サイファの表情が穏やかになったのを見定めてウルフは立ち上がる。その手が差し伸べられたのに今度は黙ってすがれば、抱き上げられ抱きしめられた。 「ウルフ」 「一緒に、いられるね。あんたと」 「そうだな」 素直に喜びを露にする彼を目にして、ようやく実感が湧いてきた。危険ではあるかもしれない世界。けれど今この瞬間からここは自分たちの暮らす世界だった。 「俺はどこにも行かないから」 「黙れ」 「なんでさ」 「うるさい」 言い放ちはしてもウルフは笑うだけ。緩く腕が肩を抱き、触れるだけのくちづけをしてくる。茶色の目は和やかな色をしていた。 「ねぇ、サイファ」 「なんだ」 「聞いていい?」 「なにをだ」 「あんた、何が怖かったの」 「……いまさら何を言うか。話を聞いていたのか、お前は」 「いや、だからさ。ちょっと待ってってば!」 呆れて拳を握り締めるサイファにウルフは慌てる。また言葉遣いを間違えたらしい、と気づいたのだが遅かった。ウルフの頬が鳴り、それから乱暴に赤毛がかき回される。 「それで?」 溜息をひとつ。くしゃくしゃになった赤毛を指で梳く。ウルフが心地良さそうに目を閉じていた。 「かがめ」 「え?」 「どうしてそれほど背を伸ばした。邪魔だ」 「まったく無茶言うよ!」 ウルフの笑い声を聞いているうちにサイファの頬にも笑みが上る。少年時代にはこれほど背が伸びるとは思ってもいなかった。自分よりも小さかったあの少年が、今は。まだ笑いながらかがんだウルフの頬に唇を寄せる。 「サイファ……」 うっとりと呟くのに耳も貸さずサイファは歩き始めた。すぐに追いついては隣を歩く。何も言いはしなかった。けれどウルフの機嫌のよさが伝わってくるのがサイファは嫌ではない。 「それでね」 唐突に話をはじめたのも、嫌いではなかった。歩きながら考えていたのだろう。いったい何を尋ねるつもりかと思えば楽しい。 「さっきの悪魔のどこがそんなに怖かったのかな、と思ってさ」 「あぁ……」 そういうことかとようやく合点が行った。やはり彼には魔力のことなどわかってはいないのだと納得する。うなずくサイファをウルフは横目で見、そして彼が話し出すのを待っていた。 「お前を連れて転移をしたことがあったな?」 こういう言い方をすれば理解できるだろうか、いぶかしみながらサイファは言う。視界の端に映したウルフはなんのことかわからずともうなずいていた。 サイファはウルフと塔に暮らすようになって以来、師の残した呪文の研究を再開していた。中でも熱心に研究したのは複数転移。ウルフが去ったと思い込んでいた頃はとても考える気にならなかった呪文だった。それが彼が戻った途端、色々と工夫を凝らし始めた自分を見つけ、サイファはひとり笑ったものだった。 そして数年を経ずして呪文は完成した。ウルフを連れてどこにでも転移した。中々便利で、そして何よりサイファが楽しかった。 「あれがどれほど複雑な呪文かくらい、見当がつくだろう?」 「よくわかんないけど、長い呪文だよね」 「その程度の認識でも充分だ」 サイファは笑う。ウルフが唇を尖らせて拗ねる顔を目の端に映しては楽しんだ。 「馬鹿にしないで欲しいなぁ。あんたと一緒に暮らしてたんだよ、俺」 まるで聞かせるつもりなどないとでも言うような呟きめいた苦情。サイファは聞こえなかったふりをして黙って歩く。 「あの悪魔も転移した。堕天使を連れて。わかるか?」 「うん、わかる」 「呪文を唱えたのを見たか?」 「見なかったけど?」 だろうな、とサイファは溜息をつく。ウルフの魔法に対する認識などその程度なのだ。そしてサイファは彼に魔法を教えようとはしなかった。そもそも適性と言うものがあるにはあるが、ウルフにそれを教えてしまってはなぜか自分が要らなくなるような、そんな気がわずかにでもしたせいかもしれない。気の迷いだと、わかってはいたが。 そしてそんな自分をまるでウルフのようだ、と密かに笑った。悪くはない気分だった。彼もまた、このようにして自分の存在を確認していたのかもしれない。 「そんな呆れないでよ。あれってさ、高速詠唱ってやつじゃないの」 言われて少しサイファは驚く。思わずまじまじとウルフの顔を見てしまった。視線を感じたか、ウルフがちらりとサイファを見、ぷいと顔をそむける。 「そんなに見たら照れるでしょ」 言ってサイファの髪を指先に絡めた。相変わらず下手なやり方だった。痛くて仕方ない。絡まりもしない半エルフの髪をどうして彼は絡ませてしまうのか、さっぱりサイファにはわからなかった。 「痛い、離せ」 「ん、ごめん」 「……お前が高速詠唱を理解しているとは思わなかっただけだ」 「俺はあんたと……」 「暮らしたくらいで身につくものか」 「ちょっとくらいは賢くなってるって」 「それでか?」 「相変わらず可愛いこと言うね」 「殴られたいか?」 「遠慮しとく」 「だったら、黙れ」 「はいはい」 おざなりな返事にサイファは溜息をつくことで抗議に代えた。もっとも、馬鹿馬鹿しいやり取りが楽しいと思うのだからウルフの言葉を責められはしない。 「転移呪文を高速詠唱したのが怖かったの?」 意外だと、ウルフはサイファに言う。ウルフの知るサイファは、魔法かけては右に出る者などいない大陸一の使い手だった。 「違う」 だからサイファが否定したときウルフはほっとしたのだ。そんなウルフにサイファはかすかな微笑を浮かべた。 「だったら……」 「そうではない。あれは高速詠唱ではなかった、と言っている」 「どういうこと?」 「正直に言えば、私にも理解ができない」 ウルフはその言葉にはっと足を止めた。そのようなはずはなかった。サイファにわからない魔法があるなど、ウルフは思ってみたこともない。 サイファは薄く笑い、ウルフの背を叩く。どこか苦笑めいた笑いだった。ウルフが自分を買ってくれるのはありがたいが、自分の知らない魔法などいくらでもある、など彼に言っても信じないだろう。そう思えばどこか誇らしい。 「シャルマークの悪魔、覚えているか」 「うん」 「あれも呪文らしい呪文は使わなかったな」 「あぁ、そういえば」 「だから悪魔にとって、あるいは天使や堕天使にとっても魔法と言うものは意思の表れのひとつなのかもしれない」 「考えるだけで魔法が使えるってこと?」 「そう思っていいだろう」 「んじゃ、質問」 「なんだ」 「あのさ、神人はどうだったの。あんた知ってるよね?」 歩き始めたウルフの背中を思わず見つめ、サイファは今度は自分が止まってしまったことを知る。知らず浮かぶのは苦笑か微笑か。 「言われてみれば、そうだな……神人も呪文の詠唱はしなかったな」 「ふうん、やっぱそうか」 「多少は賢くなったと認める」 「やった」 小声で言い、腰の辺りで拳を握る。少年時代から変わらない仕種。サイファが少しでも褒めると本当に嬉しそうな顔をする。だからサイファは滅多に褒めない。彼が喜ぶ機会を珍しいものにしたかった。 「だから私は怖かった」 「まだよくわかんないんだよね、その辺が」 「彼らと私では、あまりにも力の差が大きすぎる、と言っている。力の差など言うもおこがましいほど違う」 「あぁ、それでか」 「なにがだ」 「消し炭なんてもんじゃないって、あんた言ったじゃんか」 ようやく納得がいったのだろう、いまさらながらウルフは体を震わせた。彼の曇った表情を見るうち、言うのではなかったかとサイファは後悔する。あまり恐れさせたくはなかった。危険があるのはすでに承知。ただ、自分とウルフがわきまえてさえいればさほど恐るべき物はないだろうとサイファはある意味では楽観してもいる。ウルフの馬鹿が染ったと、内心で苦笑するが嫌な思いではなかった。 「んー、どこにいるんだろうね」 「なにがだ。質問は的確にしろといつも言っているだろう」 「だから、さっき守護者って言ってたじゃん」 「そのことか」 「うん、どこだろうな、と思って」 ウルフは首をかしげる。堕天使が指差した方向に、だいたいは歩いているはずだった。ただ、彼はどこに行け、とは言わなかったし、どれほど進めとも言わなかった。 「そのうちわかるだろう」 サイファは一人うなずき、足を進める。その彼をウルフが笑った。つい彼を見てしまう。わざとらしく不機嫌な顔を作って。 「なにが言いたい、若造」 「あんた、俺の馬鹿が染ったんじゃない?」 まるで心の中を読んだようなことを彼は言う。苦笑を浮かべかけ、けれどサイファは不愉快を装って言った。 「どこがだ」 「そんなに楽天的だったかなって思ってさ」 「細かいことを気にしていてはお前の相手が務まらん」 「ごもっとも」 サイファの顔以上にわざとらしい顰め面。腕を組んで何度もうなずいている。わかっているならば改めろ、と以前だったら言ったことだろう。そう言わなくなってどれほど経つのだろうか。半エルフにとっては短い時間のはずなのに、そうサイファはいぶかしみながらも嬉しかった。 「サイファ」 一瞬にしてウルフが緊張した。今の今まで馬鹿を言っていたのと同じ男とは思えない。サイファは彼の視線の先を見定める。そして息を呑んだ。まだ遥か遠く、木にもたれて一人の男が立っていた。 |