長身の、それはあり得べくもない人影だった。ゆったりと腕を組んで木にもたれかかっている。白いローブが風に揺れ、幻魔界にも風は吹くのかとぼんやり思う。サイファは首を振る。ウルフの目には見えなかった。彼の人間の視力では、姿形も定かではないだろう。けれどサイファの半エルフの目には見えた。彼が微笑んでいるのが。 「サイファ?」 呆然と立ち止まるサイファをウルフが呼ぶ。聞こえてはいたが返事などできなかった。サイファはただ前だけを見ていた。ふらり、足が進む。 「待って、サイファ!」 危険を感じでもしたのだろうか。ウルフが肩に手をかけた。しかしサイファは彼を見もせず無意識にその手を払い落としていた。ウルフが立ちすくんだのをどこかで感じた。 長身の人影が、まるで二人を迎えでもするよう、組んでいた腕をほどき両手を広げる。動けない、そう思ったはずなのにサイファは走り出していた。彼の元へ、短く刈り込んだ銀の髪をした男、いまはもうはっきりと見える瑠璃色の目をした彼の元へと。 「リィ……!」 腕の中、飛び込んだ。 「可愛いサイファ。よく来たな」 「うん」 「寂しかったか?」 わずかばかり笑いを含んだ声にサイファは顔を上げる。そしてようやく思い出す。彼は死んだ。なぜここに。いるはずのない者がここにいる。 「可愛いサイファ。俺は生きてるよ。まぁ、生きてると言っていいだろうな」 「リィ?」 「一度死んだけどな、こっちで生き返ったというか」 「どういうこと」 「俺にもよくわからんよ。魂が幻魔界に惹かれたとしかな」 「リィ……」 笑い声を上げるリィの胸元をきつく掴んだ。彼の確かさを知りたいと。リィが応えてサイファを抱きしめる。温かかった。忘れることなどできない彼のぬくもりだった。 「ここにいるよ、可愛いサイファ」 囁き声。耳に慣れた彼の声。失ったはずの、彼の声。サイファは何も言葉になどならなかった。ただ、黙って彼を見上げた。 「可愛いサイファ。背が伸びたな」 そっと髪を撫でる手。懐かしさに知らず目が潤む。目の前に、瑠璃色の目があることが信じられなかった。魂、と師は言った。ならばきっとそうなのだろう。彼の姿はあの死の床のものではなかったから。若い頃の、サイファと長い年月を過ごした頃のもの。 「髪も伸びたな」 何度も何度も髪を梳く指先に、サイファは目を閉じる。このまま彼を見ていたら情けないことになりそうだった。 「俺が言ったからずっと伸ばしてたのか?」 からかいの口調。サイファは首を振る。けれど自分では知っていた。まだ子供だったあの頃。長い髪が似合うと言った。伸ばせばいいとリィは言った。だから今までずっと切らずに来た。髪を切ってしまったら、リィの思い出まで切り捨てるような気がして。 「そんなんじゃないもの」 「そうか?」 「どうして私がそんなことすると思うの」 「可愛いサイファだからな」 「……死んだくせに!」 「うん?」 「私を残して死んだくせに!」 「でも会えただろ。可愛いサイファ?」 「私がどれだけ……」 わかっている、そう言うようリィはサイファをそっと抱く。腕の中に包み込まれサイファは息もできない。どれほどリィに会いたかったか。そう思う。彼は知っているのだろうか。きっと知っているのだろうと思えば泣きたくなってくる。 思わずあの頃のよう、彼の胸に頬を寄せたけれど前のようにはいかなかった。昔より、背が伸びているのだと知る。早く大人になりたいと願っていたあの頃。今は昔に帰りたかった。 「サイファ」 「なに」 「あのな……」 「だから、なに」 戸惑った彼の声など聞きたくなかった。このままずっとこうしていたい。あの頃のよう、眠ってしまいたい。眠りなどさほど必要としない半エルフの身でありながら、なんと彼の隣ではよく眠ったことか。 「そんなにしがみつくなよ」 「どうして。嫌なの」 「俺はいいけどなぁ」 「じゃあ、なに」 言った途端、リィが苦笑してサイファを引き剥がした。きっと顔を上げ、リィを睨みつけてしまっては後悔する。 「可愛いサイファ」 「……なに」 「あっちでな、若造が睨んでるんだが」 はっとして振り返りそうになった。ウルフのことを失念していたわけではない。そのはずだった。けれどいまは彼の顔を見ることができそうにない。 「いいもの」 「よくねぇだろ」 「いいの!」 言い切ったサイファにリィは笑う。それから両手でサイファの頬を挟んだ。変わらない、リィの大きくて温かい手だった。 「嘘つけ。大事な若造だろうが」 「放っておいて」 「だめ」 言い募るしかないサイファにリィはなぜか苦笑し、それからウルフを手招いた。サイファは溜息をつき、もう一度リィの胸に頬を寄せる。 「可愛いサイファ。離れろって」 「嫌」 無下に言い放ったサイファは、目を閉じ何も見たくないのだと彼に伝える。ウルフの気配が背後にあった。どんな顔をしているのだろう、と気にかかる。また疑われるのかもしれないと不意に思った。 「ほら、気になるくせに」 リィの腕が体を離させようとするのを感じた。不承不承離れ、けれどウルフの方は見なかった。 「ならないもの」 呟き声は無視された。自分でもわかっていることをリィが取りざたするはずはない。何もかもを知っていてくれるというのはこれほどまでに安らぐことだったかといまさらながらに思い出す。 「サイファのお師匠様だよね?」 少し硬いウルフの声。サイファは黙ってうなずいたけれど、リィは驚いたのだろう。瑠璃色の目が好奇心に輝いた。 「何で知ってんだ?」 サイファを見下ろしリィが言う。サイファにとっては懐かしい師であった。が、ウルフにとっては伝説の魔術師でしかないはずだ。サイファはリィがそう思い込んでいるのを見ては薄く微笑む。 「教えない」 憎まれ口にリィが笑う。あの頃のよう、サイファの頬を指で摘まんで嫌がらせをした。 「痛いじゃない」 「可愛くねぇなぁ。摘まめねぇし」 「大人になったもの」 「嘘だよ」 「なにが」 「可愛いサイファだ。変わらんな」 優しい声音にまた目が潤みそうになってはふいと顔をそむけた。その拍子にウルフを見てしまった。わずかばかり苦笑していてサイファをうろたえさせる。もっと、悲しい顔をしているかと思っていた。何度か目を瞬く。悲しい思いをさせたいわけではない。だが、意外は意外であった。 「サイファのお師匠様だってすぐわかったよ」 「どうしてだ?」 「言うな!」 リィが問うのとサイファが怒鳴るのと同時だった。サイファはウルフの胸元を掴みあげ、真正面から睨んでいた。 「別にいいでしょ」 「よくない」 「あ。もしかしてサイファ、照れてる?」 「照れてなどいない! 黙れ若造」 「いいじゃん。サイファが大好きなお師匠様の姿を水鏡に――」 言葉は途切れ、ウルフは地に膝をついて呻いていた。思い切り腹に拳を叩き込んだけれど、まだ足りないとばかりサイファはウルフを蹴りつける。 「可愛いサイファ……その辺にしておいたほうが良くないか?」 「黙ってて」 「物凄く痛そうだが」 「丈夫だから平気」 そういう問題か、リィが呟いたけれどサイファはもう一度ウルフを蹴り、腕を組んで彼を見下ろす。荒い息をつき、ウルフは立ち上がって土を払った。 「まったくもう。サイファってば乱暴なんだから」 「殴られるようなことをするお前が悪い」 「そういうとこも可愛い――」 「まだ殴られ足らないか、若造」 「あ、もう充分。ごめんなさい」 まったくこたえた様子もなく飄々と言うウルフにリィは目をみはる。それ以上にサイファには驚かされた。 「お前、変わったなぁ」 「どこが」 「あんな素直な子だったのに」 「あなたのせいでしょ」 「俺の? あぁ、まぁ、そうか」 言葉を濁したリィにウルフは目を向け、目顔で素直だったんだと驚きを表す。サイファは物も言わず再びウルフを殴りつけた。 「こんな暴力振るうようになっちまって」 あからさまなリィの溜息にサイファは言葉もなかった。いったい誰のせいだと思っているのだろうか。彼が死ななかったならばあのままでいられたとサイファは信じている。 「こんなにひねくれた表現をする子だったかなぁ」 「私のどこがひねくれてるって言うの」 「そりゃ……」 問うた瞬間サイファは自分の間違いを悟った。思わずリィの口を押さえようとしたけれど、あっさり逃げられリィは腹を抱えて笑い出す。 「こんなに若造が大好きなのに殴る蹴るの暴力だもんな、可愛いサイファ?」 「知らないもの!」 「んー、でもサイファ、致命傷にはしないよね、昔から」 「馬鹿かお前は! 致命傷と言うのは命にかかわるもののことだ、馬鹿!」 「そりゃ馬鹿は昔から。知ってるでしょ」 「うるさい、黙れ」 「はいはい」 ウルフが呆れて肩をすくめるのに、リィはまた笑い出す。一度止まっていた所を見ると呆気に取られていたのだろうとサイファは思う。敬愛する師の前でさらした醜態に両頬が熱したよう火照っていた。 |