夕闇が濃くなり始める頃、リィと共に戻ったサイファが見たのは元の場所に黙って座るウルフだった。
「お帰り」
 何事もなかった、そんな顔が作れただろうか、そう内心に呟きながらウルフは笑う。サイファは気づかなかったよう少しだけ笑った。
「ここにいたのか」
「うん」
「なぜだ」
「考えてみたらさ、あちこち動くのは危ないかなぁと思ってさ」
「賢明だ」
「やっぱりね」
 したり顔でうなずくウルフの手首にサイファは触れる。ほろほろと一筋の髪が崩れ去った。
「あ。もったいない」
「なにがだ」
「髪。そのまんまがよかった」
「馬鹿なことを」
 ウルフの言葉に一瞬、動揺した。振り返りそうになる首を慌ててサイファは止める。が、背後でかすかな笑いの気配があった。
「サイファ?」
「なんでもない」
「そう?」
 何を感づいたのだろうか、サイファは思う。遥か昔のリィのことなどウルフが知る由もないはずなのに。
 今でも人間のすることはよくわからない。リィもウルフもなぜ、髪の毛ごときを大切にしたがるのだろうか。はっとしてサイファは体を硬くする。振り向きはせず、黙ってリィに精神の指先を伸ばした。
「あなた、よもや私の髪紐もってはいないよね」
 呟きのような心の声にリィが同じく心で苦笑したのがわかる。当たり前だと問うたサイファは己の愚かを知る。千年も昔の話。今まであるはずがない。だからサイファはリィが答えなかっただけなのだと気づきはしなかった。
「若造、火を作れ」
 わざとではなかったけれど、ウルフに当り散らすよう言ってしまった。わずかばかり後悔する。が、彼は気にした風もなく、留守の間に集めておいたのだろう枯れ枝を集めて焚き火の支度をし始めた。
「面倒なことするなよ」
 リィが横から口を出すのをサイファはほんの少し、睨む。それを目に留めたはずなのにリィは意に介さず一言で枯れ枝に火をつけた。
「わぁ、助かった。早いなぁ」
 嬉々としてウルフが言うのがサイファは気に入らない。それではまるで自分があえて彼に苦労をさせているようではないか。
「サイファ、暗くなっちゃう前になんか見つけてこようか?」
「必要ない」
「俺のところから持ってきた。可愛いサイファに食わせようと思ってたんだがなぁ」
「リィ! いいでしょ、私も食べるんだから」
「納得行かないのは、なぜだ」
「そんなこと私が知るはずないでしょ」
 ぷいと顔をそむけた先にはウルフの顔。あまり見たことのない苦笑の仕方にサイファはわずかに顔を曇らせる。
「サイファ」
「なんだ」
「俺さ……」
「早く言え!」
 それでも、会話はいつものようにしか行かない。歯痒かった。
「すごい腹減ったの」
 考えるより先に手が出た。気づいたときウルフは頬を押さえて溜息をついている。しまったと思ったときには遅かった。思わず手を頬に当ててみれば仄かに熱い。
「痛いでしょ、サイファ」
「……当たり前だ」
 抗議の声に返すのはそんな冷たい言葉。そむけた顔にウルフの手が添えられる。無理に向かせようとはしなかった。あたたかい彼の手にほっと息をつく。
「ほんとお前、素直じゃないなぁ。可愛いサイファ?」
 茶化すような声に頭痛がしてきた。嫌だとやはりはっきり言うべきだった。ウルフの前でその呼称を使われたくない。が、それをウルフの前で言うのはもっと嫌だった。
 赤々と熾った焚き火の前、リィが腰を下ろした。サイファは何も考えず彼の隣に座りなおす。ウルフが火の向こうから二人を見ていた。
「どこが」
「なに言ってんだ、あんな素直だったお前が……変わったなぁ」
「誰のせいなの、リィ」
「はいはい、俺のせい俺のせい」
 小声で因業爺、呟いた。どこまで本気なのだろうかと思う。彼が自分を残して死ぬのはつらかったのだろうと思う。だが自分だとてつらかった。あの時自分の中の一部はリィと共に死んだのかもしれないと思うほどに。それを彼はわかっているのだろうか。
「これでもけっこう素直だよね、サイファ」
「どこがだ」
「だってさ、可愛いよ?」
 あっけらかんと言われるのに絞め殺したくなってきた。リィの前で何を言うか、思っただけで口からは出てこない。じろりと睨みつけるのが精々だった。
「俺と暮らしてた頃のサイファはな、もっと素直だった。なんでも好きなように喋ったしなぁ。なぁ、サイファ」
 いたずらめいたリィの声に返答をやめようと思ったのは一瞬だった。振り返りこそしなかったけれど、サイファは知らず返事をしている。それにうなずいた瑠璃色の目がにたりとし、膝の上に頬杖をついては真正面からサイファを見つめる。
「俺のこと好きか?」
 ウルフがわずかに目を見開いたように見えた。あるいは火のいたずらだったのかもしれない。
「なにを今更。大好きだって、知ってるでしょ」
 ふっと横目で彼を見てサイファは微笑む。何度となく繰り返してきた会話だった。遠く時を隔てたいまでもまだ鮮やかに蘇る記憶の甘さ。
「じゃ、若造は」
「大嫌い」
「お前なぁ……せめて即答すんなよ」
「いいの、これにはわかるから」
 呆れ顔のリィから視線をはずしウルフを見れば唇をほころばせた彼の目許も和らいでいる。
「だから、素直じゃないって言ってんだ」
「だから、あなたのせいだって言ってるの。もういいでしょ、その話は。ウルフ、焼けた」
 焚き火の炎で軽く炙っていたパンを差し出せば嬉しそうに手にとってかぶりつく。
「熱いぞ、と言おうとしたんだが」
「……先に言って」
「見ればわかるだろう、見れば!」
 口許に手を当て呻くウルフをリィが笑っていた。かすかに不快でその思いにサイファは胸が温かくなる。
「あぁ、痛かった。ねぇ、これってサイファのお師匠様が作ったの?」
「そうだが……そのサイファのお師匠様ってのはやめないか」
 サイファから手渡されたパンをリィは吹き冷ましながら口に運ぶ。その間にもサイファが手早く持ってきた物を切り分けたり取り分けたりしているのを視界の端で見ていた。ずいぶんと達者になったものだと思いながら。
「だって、紹介されてないもん」
 ウルフが唇を尖らせ、まるで子供のよう拗ねて見せる。隣のサイファがあからさまに溜息をついていた。
「リィ、これがウルフ。若造、彼がリィ師だ」
 これ以上簡単になどできない紹介をサイファは溜息まじりにし、天を仰いだ。青い黄昏は夜に席を譲っていた。
「よろしくお願いします。……うーん、やっぱり呼びにくいな、お師匠様でいいや」
 いいよね、そう目顔で念を押すウルフについリィはうなずいてしまう。そして苦笑と共に改めて承諾を与えた。
「どうしてだ。こんな単純な名もないだろう。舌の噛みようがない」
 あまりといえばあまりなウルフの物言いに、サイファは久しぶりに何度も溜息をついている。あのシャルマークの旅の途次以来かもしれないとどこかで思った。
「だってサイファのお師匠様じゃんか」
「だからなんだ」
「あんた、俺がお師匠様を呼び捨てにしたら癇に障るでしょ」
 リィから視線を外しウルフはサイファを見ては言う。
「……それもそうだな」
 言われてみるまで気づかなかったとは不覚、とばかりサイファは唇を噛む。たとえウルフであろうとも、彼をリィとは呼んで欲しくはなかった。
「さて、と。今日はなんかどたばたしたからさ、俺ちょっと疲れちゃった。先寝てもいい?」
 ぎこちなくも他愛ない会話をしつつ食事を終えたころ、ウルフが伸びをする。茶でも淹れてやろうかと思っていたサイファは拍子抜けして彼を見た。
 顔色が悪いような気がする。手を伸ばして額に触れた。そっと頬を撫でる。
「大丈夫。具合は悪くないから。疲れただけだって」
 サイファが懸念を口にするより先、ウルフが保証した。それから首をかしげた。
「死ななくっても病気ってすんのかなぁ」
 実感が湧かない、と言いたげな口調にサイファはやはり今日何度目かの天を仰ぎ、リィは苦笑をこらえていた。
「ま、いいや。んじゃ、先寝るよ?」
「あぁ」
 ごろり、横になったウルフに自分のマントも放り投げた。こんなときばかりは器用に受け止め、ウルフはそれに包まって眠る。
「可愛いサイファ、おいで」
 リィとはしばらく黙ったままでいた。なぜと言うわけではない、あの頃もそうして黙って座っていたことなどいくらでもあった。リィがそうしてサイファを呼んだのは、ウルフの寝息が深くなった頃だった。
「なに?」
「いいから、おいで」
 呼ばれてサイファはリィに体を寄せる。温かい彼の体に思わず頬が緩む。
「疲れただろう? 寝ちまえよ」
 どこかで聞いた言葉にサイファは首をかしげる。そして思い当たってはリィの目を覗き込んだ。
「ねぇ、リィ」
「うん?」
「あれは実在だったの」
「それじゃ、わかんねぇって」
 笑うリィにサイファはわざとらしく唇を引き締めて見せる。彼はわかっているはずだった。
「私が死にかけたときのこと」
「あぁ……」
「どっちなの」
「実在だ」
「やっぱり」
「俺とお前はずっと繋がってたからな」
「嘘。私が気づかないはずがないもの」
「蜘蛛の糸よりなお細い糸さ」
「ずっと……」
「一緒だったよ、お前と」
 サイファは答えない。答える言葉などなかった。サイファは気づかなかった。リィは気づいても気に留めなかった。ウルフの息がわずかに乱れたことなど。




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