ウルフと共に生きることができる。想像していたより、それはずっと強い歓喜だった。共に生きたいと願っていた。だから旅に出た。それでもどこかで叶わないような気がしていた。見果てぬ夢かもしれないとずっと。
「サイファ」
 今はウルフの腕を跳ね除ける気になどならなかった。そっと抱き寄せてくる腕に体を委ね彼の体温を感じる。震えは止まった。
「あんたと俺と、ずっと一緒にいられるね、これで」
 耳許の囁き声。少年の頃と口調は変わらないのに、声はずいぶんと大人になった。人間の変わりやすさに悲しみと不安を感じ続けた日々が終わるのか、そう思う。
「そうでもないぞ、人間」
 はっと顔を上げた。悪魔が木にもたれたまま薄く微笑っていた。
「どういう、意味です」
 知らず声が掠れた。ここではないと言うのか。だが半エルフの最後の地はここだと確信を持ったはずだ。サイファはウルフから体を離し悪魔を真正面から見つめた。
「人間にとって、死なないと言うことは苦痛を伴うこと」
 堕天使が仄かな苦味を忍ばせて言う。彼に推測できることなのだろうか。死なない彼に。サイファは惑い目を閉じる。開けたとき、サイファの目は決然とした色を映していた。
「つらくなんかないもん」
 だが、口を開いたのはウルフ。呆然と彼を見上げた。視線を感じたのだろう、ウルフが苦笑いしつつ視線を返してくる。
「サイファと生きられればいい。どこでもいいんだ俺は。でもサイファを悲しませたくないから俺は死ねないの。それは俺が決めたことだから」
「決めた? 運命に逆らってまで?」
「だから? 俺の運命だもん、そんなもん俺が決めるんだって」
「人間に自分の運命を決めることなど、できないよ」
「だったら、これが俺の運命なんじゃないの」
 アーシュマを振り返ったサリエルの顔を見ることは出来なかった。サイファはただ立ち尽くすだけ。この幻魔界すら自分たちの生きる場所でないのならばどうしたらいいのだろうか。
「ここじゃないなら、また旅に出るだけだよ、サイファ」
 察したよう、ウルフが言う。うなずくことも出来なかった。見つかるのだろうか。ウルフが死を迎えるまでに。二度と、あのような思いをしたくはなかった。
「人間よ。お前はいずれサイファとやらを憎むだろう。死ぬことのできない身を怨むだろう。永世に倦み疲れ、死ぬことのできない我が身を呪うだろう」
 サイファは驚いて悪魔を見上げた。もしや彼もまた死なない身を呪ったことがあるのか、と。そして彼の目に宿った色を見ては否定する。死と言う概念すら、自分たちの体の内に待たないものが死を理解することなどない。かつての自分がそうであったように。
 今のサイファは違う。人間の間で長く暮らした。死すべき定めの人の子の果敢なさを身を持って知った。死が現実として身に迫ったことはほとんどないサイファではあったが、死ぬと言う現象がどういうものであるかは知っているのだ。
 静かにウルフを見上げる。彼はどう答えるのだろうか。まだ若いウルフはサイファ以上に死と言うものを知らないはずだった。たとえ人間の定めとしていずれ死ぬことが何の不自然もなく理解できていたとしても。
「そうかもしれない」
 ウルフの答えにサイファは息を呑む。否定するとどこかで思い込んでいた。そして自嘲する。彼は愚かではない、と。否定して欲しがったのは、自分。
「俺は人間だからさ、やっぱり死ぬのは当たり前だと思ってる」
「そうだろう、だから……」
 さらに言葉を続けようとした悪魔のそれを奪ってウルフが言った。
「でも、俺はサイファを怨むくらいだったら自分の選択を怨むよ」
「どういう意味だ、人間」
「そのときになってみなきゃわかんないけどさ、もし生きるのに疲れてサイファを嫌いになりかけたら、一人でどっか行っちゃうかも」
 それがいいな、とウルフはうなずく。ちらり、サイファを見ては目に浮かぶ微笑。馬鹿なことを、サイファも目で答えてはやはり仄かに微笑む。
「どこかへ行って、どうする」
 わずかな興味だろうか。悪魔が滲ませたのは。サイファは黙って人間と、悪魔のやり取りを見ていた。
「そんなことわかんないってば。だいたいサイファを嫌いになるわけないと思うし。俺、サイファと一緒にいるために全部捨ててきたんだよ。サイファだけいればいい。それで幸せなんだって。わかる?」
「理解できんな」
「だろうね」
「ほう?」
「あんたも、サール神……でいいのかな、どっちも死なないんでしょ? だったら死ぬはずの人間がなに考えてるかなんて、ほんとのところはわかんないんじゃないの?」
 意外な反撃にサイファは笑う。もっともな言い分だった。サイファは自分が彼らの強大さに打ちのめされていたことを感じた。ウルフは悪魔と堕天使の持つ力を感じていない。だから言いたいことを好きなように言っているのだろう。いささか恐ろしくはあるが、そんなウルフが好もしかった。
「アーシュマ、あなたの負けだね」
「なにを言うか」
 くっと笑ってサール神が言う。悪魔はそれに反論しかけ、言葉を失ったよう何も言わない。
 ふいと顔をそむける瞬間、嫌な顔をしたのをサイファは見てしまった。それで確信に変わった。ウルフはここに住むことが出来る、自分と共に。
「実のところ、すでに選択はなされている」
 機嫌を損ねた悪魔に代わりサリエルが二人に言った。目をみはったサイファだったが、ウルフは案の定なにを言われたのか理解していなかった。
「人間よ、お前がここにいること自体が選択だ」
「どういうこと?」
「生身の人間が幻魔界を訪れることは稀。むしろ異例」
「どうして」
「世界の壁を越えたんだよ、お前は。よほど強固な意志が必要だったはず」
「そりゃ、サイファと一緒に生きたい一心だったから」
「だから、お前はすでに人間ではない」
「え……」
 絶句したウルフにサイファはすがった。意図した行動ではなかった。知らず手が伸び、ウルフの腕を取っていた。彼の腕は変わらず温かい。サリエルの言葉の意味はサイファにさえ、理解ができない。
「わからないかな? お前はもう幻魔界の生き物。時の定めに縛られず、自らの欲する所をなすも規範に生きるも、自由」
「じゃ、サイファといられる?」
「そればかりだね」
「当たり前でしょ。俺はサイファがいればいいって言ってるじゃん」
「ウルフ」
 最初の驚愕が去ってサイファはようやくウルフをたしなめる。仮にも月神と崇めた者に対する言葉ではなかった。
「かまわない。我らは幻魔界の生き物には比較的寛容だから」
 そうサリエルは笑った。あるいは何か思い入れがあるのかもしれない。サイファは推測すらできなかったけれど、言葉だけを捉えて納得することに決めた。
「幻魔界の生き物とは、どういう意味ですか」
「さて、そのままとしか言いようがないね」
「ここには……」
 ふと周りを見渡す。アルハイド大陸にはなかった植物が生え、いなかった生き物が戯れる世界。改めて違う世界なのだと実感した。
「たくさんの生き物がいる。信用のならない者もいるし、美しい者もいる。植物すら、人界とはだいぶ違うよ」
「こんな風にな」
 口を挟まず時折うなずくだけだったアーシュマが突如として軽く手を振る。よける間もなかった。気づいたとき、サイファは蠢く蔦に拘束されていた。
「サイファ!」
 それは驚きの叫びではなかった。ウルフの声に乗せられた物にサイファは身を硬くする。じっと動かずただウルフを見ていた。
「ほう」
 悪魔の感嘆の声。ウルフの剣が一閃し、サイファを縛った蔦が寸断され地に落ちた。じっとりとした毒々しい粘液を滴らせ蔦はまだ動いていた。
「悪ふざけはやめてくれる?」
 風音を立て、ウルフが剣を振る。切先から粘液が飛んでは悪魔の足下に落ちる。
「これが魔界の生き物の性と言うものでな」
 薄く笑って悪魔はこたえた風もなかった。サイファは軽く体を揺すって、まだ残っていた蔦を払う。ねっとりと甘い匂いがあたりに立ち込めた。
「魔界の者も時には訪れるし、ごく稀に天界の者も降りてくる。幻魔界の生き物より、それは危険だろうね、お前たちにとっては」
 アーシュマをたしなめるでもなくサリエルは言う。事実だと悟ったサイファはウルフの不機嫌にかまうことなく素直にうなずく。
「教えていただけませんか、この世界のことを」
「私より適任の者がいる」
 ふっとサリエルが笑った。アーシュマを見れば何かをたくらむようほくそ笑んでいる。何か嫌な感覚が襲いはするものの、正体がわからない。
「向こうでお前たちを待っているはずだ」
「だれが、です」
「守護者、と言っておこうか。どうだか知れたものではないが」
 サリエルが指差す方向を見ていたサイファに、アーシュマはそのようなことを言っては不安に陥れる。ただ、サリエルがかすかに笑っていたおかげでサイファの不安は酷くはなかった。
「つまらんな」
 ちらり、サリエルを見てはアーシュマが言う。悪魔の楽しみを奪ってしまったのをサリエルは詫びているのだろう、軽く目を閉じた。
「行くといい」
 それだけ言ってアーシュマがサリエルの腕を取る。サイファたちが何を言う暇もなかった。口を開いたときには二人の影は薄れ、消えていた。
「サイファ」
「なんだ」
「大丈夫?」
「なにがだ」
「だって……」
 伸びてきた手に視線を向けた。位置が、おかしかった。手は上にある。見ればウルフが見下ろしていた。
「私は……」
 知らず膝をついていた。恐怖ではない。ただあまりに大きな力の差に呆然と体の力が抜けてしまった。目の前が一瞬暗くなる。




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