サイファは溜息をついてはリィをねめつける。これほど恥ずかしい思いをするのは彼のせいなのだと決め付ける。その思いに頬が緩みそうになった。
「ねぇ、リィ」
「なんだ」
「どうしてひどいことを言うの」
「なにがだよ。質問ははっきり的確に」
 懐かしい口振りだった。修行時代に何度聞いたことかと思えば嬉しくなってくる。知らず上った笑みにリィも笑みを返せば背後でウルフの苦笑の気配。
「あなた、私を陥れでもする気なのかと思ったもの」
「なにがだよ」
「だって、これにあんなこと言わなくってもいいじゃない」
「なんのことかなぁ」
 とぼけぶりも変わらなかった。懐かしさに再び笑みが浮かぶ。そして変わるわけはないのだ、と知った。リィは死んでから幻魔界に来た、と言った。ならばリィはあの頃のまま。
 サイファはふっと彼に背を向け、まだ腹をさすっているウルフに向かう。意図してそうしたわけではなかった。ただリィに背を向けたらそこにウルフがいただけ。
 うつむいた。見られたくなどなかった。誰にであっても、リィは愚か、ウルフにでさえも。顔を伏せたまま、ゆっくりと呼吸を繰り返す。半エルフの習慣とも言える仕種にリィがそっと微笑んだ。
「可愛いサイファ」
「なに」
「こっち向きな」
「嫌」
 やはり、とリィは思う。長い年月をサイファと共にした。感じ取れないほどかすかな震えであっても見逃すはずはなかった。
「サイファ、くる?」
 わずかにリィは驚きを隠せなかった。目を上げたウルフがリィを見ては苦笑している。彼もまた、サイファと共に過ごした人間だった。おそらくは、そうリィは思う。ある意味ではこの自分以上に深くサイファとの関係を築いた人間なのだ、と。
「うるさい、黙れ」
 今度はサイファの声は完全に震えていた。ウルフには、隠せない。知られたくないのに、脆くなってしまう。呼吸などでは足りなくなって、サイファは片手で顔を覆った。
「可愛いサイファ」
 ウルフが手を伸ばすより先にリィは背後からサイファを抱いた。ほんの少し、ウルフが嫌な顔をする。サイファは自分のことをどう言っているのだろう、と疑問に思わなくもなかったが、リィはいまは何も考えず黙ってサイファを自分のほうへと向き直らせた。
「離して」
「だめ」
「どうして」
 そむけようとした顔はリィの両手で挟まれてしまった。あの頃より、少し近くなったリィの顔がある。真正面から見つめられるのが悔しくてサイファは彼を睨みつけた。
「そんな顔するから、離せないんだろ」
「放っておいてって言ってるじゃない」
「だめだって、言ってるだろ」
「……少し、懐かしいだけ。大丈夫だから、放っておいて」
「だめだ」
「リィ!」
 抗議の声ではなかった。それは驚愕の声。共に過ごした頃でさえ、そう何度もしなかったことをリィはした。目許に触れた彼の唇。驚きはしたけれど、嫌がりはしなかった。
「泣くなよ、可愛いサイファ」
「泣いてなんか、いないもの」
「これはなんだ。うん?」
 今度は反対に。触れてきたリィの唇が笑いに震えていた。侮られているとは思わなかった。彼だけは、自分のことを誤解も差別もしない。いつの間にかサイファの指はリィの胸元を掴んでいた。
「ごめんな、可愛いサイファ」
 細い、声だった。サイファは声もなく首を振る。いまさらだ、と思う。謝るくらいならば、と。
「死ななきゃよかったのに」
「無茶言うなよ」
「謝るくらいなら、ずっと一緒にいてくれればよかった!」
 リィのローブが濡れては染みを作る。リィは苦笑しながらサイファの髪を撫でるだけ。あの頃のように。少しばかり、いたたまれない思いがする。サイファは自分の言っていることがわかっているのだろうか、とも思う。ちらり、ウルフに視線を向ければ何も見ない顔をしてそっぽを向いていた。
「可愛いサイファ」
「リィなんて、もう知らないもの」
「そう言うなって」
「あなたなんか、知らない!」
「可愛いサイファ。また会えただろ」
「言ってくれればよかった、また会えるって言ってくれればよかった。そうしたら私、ずっと待ってた。リィがいなくなって、どれだけ――」
 また目が潤みそうになったサイファは言葉に詰まる。無理を言っているくらい、わかっていた。リィもそれは知っているだろう。
 自分を悲しませることを許すリィではなかった。自らの種族さえも裏切ってサイファを守ったリィだった。だから、ここで再会できるとは、彼自身も知らないことだったに違いない。
「お前を残して死ななきゃならなかった俺の気持ちがわかるなら、いくらでも責めていいがな」
 ぽつり、言った言葉にサイファはそれが真実だと知る。世界など滅びればいいと願ったあの日。リィもまた、同じことを願っていたはず。
「ごめんなさい」
 あの頃のよう、額を彼の胸に寄せる。温かいリィの腕に包まれている安心感は何物にも変えがたかった。規則正しい彼の鼓動を聴いたのは千年以上も前なのだとはとても思えない。サイファに染み付いた彼の体だった。
「まぁ、いいさ。運命って言ったの覚えてるか?」
「うん」
「だから、これも運命ってことにしとけ、な?」
「不幸だって、言ったじゃない」
「たまにゃ幸運もあるさ」
 さらりと言ったリィに笑ってしまった。彼の言葉に間違いなどない。彼が言う言葉ならたとえ真実ではなくとも信じられる。否、彼こそがサイファにとっては真実そのものだった。そうサイファは首をかしげ密やかに笑む。ふと思いついて精神を接触させた。
 ふっと引き込まれる感触、彼自身に包まれるような温かい心の中。何も変わっていなかった。いま思ったことを伝えれば、かすかな笑いの衝動が伝わってくる。不満だった。自分はこれほど彼を信じているのに、と。
「そんなに懐くな、可愛いサイファ。嬉しいけどな、信じてくれて」
「どうして。嫌なの、あなた」
「俺はいいけど、あっちで拗ねてるぞ」
「放っておけば?」
 一瞬にして不可解になる。何度も言い聞かせているのにまだ疑うのか、と。繋がったままのリィの心が当然だ、と返してきた。
「どうして」
「そりゃなぁ。人間ってのはそういうもんだ」
「私は……」
 言葉が口から出てこなかった。リィにであってもそれを口にするのは恥ずかしい。今はウルフがこんなにも好きなのに、とはとても。
「サイファ」
 まだあらぬ方を見ているのだろう。ウルフの声が見当違いのほうから聞こえてきた。
「なんだ」
 サイファもリィの胸に顔を埋めたまま答えるものだから、声はくぐもる。ウルフがわずかに息を止めたのがわかる。側に来ればいいとサイファは思う。そうすれば心行くまで彼を蹴ることができる、と。
「懐かしいよね、お師匠様?」
「それ以外に何がある」
「うん、わかってる」
 どこがだ、なにをだと言い返しそうになった言葉を止めたのはリィの心だった。それほど邪険にするものではない、とリィの心がささくれ立ったサイファの心を包み込む。
「だからさ、お師匠様とお喋りしてきなよ」
「どういう意味だ」
「別に深い意味なんかないって。俺、この辺見てるからさ。あんたお喋りしてきなよ」
「面白いことを言う」
 拗ねているというのは本当なのかもしれない、そうサイファはリィから離れ振り返る。気配を感じたのだろう、ウルフもサイファを見た。意外だった。ウルフは少し苦笑めいたものを浮かべはしていたが、ただそれだけだった。
「リィ?」
 先程のあれはなんだったのか、と無言の内に問いかける。リィはウルフより深い苦笑を刻んで答えない。むっとしてサイファはウルフに向き直った。
「あんた、俺が疑ってると思ってるでしょ」
「思っていない」
「サイファ」
「なんだ」
「ほんと、嘘が下手だね」
 もうちょっと上達したほうがいいと思うけど。そんなことを笑ってウルフは言い、それから慌てて体を開いてサイファの拳をかわした。
「危ないでしょ」
「お前が訳のわからないことを言うからだ!」
 言いがかりに近い言葉だとサイファはわかってはいたがとても黙ってなどいられなかった。もう一度拳を振り上げる。今度はあっさり捕まってしまった。
「俺はあんたに愛されてるの知ってるから。だからお師匠様と喋ってきなって言うの。疑ってたらそんなこと言えないでしょ。わかる?」
「偉そうなことを言うな、若造!」
「だって俺、偉いもん」
「どこがだ」
「あんたに愛されてるってだけでけっこうすごいよ?」
「……物凄く」
「あ、え……ちょっと待った! サイファ、魔法飛ばすのは勘弁!」
「うるさい、黙れ。そこから動くな、馬鹿!」
 片手を閃かせ、ゆっくりとウルフに近づく。そして高らかな音を立ててウルフの頬が鳴った。音ばかりが高くて少しも痛みを与えない平手打ちだった。にこりとウルフが笑う。
「あぁ、よかった。ほっとした」
「馬鹿か、お前は」
「知ってるよ。で、どうすんの?」
 答えずサイファはリィに振り返る。また醜態を見せてしまった。どうしてウルフといるとこうなのだろうと頭を抱えたくなってくる。
「ねぇ、リィ」
「なんだ」
「質問がひとつ」
 まるでウルフを忘れた顔でサイファは問う。その頬にはいたずらめいた笑みが浮かんでいた。




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