サイファの苦しみなどウルフは知らない。サイファは知って欲しいとも思っていなかった。逆に、知ればウルフがつらい思いをすることだろうと思う。ウルフと出会ってほんの十数年しか経っていない。サイファからすれば瞬きほどの時間。幸福だったこともかつてはあった。それを知ればウルフがどれほどつらく思うか。
 確かにあれは恋ではなかった。ウルフが疑うようなことは何もない。けれど、まぎれもなく愛情をかわしあった。唯一にして無二のそれを。ウルフだとて、かなわないそれを。
 恋ではない、そう言ったとしても彼は胸を痛めるだろう。だからサイファは語らないできた、今まで一度として。
 そのようなことを考えているなど、知りもしないだろう。それでよかった。以前アレクが言った言葉を思い出す。今があれば充分、彼はそう言った。意味は違うのかもしれない、あの時と今では。だが今ここにウルフがいること、それでサイファは充分だった。たった十数年でしかない時間。それなのに自分はずいぶんと変わったものだと思えばおかしくなる。ウルフの戦士らしい逞しい胸に頬寄せてサイファは口許を緩めた。
 以前は魔術師に守られてばかりいた戦士も大人になった。今はこうしてサイファを守るよう立っている。サイファの苦痛など知らなくても、知ろうとしなくても、庇うよう腕を回してくる。そんな二人を堕天使と悪魔が興味深げに見ていた。
「漠然としすぎているな」
 茶化すよう言った悪魔の言葉にサイファはウルフの腕の中で危うく笑い声を上げる所だった。
「サイファ?」
「いや、なんでもない」
「ふうん?」
 少し機嫌の悪くなったウルフの声。それと察したことだろう。サイファは師のことを思い出していた。彼も常々、質問の仕方が悪いとたしなめたものだった。今となってはサイファがウルフにそれを言う。時折、懐かしくなる。自分はずいぶんと師に似たことだ、と。
「漠然って言ったってさ」
 唇を尖らせているのだろう。少年時代から変わらないウルフの癖だった。子供のようだからよせ、と言うのに直らない。言うサイファ自身、それほど直して欲しいとは思っていなかった。
「ここがどこなのかって聞いただけじゃんか」
「ここと言うのは、この場か? それともこの世界か?」
「アーシュマ」
 そっと堕天使が悪魔の腕に手をかける。苦笑の影が口許にあった。知らずサイファも笑みを浮かべていた。もう大丈夫、とばかりウルフの腕を叩いて離させる。ちらりと視線を送って寄越したウルフは何か言いたそうな顔のまま黙った。
「まぁ、人間をからかっても仕方ない。そもそもこの森に名はないからな」
「だったら……!」
「悪魔と言うのはこういう生き物だから」
 ふっと笑ってサリエルが口を挟む。羨ましいような関係だ、サイファは思った。堕天使と言うのはどんな生き物なのだろう。仲間から外れて一人、魔界に堕ちるというのはどんな気持ちなのだろう。ただ視線を見ていればわかることがひとつ。この堕天使と悪魔の絆がどれほど強いものなのか。堕天使は自分より遥かに力の勝るものに対して対等の口を聞いている。それを悪魔も許している。どこか自分たちの関係のようにも思え、サイファは仄かに赤らむ。
「ここは幻魔界、と呼ばれている世界でな」
「幻魔?」
「と言ってもわからんだろう、人間よ?」
「わかるわけないじゃんか」
 少しばかり和やかな思いに身を浸していたというのにウルフの言動には頭痛がする。溜息をつき、軽くサリエルに頭を下げる。どうやらこの方が話が早いらしいと見定めていた。案の定、サリエルが苦笑しうなずいてくれる。
「獣を見ただろう? 白い一角獣を」
「うん、見た。綺麗だった」
「……おかしいと思わんのか?」
「なにが?」
「サイファとやら、聞きたいことがある」
「なんでしょうか」
「この人間はいつもこうなのか?」
 どうやらサイファの頭痛がアーシュマにもうつったらしい。顔を顰めて彼が言うのにサイファはおかしくなった。
「仕方ないじゃん。俺、世界の成り立ちなんか興味ないもん」
 拗ねたよう、ウルフが呟く。それにサリエルが声を上げて笑った。透明な笑い声が森の中に響く。魔界に堕ちようとも、仲間から離れようとも、彼は幸福なのだとサイファは知った。そうでなければあのような笑い声を上げられるはずがない。
「そのわりには聡いことを言う」
 わずかに視線を向け、アーシュマはサリエルを見る。視線に込められたものにサイファは目をみはる。当たり前のことではあった。だが二人を見る目とサリエルを見る目と、アーシュマはまったく違う。それに気づいたとき、やっと自分もそれを見る程度の余裕ができたのだとサイファはほっとする。
「どういうこと?」
「幻魔界は世界の成り立ちそのものに関わる世界でな」
 だからなんだとばかりウルフは首をかしげて不思議そうな顔をしていた。
「天使……お前たち風に言えば神人と悪魔が争うとどうなると思う?」
 サリエルはサイファを見、言う。どこか面白そうな顔をしているのが興味深い。あの神人と同じ種族とは思えなかった。
「我らの伝説では、神人の王と悪魔を召喚した者は相打ちになった、と言いますが……。王は悪魔に操られ、悪魔は生きていました」
「そうだろうね。ただ、それは天使と悪魔の戦いではないよ」
「どういうことですか」
「神人とは正確に言えば堕天使。そうだね、お前にわかるように言えば秩序と混沌の戦いではなかった、と言うこと」
「理解しました」
 サイファは深くうなずく。相反する属性の者が戦えば、破壊の程度は想像を絶する。堕天使だと言う至高王の剣ですら、悪魔を滅したのだ。
「アルハイド大陸など、消し飛んでしまうよ」
 薄く微笑ってサリエルが言う。惹き込まれそうで、それでいて恐ろしい。ごくり、ウルフが喉を鳴らす。
「大陸どころか、世界が消えるな」
 そっと口許を緩めてアーシュマが言う。サイファも喉を鳴らした。恐怖と言うより、感じたのは親和。遥か昔に感じたよう、やはり自分は悪魔にこそ近いのかもしれない。
「だから幻魔界が創設された」
 言いつつサリエルが頭上を仰ぐ。つられて視線を向けたサイファには変わった物など何も見えない。いささか風変わりな木々や蔦が生い茂る森だった。
「ここは天使と悪魔の協定の地。人界には立ち入らない、そう約定をかわした地」
「ですが」
「お前のあった悪魔は召喚された者だろう?」
「おそらくは」
「だからだね。悪魔は召喚されればどこにでも出現できる」
「と言っても小物ばかりだがな」
「あなたが人界になど出たりしたら、天界が動きますよ」
「そうでもないがな」
「……アーシュマ? 行ったんですか」
「それはまた別の話」
 口許を歪め、悪魔が笑う。それを仕方ないと呆れ顔で見ている堕天使の会話に、さすがにサイファもついて行かれない。
「ねぇ、ちょっと待って。整理していい? 天界があって魔界があって、んで、俺たちのいた人界ってのがあって、悪魔も天使も勝手に人界には来れなくて、その約束をしたのが幻魔界ってこと?」
「思ったほど愚かではないようだな、人間」
「なんとでも言って、頭痛いんだから。でもさ、約束しましたってだけでここあんの?」
「そんな訳はなかろう」
「だって、じゃなんでだよ。まだ聞いてない……よね?」
 ウルフは急に不安になったのだろう。サイファを見て額を押さえている。彼にうなずきサイファは軽く背を叩く。たった十数年とは言え、魔術師と暮らしたのだ。人間としてはそれほど知識がないわけではない、はずだとサイファは思いたかった。
「ここは天使と悪魔が話し合いをする地といった意味合いもある」
「ふうん、それだけ?」
「でもない」
「じゃ、なに」
「人間にわかりやすく説明するのは難しいな……」
「馬鹿だけどさ……!」
 顔を顰める悪魔にウルフが食って掛かるのをサイファはとどめる。気安く会話しているせいだろう。そして彼が人間であるせいだろう。目の前にいる悪魔の持つ力の強大さを彼は理解していない。それを思えばぞっとする。
「サリエル、任す」
 急に煩わしくなったよう、悪魔が片手を上げ下がっては木に寄りかかって腕を組む。サリエルはそんな彼をじろりと睨みつけ、少しばかり考え込む。
「お前に説明すればいいね?」
 そしてしばらく経った後、サイファに向かってそう言った。わずかに微笑み、サイファはうなずく。ウルフがまた馬鹿扱いする、と呟いたけれどあえて聞こえないふりをした。
「天界は秩序」
「魔界は混沌、でしたね」
「そう。ならばお前は?」
「どちらかと言えば……混沌に近いかと」
「近いけれど、魔界には住めないね」
「なぜです」
「魔界は曖昧さを許さないよ。その程度の認識では、すぐに滅びるだろう」
 サリエルは死ぬ、とは言わなかった。当然だとサイファは疑問に思ったことを恥じる。神人は不死だった。神人の子らでさえ殺されなければ死なない。ならば彼ら魔界あるいは天界に生まれた者が死すはずもない。
「私は……」
 どこで生きればよいのか。そもそも生きる場所など、あるのか。わずかに体が震える。ここだと思った。半エルフの最後の地は。ここならばウルフと共に生きることができると。
「秩序でもなく混沌でもない者はお前だけではないよ」
 どこか優しげな声にはっとして伏せていた顔を上げた。そこにあったのは月神サールとして見た、あの穏やかな笑み。これだから人間は彼らを善だと思うのだと、はじめて心から納得できた思いだった。
「どちらでもあり、どちらでもない者がここに住む。幻魔界にね」
 言ってうなずいたサリエルに、サイファは知らず頭を垂れていた。やっと実感が湧いてきた。ここはやはり半エルフの旅の終着の地だったのだ、と。
「その人間も、ある意味ではすでにどちらにも属さない者」
 サリエルの声にサイファは顔を上げる。まるで自分の理解が及ばなかったのではないか、間違いではないのかと確かめるよう。
「死の制約から解き放たれた者は、どちらにも属さない者だからね」
 サリエルの言葉にサイファはうなずくことも出来なかった。震えようとする体を自らの腕で抱くだけ。




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