ゆっくりと、何者かが近づいてくる気配にサイファは慄く。ウルフが感じることのできるものではないかもしれない。無理に首を傾けて彼を見れば意外にもウルフは唇を固く結んで剣を抜いていた。
「なに、サイファ」
「いや」
「そう。悪いけど、かまってらんないから」
「それでいい」
 わずかにうなずき、ウルフは前方を見据える。圧倒的な気配だった。まるでシャルマークの王宮の魔族を思わせる。
 はっとしてサイファは辺りを探った。あまりにも似過ぎている。だがしかし、あれ以上の何者かが近づいてくる。
 間違いなく、魔族だ。サイファはそっと呼吸を整え詠唱に入る。相手に効果があるとは思っていない。ならばウルフと自分にかけるまで。あの時のよう、神官がいれば。思いはしてもいないものは仕方ない。遥か昔に教えられた強力な護身呪を施していく。二人の体が仄かに輝き効果を知らせた。
「ほう、面白いものがいるな」
 二人の体が強張った。今までそこには何もいなかった。出現した、としか思えない。緩やかな黒衣をまとった長身の人影。黒髪はわずかに波うち首筋を覆う。ウルフは息を呑む。サイファの黒髪を、人間ではありえない美しいそれを見慣れた彼にして驚くほどのそれだった。髪も衣装も瞳さえ黒一色に装われた姿の中、一点だけ赤い。耳に光る血のような耳飾り。
「魔族……」
 鋭く息を吸う。二人で敵うとは思っていなかった。倒せるわけがない。逃げるのが精一杯と言うところか。それさえできれば僥倖と言うもの。サイファは己を鼓舞するよう、唇に笑みを刻む。
「そう嫌ったものでもないだろうに」
 呆れたよう、魔物が言った。信用してはいけない。かかずらってはいけない。だが、何か心に引っかかるものがある。
「何者だ、お前たちは」
 敵対するつもりはない、と言うことか。魔族は緩く腕を組み、その場に立つ。それを見てウルフが前に出る。サイファを庇おうと。いまさら、とも思った。が、シャルマークで倒したあの魔族とは違う。すべてにおいて上を行く。
「下がれ」
「サイファ!」
「お前が、敵う相手ではない」
 剣では無駄だ。今ここに神官はいない。神聖呪文の使い手はいない。あの時のよう至高王の剣もない。サイファはウルフを下がらせ、反って自分が前に立つ。
「面白いな、お前たち」
 ふっと魔族が口許で笑った。二人の背筋が粟立つ。ウルフは当然かもしれない、彼は人間なのだから。だが半エルフであるサイファさえも恐れさせた。
 邪悪ではない。魔族とは悪に属する生き物ではない。それはただ人間が決めた決まりごと。半分ほどは魔法的存在である半エルフの感じ方は違う。神人は秩序、魔族は混沌。そして地上の生き物でありながら魔法的存在でもある半エルフもまた、混沌により近い。
 だから、この目の前に立つ魔族はサイファにとって仄かな親しみさえ感じてもよいはずなのだ。だが、恐ろしかった。信じがたい力を持つものがここにいる。アルハイド大陸で出会った魔族などこの魔族に比べればまるで赤子。
 すっと魔族が前に出た。下がってはいけない。そう思ったはずなのに背中はウルフに当たった。そっとウルフが支えてくれる。肩に触れた彼の手は震えていた。
「取って食おうというわけじゃないんだがな」
 苦笑、だろうか。ありえないものを見た。サイファはひとつ首を振り、ゆっくりと息を吸う。ここがあのシャルマークの王宮のような魔力の濃さを持っていたことが幸いした。気力が満ちてくる。
「お前のような者と人間がここにいることが不思議でな、それだけだが」
「戯言を」
 それだけを言ってのけるのが精々だった。それでも言い返したことが興味を引いたか、魔族が笑う。はっと気づいたときには目の前にいた。呼吸がかかるほど近くに。
「中々、言う」
 伸びてくる手。かわせない。サイファは決して目を閉じるものかと思う。屈しはしない。たとえ何が起ころうとも。背後でウルフが剣を構える音がした。
「アーシュマ。その者たちに手出しは許さない。それは私に縁のある者」
 サイファは息を呑む。また、気づかなかった。いつどこから出現したのかさえ、わからない。このような屈辱を覚えた例などないものを。だが、そこに現れた者もまた魔族のようだった。アーシュマと呼ばれた先の魔族より力は劣る。しかし半エルフや、まして人間が敵う者では決してない。
「サリエル」
 アーシュマと呼ばれた魔族が振り返る。視線が外れただけで圧力が減る。突然、呼吸が楽になる。ウルフもそれを感じたのだろう、激しく呼吸を繰り返していた。背後に向かって手を伸ばす。剣を握っていない方の手が伸びてきてサイファの手を取る。冷たく緊張に震えていた。なぜか安心した。ウルフがここにいる。それならばあるいはどうなっても良いと思う。ここまで来て。わずかに悔しくはある。だが、ウルフと共だった。それを感じたのだろう。ウルフがきつくサイファの手を握った。
 サイファは心強さに知らず微笑む。ようやくサリエルと呼ばれた魔族を観察する余裕が出てきた。そして何度目かになる驚きを味わった。そこにいたのは魔物とは思えない者。長い透徹な銀の髪。日の光にきらきらと透けて輝く。穏やかな、そして美しい紫の目はもう一人の魔族を見ていた。その目にあるのは信じられないもの。が、何よりその容姿にサイファは驚愕する。
「サール神……」
 サイファは彼を知っていた。契約魔法を結ぶ間、かの姿を幻視した。そのようなはずはい、と何度も首を振る。が、サイファの声を聞きつけたのかサリエルはゆっくりとこちらに向かって進んでくる。そして微笑んだ。
「サール神? なんだ、それは」
 訝しげな声を上げた黒衣の魔族に彼は苦笑して見せ、軽く腕を絡ませる。
「彼らがいる世界では、そう呼ばれている」
「ほう?」
「月の運行を司る月神サール、とね」
「ならばあれは本当だったわけだ」
「なにがです?」
「お前が堕天使と言われた理由ってやつさ」
「あぁ……」
 苦笑してサリエルがうなずく。サイファはただ立ち尽くすだけだった。月神が、魔族とここにいる。一体ここはどこだ、混乱は拡散するばかりでまとまった疑問にすらならない。
「サイファ、何が起こってんの、俺……」
「私に聞くな」
「あんたに聞かないで誰に聞けって」
 ウルフの、場をわきまえない苦情の申し立てになど耳を貸している暇はなかった。敵対すればいいのか和を請えばいいのか、それさえわからない。自分がどのような行動をとれば正しいのか。ウルフを、自分を救うことができるのか。
「私に尋ねるのはどうかな?」
 少し笑って手を差し伸べてきたのはサリエル。サイファは引き込まれるよう手を伸ばす。その手が止まった。
「ウルフ……」
 背後から、彼が手を掴んでいた。握り締められた手首が痛いほど。彼も怖いのか、そう思えば安堵する。
「あんただけ危険な目にあわせるわけには行かないでしょ」
 掠れ声が耳許で言う。何が起こっているのかもわかっていないくせに、そうサイファは笑い出したくなってくる。もっとも、サイファ自身の混乱も極まっていた。
「危険ではないと思う。私とお前たちは縁があるから」
「縁? 生憎、神様にも悪魔にも縁なんかないよ」
「そうかな? そちらの彼には見当がついていると思うけれど。半ば我らの血を引く者よ、私の力を使ったことがあるね?」
「……ある」
「え、サイファ。そうなの?」
「そうだ、覚えているだろう。月神サールと私は契約を結んでいる」
「あれって、これ?」
 言って不敵にもウルフは銀のサリエルを指差した。サイファは息を呑む。あまりのやりように何が起こっても責任は持てないと怒鳴りたくもなってくる。
 だが、意外なことが起きた。黒衣の悪魔が腹を抱えて笑っていた。呆気に取られて見る二人の前でサリエルが顔を覆って溜息をつく。妙に人間くさい仕種だった。
「アーシュマ。笑いすぎですよ。彼のことは放って置くとして。人間よ、お前とも縁がある」
「あんたのことなんか知らないよ。俺、信仰心なんてなかったもん」
「そうであったとしてもね」
「あ……」
 ウルフとサール神とのやり取りに、思わず声を上げたのはサイファだった。
「そう、気がついたね」
 ふっとサリエルの目許が緩む。敵対などしなくてもいいのかもしれないとはじめてサイファは思った。そして和を請う必要もない、と。
「サイファ、何?」
「お前、死んだだろうが」
「うん、それで?」
「生き返ったのは、どこだ」
「サール神殿……あ!」
「そう言うこと。私が生き返らせた、と言っていいと思う」
「サール神よ、なぜですか」
「我らの血を引く者が、苦しんでいるらしいと感じた。それでは理由にならないだろうか?」
「私と……私たち半エルフが、あなたがた神と?」
 そのようなことはありえないとサイファは首を振る。サイファは神人の子だ。かつてアルハイド大陸を支配した神人たちの血を引く。神人たちは神の御使い、とは呼ばれた。決して神ではない。
「お前はサリエルたちの血を引く。が、俺たちとの方が近い。感じるだろう? サイファとやら」
「どういうことだ、悪魔」
 強大な力を持つ者と正対して震えないわけがない。だがサイファはそれを面にあらわすまいと堪えて言う。しかし、それにかまわず悪魔はサリエルに視線を向けて口許で笑った。
「サリエル。お前あっちに行ったことあるんじゃないか?」
「なにを馬鹿な。仕事以外で人界に降りたことなど」
「この気の強さがお前そっくりだと思ってな」
 ウルフとサイファは目を覆った。信じがたい場所に来て、信じられないものを見た。サリエルが、アーシュマの頬を思い切り平手で打っていた。
「誰の気が強くて、誰と誰が似ていると?」
 勝ち誇るようサリエルは言い、わずかに仰のいて黒衣の悪魔に笑って見せる。仕方がないな、とばかりに悪魔は苦笑し頬を押さえていた。




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