背後でこらえているウルフの気配。頼むから笑ってくれるなと心に願う。敵対はしていない。だがそれがいつ変わるかはサイファにもわからない。ましてここにいるのは月神と崇めた者とそれを遥かに上回る力を持つ悪魔。そもそも神と悪魔が同時に姿を現すなど、サイファの理解の外だった。 「うわ。サイファそっくり」 「若造、腹に風穴あけられたいか」 「遠慮しとく」 「だったら、黙れ」 「はいはい」 肩をすくめて言うウルフの体から、緊張が抜けているのをサイファは感じた。緊張する必要はない、そうサイファは判断した。ウルフの獣的と言ってもよい状況判断能力をサイファは信用する。 「大丈夫だよ、サイファ」 それを感じ取ったよう、ウルフが背後から足を踏み出し隣に立つ。軽く右手を取られた。温かい乾いた手にほっと息をつく。 「さて、何の話だったっけね?」 肩をすくめて月神サールが言う。それをサイファは不思議なものでも見るよう眺めていた。神であったはずだ。自分は確かに彼を神とし契約を結んだ。信仰はしていない。だが、彼を信仰する者はアルハイドに数多くはなくとも確かにいる。 しかし彼が神とは思いにくい、そうサイファは思う。銀の鍵を握る者、月の運行を司り、人間の生と死を操る。そういわれた月神にしてはあまりにも生身のようだ、と。 「サイファとやらが天使の血を引くという話をしていたところだ」 「あぁ、そうだった。アーシュマ、あなたが悪い。あなたのせいです」 「少しくらいかまわんだろうが」 「殴られたいですか、また?」 「……慎もう」 「それがよいでしょうね」 ここに至ってついにウルフが吹き出した。サイファは頭痛をこらえでもするよう頭を抱える。何が起こるかわからなかった。ゆっくりと呼吸を整えいつでも呪文の詠唱に入れるよう手を尽くす。 「人間、笑いすぎだ」 不機嫌そうに悪魔が言う。さっとサイファの頬に緊張が走った。だが、詠唱はしなかった。それはあるいはサリエルの顔に浮かぶ微笑を見たせいかもしれない。 「だって、おかしいんだもん。ほんとサイファとそっくり」 「若造……殴られたい――」 「ほら、そういうとこ、そっくりだって」 自分でもそう思ってしまったからこそサイファは言葉を止めたのだ。指摘して欲しくなどなかった。向こうでは悪魔が忍び笑いしている。サイファは溜息をつき、サリエルを見た。 「天使、と言われましたが?」 ここは話を変えるのが良策、とばかり笑いあう悪魔と人間を放置する。考えれば考えるほど、悪寒が走る状況なのだが、今はまず事態を打開したい。 「そう。私たちは自分たちを天使、と言う。私の場合は言った、だけれど」 「なぜ?」 「私は堕天したから」 「堕天、とは?」 決してよいものではないとわかる語感なのに、サリエルはなぜか嬉しそうにそれを言う。サイファは軽く首をかしげる。そしてふと懐かしくなった。まるで師と話しているようだ、と。 「サリエルは俺に惚れて魔界に落ちたのさ」 「アーシュマ!」 「ちょっと待て……って言ってるだろうが!」 痛そうに腹を抱えて悪魔が呻く。慣れるのにずいぶん時間がかかりそうだ、とサイファは溜息をつく。だが隣のウルフは早速笑い転げていた。適応するにも大概にして欲しい、再び三たび溜息をつくけれど、神と悪魔は意に介しもせず、言い合いをしていた。 深刻ではないらしい、とサイファは見て取った。どうやら悪魔が言ったとおり神は悪魔を愛したのだろう。そのようなことがあるとは。考えるだけで眩暈がしそうだった。 「今度、余計な口出しをしたら、殴りますよ。いいですね」 「……殴ってから言うだろうが、いつも」 「アーシュマ?」 「なんでもない。講義の続きをどうぞ」 茶化して言うのにサリエルは答えもせずアーシュマを睨みつけ、そしてサイファに向き直る。紫の目が笑っていた。どこかアレクを思い出しては微笑ましくなってしまう。兄弟は、今頃どうしているだろうか。 「人界の生き物にわかりやすく言うのは難しいけれど」 ひとつ肩をすくめてサリエルが話し出す。サイファがいまだかつて聞いたことのない話だった。が、事実とわかる。サイファも魔術師である。様々な知識を求めて生きてきた。アルハイド大陸に残る神話の数々、神の存在そして悪魔の存在。それが今ひとつに繋がろうとしていた。 サリエルは語った。天界を魔界を。そこに住む天使と悪魔を。秩序と規則に好んで縛られた天使たち。自由奔放、己が実力だけを頼りに生きる悪魔たち。その間に生きる人間の世界、人界。 「天使が秩序を破ると、魔界に落ちる。天使からすれば堕落したかつての仲間は堕天使。彼らにしてみれば堕天するなど、忌まわしいこと。後悔は、していないけれどね」 言ってサリエルがふと笑みをのぼせた。視線の先にいるのは苦笑する悪魔。綺麗な笑みだとサイファは思い隣を見た。ウルフは満足げな顔をしてサイファを見ていた。 「では、神人は?」 「聞いていて見当がついたと思うけれど」 「……人界に降りた天使、と言うことですか」 「正解。飲み込みがいいね」 「良い師匠がいましたから」 なるほど、とうなずくサリエルを前にウルフが強張る。いっそ蹴りつけてやろうかと思いはしたが、サイファは堪える。わずかに爪先を踏みつけるだけにとどめた。 「人界に降りた天使は……痛がってるようだけれど、いいの?」 「丈夫が取柄です。放っておいてください」 「やっぱり――」 「アーシュマ。言いたいことがあったら大きな声でどうぞ」 「遠慮しとく」 ウルフが器用なことをやってのけた。痛がりながら笑っている。こらえきれなくなったものか、爪先の痺れを取るよう飛び跳ねながら笑っているのだ。頭がおかしくなったとしか思えない。サイファはウルフの背中を殴りつけ、軽くサリエルに頭を下げて詫びた。 「続けてください」 「いいの? こちらはかまわないけれど」 「問題はありません」 「では。天使も悪魔も本質的には肉体を持たない。悪魔は自分の好きな性を選ぶようだけれど、天使はほぼ無性と言っていいね。稀に職務によって性を選ぶ者もいる。私もそうだった。人界に降りた天使たちも、はじめは無性だっただろうけれど……」 「女、ですね」 「そう。人間の女に惹かれた。肉体をまとい子を生した。彼らもまた、堕天使と呼ばれる」 「え……」 「我らの血を引く者、と呼んだ理由がわかった?」 アルハイド大陸でかつてそう呼ばれたこともあった。神の一族に連なる者、と。あながち間違いではなかったわけだとサイファは自嘲する。そのような者になどなりたくない、常々そう思ってきたはずなのに事実であったとは。 「じゃ、あんたとサイファは親戚ってこと?」 突然ウルフが口を挟む。サイファは血の気の引いていく音が聞こえた気がした。 「少しは考えて物を言え!」 「え、何が?」 「あんたとはなんだ、あんたとは!」 「んー、そっか。ごめんなさい」 潔くウルフはサリエルに頭を下げる。呆然としていたのだろう、彼は何度か目を瞬き、それから徐々に笑いが顔中に広がっていく。 「人間とは面白い生き物だな。やはり見に来てよかっただろう?」 「えぇ、あなたの言うとおりだった。楽しい」 「それは良かった」 今度はサイファが呆然とする番だった。どうやら怒りを招かずに済んだようだ。まずそのことにほっとする。そして悟った。彼らにとって人間も半エルフもその程度の存在でしかないのだと。間違いなく思考ひとつで自分たちを消し去ることが可能だろう。そのような存在に対して本気になるはずもなかった。 「えっと、質問してもいい……ですか?」 「かまわないよ、どうぞ」 「神人って、どうなったの」 すぐに言葉が戻っている、と背中を殴りつける。だが意外なことに悪魔がそれをたしなめる。気にしないでいいと手を振った。ウルフがそれに意を強くしたよう笑みを浮かべるのにサイファは天を仰ぐ。 「魔界にいる者もいるだろうし、ここにいる者もいるだろう」 「ふうん。じゃ、サイファのお父さんにも会えるかもね」 「会ってもお互い誰だかわからんと思うが」 「そうなの?」 「誰だか知らんからな」 「そっか。ちょっと残念」 まるで我が事のよう肩を落とすウルフを見ていると、なぜか知らず口許がほころんでしまう。あるいはここに誰もいなければ。そんなことを思ってはひとり、頬に上る熱を抑えかねた。 「なるほど、それでか」 悪魔がゆったりと腕を組みうなずいていた。何か緊張が走った気がしてサイファは彼を見つめる。ウルフは気づきもせずぼんやりしていた。 「そんなに緊張しなくても大丈夫。お前たちは私に縁のある者だから。手出しはさせない」 サリエルの言葉にはっとウルフが剣の柄を握った。今更だ、と思うがサイファはそんな彼をたしなめる。ここはサリエルを信じるしかなかった。 「それで、とは?」 「その人間がここにいる理由さ」 「どういう意味です?」 「よほど強い意思を持った者でなければこんなところにはいないだろう」 言って悪魔が薄く微笑む。ざわりと肌が粟立った。だが、彼の言うことに間違いはなかった。ウルフには意志がある。それもよほど以上に強い意志が。サイファと共に生き続けるという願いが。 「易々と人間が来られる場所ではないのでな。お前は元々この場に生まれるべき命だったから、当然という気もするが」 「当然?」 「地上に生まれながら物質に縛られない者。半ば我らに近い者。堕天使と人間の血を引く者。お前は人界に生まれるべきではなかった」 「好きで生まれたわけではない!」 「苦労しただろう、と言っているだけだ」 「そんなことは……」 ふと顔をそむけた。ウルフが庇うよう、腕を回してくる。ほっと息がつけた。彼に出会うことができたのだから、すべてが苦しいばかりではなかった。悪魔にそう言ってわかるものだろうか。 「ところで。もうひとつ。ここってどこ?」 頭上から聞こえた声にサイファは驚いた。思えばまだその問いを発していなかった。己の迂闊さに唇を噛み、そのぶん少しだけウルフが誇らしかった。 |