目の前にあるウルフの手を強く握った。握り返してくるのを待たず頬に押し当てる。体に馴染んだ彼の手の確かさを感じサイファは目を閉じる。
「サイファ?」
 訝しげな声は何が起こったのか理解していないせいだろう。答えもせずサイファはじっとうずくまる。
「どうしたの」
 やっと異変を知ったよう、ウルフが膝をつく。その体に手を伸ばした。
「サイファ?」
 驚きながら抱き返してくる腕。その腕が強張ってはきつく抱かれた。
「あんた変だよ、震えてる」
 ウルフの声こそ震えていた。おかしくなってサイファは笑う。上げたサイファの声も震えていた。ウルフの胸に額を押しつけぬくもりを求めれば痛いほど抱きしめられる。彼の背中に回したサイファの腕は、いつの間にかきつく握り締められていた。
「お前を、失うかと思った」
「え、どういうこと?」
「どうしてお前は馬鹿なんだ」
「そんなこといまさら言ったって仕方ないでしょ。俺、なにやったの?」
「自分のやったことくらい、わからないのか」
「わかんないから聞いてんの」
「馬鹿!」
 罵り声に、自分の恐怖をサイファは知った。これほどまでに恐ろしかったのかと今になって知る。ウルフのことをどうこう言えた義理ではなかった。
「サイファってば」
 ウルフがそっと腕を緩めるのにサイファは首を振る。それに応えるのはかすかな笑い声。サイファは唇を噛みしめうつむいた。柔らかい感触が髪にあった。
 ウルフが髪を撫でていた。サイファを安心させるよう、大丈夫と言うように。何が大丈夫なのか、少しもわかっていなくともウルフの仕種に安堵する。ほっと息をつき、唇を開く。少し血が滲んだのか口の中に嫌な味がする。
 サイファの緊張が緩んだのを感じたのだろう、ウルフがサイファの顎先に指を滑らせた。促しに黙ってサイファはわずかに仰のく。目の前の茶色の目を見つめられなくてわずかに目をそらせば顎先を捉えられた。
「サイファ、血が出てる」
「放っておけ。すぐ止まる」
「だめ」
 からかいの口調にサイファはウルフを睨みつければ、そこにあるのは穏やかな目。無骨な戦士の指が唇に触れる。嫌がるよう、顔をそむければ笑ってウルフが頬に手を当て自分のほうへと向けさせた。
 触れるだけのくちづけ。それだけがこんなにも甘い。片方の腕ですっぽりとウルフに抱かれているのは心地良かった。
「よせ」
 ちろりと舌が唇を舐めた。はっとして身を引いた。ウルフにとっては長い年月だろうけれど、サイファには瞬きほどの時間だった、共に過ごしてきたのは。ウルフのそのような仕種に慣れるほどの時間では、ない。
「恥ずかしい?」
 茶化すよう言い、答えを待たずウルフがまたくちづけて来た。滲んだ血を舐めているのかと思えばつい、突き飛ばしたくなってしまう。
「当たり前だ、離せ」
 自分の声が言葉ほど冷たくはないことにサイファは苦笑する。それを了承と取ったのだろう、ウルフが唇を舌で割った。押し返すことは、しなかった。絡んだ舌に不安が溶けていく。
「離せ」
「強情だなぁ、サイファ」
「うるさい」
「そういうとこも可愛いけどさ」
「腹に……」
「風穴は勘弁して。痛いでしょ」
「痛いなどとは言っていられないはずだが」
「どうなんだろうねぇ? やっぱ痛いんじゃないかな」
 小首を傾げてさも不思議そうに言う。一度やってみてもいいかもしれない、そんなことを思ってしまうのはおそらく頭痛のせいだろう。
「死なないって言ってもさ、怪我はするよね。痛いだろうなぁ」
 あまりの言葉にサイファは頭を抱えたくなった。これほど酷い頭痛を覚えたのはいったいいつ以来だろうか。
「馬鹿か、お前は」
「知ってるよ、そんなこと」
「若造。愚かな真似は許さないからな」
「あ、サイファ怒ってる?」
「当たり前だ!」
 無性に腹が立ってきた。どれほど自分が恐ろしい思いをしたのか、この若造は理解しているのだろうか。サイファは彼を睨みつけ、茫洋とした顔を見るにつけまるで理解などしていないことを悟る。溜息をつきたくなってきた。
「ねぇ、サイファ。俺を失くすかもってどういうこと?」
 そんなサイファをなだめるよう、ウルフが髪に手を伸ばす。頭の一振りで払い除けた。ウルフが苦笑いをしているのは知っていたがサイファは目も向けない。
「お前は彼らがどれほど力を持つ者か、わかっていない」
「そうかなぁ」
「わかっていたらあのような言動をするものか」
「んー。神様と悪魔だよね」
「その程度しか理解していない」
「でもさ、神様だったら、助けてくれるんじゃない?」
「だから、馬鹿だと言う。神だの悪魔だのと言うのは所詮、地上の概念だ」
「あんまりよくわかんないんだけど」
「よく? あんまり?」
「すみません、全然わかんないです」
 冗談まじりに頭を下げるウルフを見ていると、これ以上怒るのが馬鹿らしくなってくる。サイファは溜息をひとつ、大袈裟につくことで遺憾の意に代えた。
「わからなくてもいい」
「そうなの?」
「お前に理解させようとする私が間違っていた」
「酷いな、サイファ!」
「わかるのか、話して?」
「たぶん、無理」
「私は絶対に無理だと思うが」
「うん、俺もそう思う」
 言ってなぜかウルフは大きく笑い声を上げた。その晴れやかな笑いを見ていると、拘っていた自分が愚かに思えてくる。ウルフが理解できないことは、自分が理解すればいいこと。彼と離れるつもりなどないのだから。そう思った途端、頬に血が上る。ウルフが目敏くそれを見ては軽く、くちづけて来た。いたずら半分、ウルフの頬を叩けばわざとらしく痛いと喚く。
「ほんと可愛いよ、サイファって」
「まだ言うか」
「いいじゃん、ちょっとくらい。誰もいないよ?」
「そう言う問題ではない」
 ついでとばかりもう一度、頬を張り飛ばす。が、今度はよけられた。思わずかっとして掴みかかりかけた腕もあっさりと掴まれてしまう。
「魔術師に捕まるほど鈍くないって」
 嘯くウルフが見たかったのかもしれない、そう思う。戦士としてのウルフの腕はアルハイド有数の物だった。シャルマークの冒険者であった頃から、一段も二段も腕を上げた。まだ魔物の徘徊するシャルマークを、だから二人で旅することも出来たのだ。そんな誇りを滲ませるウルフが好きだった。
 少年の頃からサイファにウルフは言い続けている。自分は役に立つか、とサイファに問い続けている。仮になんの役にも立たなくともウルフがウルフであれば充分だと思っているのだが、いまだそれを納得させることができずにいる。彼にとっては役に立つこと、それが嬉しいのかもしれない。
「ねぇ、サイファ。ちょっとは……」
 だから、問われることなどわかっていたサイファはじろりと彼を睨みつけた。まさか叱られるとは思ってもいなかったのだろう、ウルフは目を丸くし次いでうなだれる。
「お前は理解していないと言った。私がどれほど恐ろしい思いをしたか、わかっているとは思わんが……」
「え、怖かったの? なんで?」
「お前は敵対してはいけない者に剣を向けかけたんだ! あの場で殺されても文句は言えん。この場合、滅びると言ったほうが正しいのかもしれないが」
「あぁ、さっきのか。でもさ、あの悪魔が悪いと思う。俺のサイファにあんなことしたんだもん。許しておくわけに行かないでしょ」
「……消し炭などと言うものではないぞ」
「それでも。俺はあんたに敵対した相手を許さない」
「馬鹿か、お前は!」
「放っといて。こんな俺でも好きでしょ?」
「うるさい!」
「あ、照れてる?」
 サイファの見知らぬ植物が生い茂る森の中、高らかに頬が鳴る。ウルフの頬に赤い手形がくっきりと浮かび上がる。
「あんたさぁ……」
 何事を抗議しようと言うのか。言い訳など聞くつもりもないサイファはウルフの襟首を掴み、締め上げる。
「若造。身の程をわきまえろ」
 低く響く声で恫喝するが、この程度でウルフがこたえるとは思っていない。ただ、当面はおとなしくしているだろう。その程度でもよかった。ここはアルハイド大陸ではない。二人が知らない新しい世界。回避できる危険は回避したい。そのためにはウルフに浮かれられては困るのだ。あの悪魔と堕天使を思う。まだ他にもあのような者がいるのかもしれない、ここで出会うのかもしれないと思うことはサイファには充分すぎる脅威だった。
「お前を、失いたくない」
 けれど、サイファの口から出てきたのはそんなウルフを喜ばせる言葉。はっとして顔をそむけたときには遅かった。満面の笑みでウルフが自分を見つめているのを見てしまった。
「俺はどこにも行かないよ」
「だったら少しは警戒心と言うものを持て」
「持ってるよ」
「どこがだ!」
「俺は危なくないと思ったから。あの悪魔が俺なんか相手にするわけないじゃん。そうでしょ」
 サイファは言葉に詰まる。一概に否定は出来なかった。万が一、彼が激高したとしても月神がいた。彼は自分たちを縁ある者、と呼んだ。確かにウルフが言うよう、安全ではあったかもしれない。
「それでも、だ」
 けれどサイファは納得しかねた。ウルフにはきっとわからないだろう。戦士である彼には。魔力の流れも大きさも感じ取ることのできない彼に、この恐怖をわかれと言うほうが無理なのかもしれない。
「あんたが言うなら気をつけるよ、できるだけね」
 信じがたい、と言った顔をあからさまにするサイファに向かい、ウルフは晴れやかに笑う。そのような顔をするから信用しにくいのだ、と思いはするが口にはしなかった。その馬鹿みたいに大らかな顔を決して嫌っては、いないのだから。




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