ひねこびた木だった。ごつごつと細い枝が棘刺すよう、鉤爪まがいに生えている。その枝の間になる果実はといえばこれまたとても食べられるとは思えない青い萎びた物。
「だって、これ、色違うよ?」
 ウルフが菓子に視線を落とし、訳がわからないと顔を顰めた。確かに菓子に乗っている果実は淡い桃色にふっくらと輝いている。
「焼くとそうなるんだ」
 信じがたいと目を上げたウルフに密やかな笑いを送れば、サイファが立ち上がる。なにをするつもりか、とリィが見守るうちサイファは果実を木からもぎ取った。
「ねぇ、リィ」
「なんだ」
「これ、生で食べられるの」
「少し酸っぱいがな」
 言った途端、サイファの手がウルフの口許に行く。何かを考える暇などなかっただろう。唇に押し付けられたそれにウルフは歯を立てていた。
「う……。お師匠様の嘘つき! すごい酸っぱいじゃんか」
「……それは無体をしたサイファに言うべきだと思うが」
 リィはサイファが食べるのを期待していたのだ。そして文句を言われるのを楽しみにしていた。心の中、こっそりと溜息をつく。
「サイファ、酷いと思わない?」
「許せ。リィがああいう口調のときには信用できないのを知っているからな」
 情けない顔つきのウルフにサイファは華やかに笑って見せた。それだけでいいのだろう、ウルフの表情が溶けていく。リィは二人に見えないよう、拳を握った。
 サイファの手の上、果実がふっと炎に包まれた。ウルフは驚いた顔をしたけれど、果実が燃えてしまわないのを見て取ったのだろう。楽しそうにそれを見守った。
 次第に果実が硬さを失っていく。サイファはこの辺りでいいだろうと見極めては揺らめく炎を消した。果実は皮も剥かないのに青さを失い、萎びていたはずのそれは桃色に艶めく。
「口を開けろ」
「ちょっと、待って!」
「待たない」
「熱いでしょ、サイファ――」
 最後は悲鳴になった。サイファの楽しげな表情を見るにつけ、これが彼らの日常なのかと思えばリィは頭痛がする思いだった。
「どんな味がする?」
 ウルフの前に膝をつき、サイファが彼の目を覗き込んでいた。
「痛かった」
「それは、味か?」
「サイファ! 自分でやってみなって。ほんと熱かったんだから。せめて冷ましてからにしてよ」
「それでは私がつまらない」
「サイファって……お茶目で可愛いよ」
 がっくりと肩を落とし言うウルフにサイファは笑う。それから何も言わず彼の前に手を突き出した。ウルフが大人びた苦笑を浮かべて水を取っては彼の手についた果実の汁を拭う。
 リィは無言で彼らのやり取りを見ていた。大人びた、とウルフに言うのは間違っているのだろう。人間としては立派に大人だ。だが彼にはどこか少年の気がつきまとう。それをサイファは愛でているのかもしれない。
「はい、できたよ」
 綺麗な布で水気を拭き取り、ウルフがサイファの手を離す。礼ぐらい言うのだろうと思っていたリィが驚くことにサイファはゆっくりとウルフの顔を見つめた。視線をそらそうか、そう思いはしたがいっそ見てしまうことに決めた。が、サイファはさらに驚くことをした。
「誰が、お茶目で、可愛いと?」
「あんたが」
「ほう?」
 背後にいてさえ、サイファが獰猛な笑顔を浮かべているのが見えるようだった。リィは彼のそんな顔を見たことなど一度もないというのに。
 衝撃音がし、ウルフが地に手をついた。呆れ顔でサイファを見ているウルフの頬にくっきりと手形が浮かぶ。
「恥ずかしいことを言うな、若造!」
 立ち上がり、肩を震わせているサイファが決して振り返るはずはないと、リィは体を折って笑い出す。声を立てない用心だけは忘れずに。
「だから、そういうところが……」
 物を食べたすぐあとに蹴りを食らうのはさぞかしつらかろうとリィはウルフに同情した。もっともサイファはそれほど強くは蹴っていないようではあったが。
「せっかくの朝食をぶちまけたいか?」
「まだ食ってないって」
「食べるまで、待ってやろうか」
「いい。遠慮する。俺が悪かったって」
「本当に、わかっているのか、お前は」
「わかってる。お師匠様がいないときに言う」
 サイファはわかっていない、と怒鳴る代わりにもう一度張り飛ばしていた。




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