ウルフは一人、元の場所に佇んでいた。辺りを見てまわるとは言ったものの、どこに行く気にもなれなかった。 危険だというわけではない。ただ何をする気にもなれない、それだけだった。 「俺にだってあんな顔見せたことないじゃんか」 ずるずると木にもたれ、ウルフは座り込む。知らず両手で顔を覆っていた。 サイファの、あのような顔を見たことはなかった。あれほど素直で嬉しげで、まっすぐな目を見たことはなかった。 「ずるいよ、サイファ」 自分はなんなのだろうかと思う。愛されていることを知ってはいる。だが、自信などない。そう言い切ったのは、彼に寄せる愛情よりもむしろリィに対する意地。 ウルフはサイファの指輪を思う。師から授けられたとずっと大切にしてきた指輪。それが自分に関するものだと知って驚いたときの顔。 いまでもそれはサイファの指を飾っている。ずっと手放さずにいるのを仕方ないなと、諦め半分で眺めてはいた。それを口に出せば彼が怒るのは目に見えている。だから言ったことはない。が、少しばかり妬きはした。 「お師匠様じゃん」 けれどいま見てしまった。指輪の石の色。紛れもなくリィの目の色をしていた。以前、些細なことで似姿を目にしたことはあった。けれど、それほどはっきりと知っているわけでもないのだ。いくら似てはいても、本人ではない。 あれを見るとき彼は何を思っていたのだろう。懐かしい師を思い出していたことは間違いがない。ただ、それは懐かしいだけなのかと思う。 ウルフは見てしまった。リィの指に嵌っていた指輪を。彼がリィと知らなければ戦士だと思ってしまったかもしれない、大きな手だった。指輪が似合うとは思えない指なのに、妙に似合っていた。 「あれ。絶対、真の銀だよな」 以前、見た覚えがある。それどころか身にまといさえした。シャルマークで見つけた武具は真の銀でできていた。あの透き通るような輝きを見間違うはずもない。 想像でしかなかった。けれどウルフはあっていると思う。あの指輪はおそらくサイファが贈った物だろう、と思う。それは真の銀のせいでもあったし、なにより石のせいであった。 サイファの目と同じ色をした石を嵌めた指輪。どんな思いでそれを彼は贈ったのだろうか。 「ずるいよ、サイファ……」 何も物が欲しいのではない。言ってさえくれればと思う。リィと彼がそのような物を互いに身に付け合うほどの関係だったと言ってくれればよかった。その程度のことで妬きもしなければ怒りもしない。たぶん、そうウルフは思う。サイファ自身の口から聞いていれば、これほど思い惑うこともなかったはずなのだ。 彼の胸の内を知らないではない、そしてサイファ自身にそれをずっと隠し続けているウルフは思う。 「知りたくなんかないけどさ」 ここ数年、サイファには聞かせてこなかった自嘲の響き。もっとも理性は指輪のことなど言うほどのことではないから言っていないのだろう、と囁いている。 ウルフにそれを信じることは難しい。もし二人を目にする前だったならば、あるいは信じようと努力したかもしれない。 だがあれを見てしまった後では。 「違うって言ったじゃん。疑うなって怒ったじゃん」 誰に向かって文句を言うのか。そもそも自分にそれを言う権利があるのか。ウルフは抱えた頭をさらに振る。 サイファの目に滲んだ涙。自分と暮らしたのはたった十数年。リィとはどれほど共に過ごしたのだろう。それはどんな時間だったのだろう。 自分はサイファの目が潤んだところでさえ見たことがない、そうウルフは唇を噛みしめた。 「サイファ……」 彼が泣いたことが今でも少し、信じがたい。信じたくないのかもしれない。一人で堪えようとした彼をリィは黙って抱きしめた。 「ずるい」 居もしないリィに向かいウルフはきっと視線を向ける。 あれは自分のすべきことだった。自分だけが、サイファに触れられるのだ。それなのにリィは当然のよう彼を抱きしめサイファは嫌がりもせず体を委ねた。 あのシャルマークでの苦悩が蘇る。リィとサイファの間を疑い続けた日々。彼の塔に暮らすようになっても、しばらくはその癖が抜けずずいぶんと叱られたものだった。 あれは嘘だったのだろうか。思った途端ウルフは首を振って否定する。サイファが嘘をつくはずはない。それでも、と心は叫ぶ。 「言わなかっただけってことか」 苦い言葉が口からあふれる。悲しい思いをせず済むように、サイファはそう思って言わなかったのかもしれない。 違う、誰かが叫ぶ。我が師との間を疑うな、彼は何度となくそう言った。不愉快だ、とも。だから、言葉は間違いなくサイファの中では事実なのだ。 「でもサイファ……。俺、あんたのこと知らなすぎるよ」 サイファの子供時代を知らない。師と過ごした日々を知らない。彼が死んだ後の苦悩を知らない。 たった十数年。サイファにとってはどれほどの時間なのだろうとウルフは思う。 「ほんのちょっとだよね」 瞬きにも満たないほどの。半エルフにとっては人間の一生でさえ、瞬きのよう。ならば十余年など。 ウルフには、長い時間だった。あっという間に過ぎ去った時間でもあった。その間、願っていたのはただひとつ。 「サイファと一緒にいられるようになったのに」 死なない内に、年を取りすぎない内に。できるだけ、早く。サイファも同じ願いを持っていると思っていた。もしかしたら自分だけだったのかもしれない。 まさかここでサイファを奪われるとは思ってもみなかった。リィにとっては自分こそがサイファを奪った者かもしれない。そう思ってウルフは苦く笑う。 「サイファ」 気づいているのだろうか。ウルフは気づいた。リィの目に浮かんだ色に、示した仕種に。あふれんばかりの愛情があったことを。 サイファにそれを言えば当たり前だと言うのだろう。けれどウルフが見て取った愛情は、サイファが思っているであろうそれではなかった。 「あの人って絶対」 サイファを愛している。それだけは間違いがない。サイファが否定してもウルフは自分の勘のほうを信じる。 なぜならリィの示した愛情には覚えがあるから。自分がサイファに向けるのと同じもの。それならばどこまでも深く知っている。 「サイファ」 ここにはいない彼を呼ぶ。目はリィに抱かれて行った方角ばかりを追う。見たくなどなかったのに、凝視してしまった。余裕の笑みを浮かべていたリィの顔まで浮かんでくる。 情けなかった。今となってはサイファが自分を選ぶとは思えない。死んでなお一番大切だったリィ。死者の中で一番であってもいい、そうかつては言った。だが彼はいまここに生きている。 「勝てるわけないじゃん」 そもそもサイファが自分のどこがよくて一緒にいるのかウルフにわかった例はなかった。 「あんた、俺のどこが好きなの」 皮肉に思う。どこにも行かないと誓うところかもしれない、と。 リィに見せる顔とは違って言葉より先に手が出るサイファ。今まで数え切れないほど殴られたし蹴られた。決して後々まで残るような傷を与えられることはなかったけれど、ウルフの知るサイファはそういう彼だった。 けれどウルフはそれ以外のサイファも知っている。ウルフが離れると本当は寂しがっていること。自分が一人で出かけた後は必ず温かい食事を作っておいてくれること。彼自身は顔を見せることを嫌がってそんなとき食事を共にはしない。けれど今テーブルに置いたばかりなのがありありとわかる湯気の立つ食事がいつもあった。 ウルフは半エルフを何人も知りはしないからそれが種族の特徴なのかはわからない。少なくともサイファは恥ずかしがって出てこないだけなのだと知っていた。 ありがとうとご馳走様を言いに行けばぶっきらぼうに手を振って答えもしないサイファ。それでもウルフは彼の目許が照れて赤くなっているのを何度も見た。だから、それでよかった。 今は穿ってしまう。ただ、寂しいだけだったのかもしれないと。リィの代わりになるならば誰でもよかったのかもしれないと。 サイファにとってリィの代わりなど誰もいないことを悟りつつもそんなことを思ってしまう。 サイファが求めていたのはただ一人、リィだったのかもしれない。人間の宿命に従って死んだリィを諦められなかったのかもしれない。 巡り巡る思考にウルフは低く呻きを上げる。握り締めていた掌を開き、草を引きちぎっては風に流した。それがサイファが不安を覚えたときの仕種に酷似していてウルフは苦く微笑する。 「サイファ」 どこにいるのだろう。何をしているのだろう、リィと共に。 「サイファ」 口をつくのは彼の名ばかり。 「あれってこういうことか」 強いて他の事を口にすれば苦さが増した。悪魔は言わなかったか、守護者とは限らない、と。 リィは確かにサイファの守護者だろう。自分にとっては違う。サイファが自分を選んでくれれば、リィも気にかけてはくれるはず。それは彼の口から聞いていた。 ウルフはリィの言葉を疑ってはいない。サイファの大切な師が、そのようなことで嘘をつくはずがない。 同時に痛みを覚える思いだった。嘘をつけばサイファに軽蔑される。だからリィは嘘をつかない。それをウルフは悟ってしまっている。 「もっと大きな嘘なら、ついてるだろうけどさ」 強張ってしまった体を無理に伸ばした。彼らが戻ってきたとき、戻ることがあったして、その時には無様をさらしたくない。 ウルフは持ち前の、サイファに言わせれば無駄な時ばかり鋭い勘でリィが嘘をついたことを見抜いていた。サイファはリィの嘘を知らない。 リィが隠し続けてきた嘘も、同じ思いを抱くウルフには素通しだった。 ゆっくりと天を仰ぐ。甘い黄昏が迫りつつあった。違う世界にいるのに日は暮れるのかと少し驚く。明日という日が昇るのかいぶかしみ、そして信じる。いつでも夜は明けると。 その夜明けが自分にとっての夜明けかどうかはわからないものの。 「どうすんのかな、お師匠様」 頭上高く腕を掲げ、目一杯に体を伸ばす。わずかに痛むけれど心の痛みほどではなかった。 リィの嘘を知ったけれどウルフはそれをサイファに告げるつもりなど毛頭なかった。そのような考えは浮かびもしなかった。ウルフは、そういう男だった。 |