あの頃に戻ったよう、彼に物を問うのは楽しかった。自分には知らないことがこれほどたくさんある、そう思うのは心躍ることだった。
「守護者に会うって、言われたの」
「誰に」
「悪魔か堕天使。どちらだったかな」
 わずかに顔を傾ければ背後でウルフが悪魔だよ、そう言った。それにリィが苦笑してはうなずいた。
「あなた?」
「他に誰がいると思ってんだ、お前は」
「だろうと、思ったの」
 ほっと安堵する。彼以上の守護者など、いるはずがない。彼ならば何の不安もなかった。
「もっとも、安全なのはお前だけだがな」
「どういうこと」
「俺の保護下にあるのは可愛いサイファ、お前だよ」
「……リィ?」
「ま、お前がどーしてもって言うなら、若造のことも気にしてやらなくはないがな」
「……この因業爺!」
「懐かしい憎まれ口に涙が出そうだね、可愛いサイファ?」
 きっとサイファはリィを睨みつけ、それから目許が緩んでは笑い出す。互いにわかっていてする他愛ない言い合い。震えがくるほど懐かしかった。
「サイファ、行ってきなよ」
 背後からウルフが軽く肩に手を置く。払い除けてサイファは振り返った。リィに向かってとはまるで違う目つきでサイファは彼を睨みつけ、それからきつく唇を引き結ぶ。大きく息を吸って天を仰いだ。それから髪を一筋、引き抜く。
「手を出せ」
 なぜと問うこともせずウルフが片手を出すのにサイファは少しだけ唇を緩める。手首に髪を回しては結ぶ。
「ほどくな」
「うん」
「ほどこうと思っても、ほどけんがな」
「ほどかないよ、大丈夫」
 うなずいたウルフの髪に手を伸ばす。無性に苛々として彼の赤毛を乱暴にかき混ぜた。そしてサイファは彼が何も言わないうちに、とリィに顔を向け堰を切ったようリィの腕の中に飛び込んだ。
「少し、借りる」
 軽がるとリィは片手で抱き上げ、サイファは彼の首に緩く腕を回す。ウルフが返事をしたかどうか、サイファには聞こえなかった。
「どこに行くの」
 そう尋ねたのはだいぶ経ってからだった。リィはサイファを抱いたまま足を進めている。重くないのだろうか、ふと思ったが彼が何も言わないのならばいいのだろうとサイファは彼の首筋に顔を埋めた。
「内緒」
 楽しそうな声が返ってくる。まるであの頃と同じだった。いつもそう言ってリィはサイファを楽しませた。
「教えて」
 そしてサイファも返ってこない答えを知りながらそう問うのだ。やはりリィは喉で笑っただけで答えなかった。
「もう、リィってば」
 子供のような自分の口調にサイファはおかしくなる。彼と別れて千年以上、すでに子供ではないのに、と。いたずら半分彼の背を叩けば響くのは笑い声ばかり。
「もうちょっとだから、待ってな」
「うん。ねぇ、リィ」
「なんだ?」
「重くないの」
 やはり、尋ねたくなってしまった。少し顔を離して彼の瑠璃色の目を覗き込む。
「別に。少しは重たいがな」
「ふうん」
「背が伸びた分かなぁ。前よりは重い」
「変なリィ」
「どこがだよ」
「だって……よく覚えてるね、あなた」
「忘れなかったよ、お前のことは何一つ」
 柔らかくも甘い声にサイファは答えなかった。ただ彼の首に絡めた腕に少し力を入れただけ。リィの満足そうな吐息が聞こえる。互いにそれでよかった。充分だと知ることはそれだけで歓喜だった。
「ほら、ついた」
 何かを振り払うようリィは言い、サイファを下ろす。彼の首に顔を埋めていたサイファは驚きに目をみはった。
「どうだ、気に入ったか?」
 得々として言うリィの声も耳に入らない。呆然と立ち尽くすだけ。幻魔界であるということを一瞬忘れそうになった。それほど目に慣れた景色がそこにあった。
「リィ……」
 うっすらと翳ったサイファの声にリィは彼を背後から抱きしめる。翳りは暗くはなかった。懐かしさに潤んだ声。前にまわって来たリィの腕にサイファは手をかける。背中を預け、辺りをもう一度確かめるよう見回した。
「懐かしい……あなたが作ったの?」
 そこにあるのはあの頃二人が暮らした森の景色だった。木々の一本まで見忘れることなどありはしないサイファにとっての幸福の情景。リィにとってもそうなのかもしれない。小屋までもが再現され、森の中にぽつりと建っていた。
「よくできてるだろ?」
「うん。すごいね、あなた」
「俺を誰だと思ってんだ、お前は」
 朗らかな声がリィの満足を知らせる。道理で黙っていたわけだとサイファは苦笑してリィを振り返った。
「ねぇ、リィ」
「うん?」
「もうちょっと、何とかならなかったの?」
「なにがだよ」
「書庫」
 言ってサイファは小屋の隣に傾げて建つ小屋を指した。今にも壊れそうになっている小屋は例の書庫。きっと扉を開ければ入っただけで本が崩れてくるに違いない。そう思えば楽しくて仕方ない。
「放っとけよ。懐かしい思い出ってやつだ」
 リィが拗ねて言うのにサイファは笑い声を上げる。変えて欲しくなどなかった。からかっただけだった。それを伝えようと思った途端、彼の心が流れ込んでくる。
 長い間、誰かと精神を接触させたことなどなかった。いや、とサイファは思い直す。リィしかいなかった。彼が去って以来、誰ともそのような深い関わりを持たなかった。
 ウルフは違う。彼は人間で、しかも戦士だ。精神の技を扱うのに長けてはいない。もしも彼と心を繋ぐことができたならば、これほど歯痒い思いをせずにも済んだはずなのにとサイファは思うのだ。
「惚気るな、馬鹿」
「そんなことないもの!」
 うっかり接触を忘れて思いが巡ってしまったのをリィに笑われサイファは赤くなる。いたずらに振り上げた拳は振り下ろされることはなく、リィの髪にあった。
「白くないね」
「こっちのほうがいいだろ?」
「うん」
「ほら、中はいるぞ。茶にしよう」
 見つめるサイファの目をリィはさりげなく避け、けれどサイファに気づかせないよう小屋の中へと誘った。茶、の一言にサイファは表情を輝かせていた。
 小屋の中もあの頃と寸分違わないのをサイファは見て取る。思わず扉を開け、中を見てまわってしまった。自分の部屋がある。隣には彼の寝室がある。何度ここで眠ったことだろう、そう思うだけで心が温かい。
「可愛い俺のサイファ、おいで」
 茶が入った、とリィが呼んでいる。サイファは期待にあふれんばかりになって居間に戻った。
「やっぱり」
「なにがだよ」
「菓子、あるんだろうなと思って」
「なきゃ寂しいだろ」
「あなたがでしょ」
「どうしてそうなるんだよ」
「だって、私に食べさせたかったんでしょ、あなた」
「ま、否定はせんよ」
 にやりと唇を歪めたリィの隣に腰掛けサイファは菓子を取る。果物の乗った焼き菓子。幻魔界にある植物は、どのような味がするのだろうかと思う。口に運べばリィが覗き込んできた。
「おいしい」
 驚くほど良い味だった。記憶が薄れない半エルフとは言え、千年の時は長い。リィの焼いた菓子の味など、覚えているはずなのに自分で焼けば彼のほうがずっと巧かった、そう思ってしまう。けれどいま食べた菓子は味こそ違え、リィの菓子だった。
「そりゃよかった」
「ほっとした?」
「知ってるくせに聞くな」
 むっつりとした表情にサイファは顔を伏せ、肩を震わせていた。それをたしなめるようリィが肩に手を置く。顔を上げればそこにあるのは馴染んだ瑠璃色の目。
「ねぇ、リィ」
「うん?」
「無精ひげ。また生えてる」
 そっと彼の顎に指を伸ばした。死の床についた彼の、白く柔らかいそれではなくサイファの好んだ銀の無精ひげだった。
「いかん、お前がくる前に剃っておこうと思ってたんだがな」
 忘れてた、呟いて顎先を撫でるリィをサイファは疑わしげに見ている。忘れていたなど、信じられなかった。嫌がらせに生やしていたに違いないと思う。
「ごめんな、可愛い俺のサイファ」
 言ってリィが顔を寄せてくる。慌ててよけようと思ったけれど遅かった。しっかりと掴まれた体は動けない。頬にリィの無精ひげが擦れた。
「痛いって言ってるじゃない!」
「いかんなぁ、忘れてたよ。年かな?」
「そう言うときだけ年寄りぶるのも、変わってないね」
 皮肉に言っても顔は笑っている。嫌がらせに違いないと思いはするが、本気で嫌がってなどいないのだ。だから彼はうっかりと剃り忘れたふりをする。そのくらいのことはサイファもわかっていた。
「あの若造はひげ薄いんだな」
「そう? どうして」
「いや、綺麗にしてたからそう思っただけだが」
「あれは私が嫌がるからちゃんとしているだけ。あなたと違うもの」
「もったいないことをするもんだ」
 からからとリィが笑ってサイファの疑念は確信になった。まばらに伸びた彼のひげを摘まんで引っ張る。
「あなた、やっぱりわざとだね?」
「なんの事かなぁ。痛いだろ、離せって」
「嫌」
「可愛いサイファ、離してくれって」
「それも嫌」
「なにが!」
「誰かの前で呼ばないでって、言ったじゃない」
「お師匠様、お年寄りだから耳が遠くってなぁ。最近は物忘れも激しくって」
「もう、リィってば!」
 摘まんだひげを離し、ついでに軽くリィの頬を撫でるよう叩いた。嬉しげに笑うリィを見る限り、彼がその呼称をウルフの前でも使い続けるつもりであることは明白だった。溜息をひとつ。けれど思ったほど、嫌ではなかった。




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