それは不可思議な景色だった。見たこともない蔦に色鮮やかな花が咲く。ねっとりと濃厚な果実の香りがあたりに漂い、美しい獣が長い草を食む。
「行こうよ」
 立ち上がり、ひとつ伸びをした。そしてまだ呆然と目をみはるサイファにウルフは手を差し伸べる。
「そうだな」
 少し笑ってサイファは彼の手を取った。戦士らしい無骨な手だった。昔、旅をした頃の少年の面影を残したまま彼は大人になった。腕も肩も逞しくなった。心身両面でサイファを支え得るほどに。
 長い旅をしたものだとサイファは思う。二人、アルハイド大陸を経巡った。ラクルーサを周り、大穴が塞がったシャルマークさえも旅をした。ウルフが切望していた師の塔は、結局最後になってしまった。
「どうしたの」
「なにがだ」
「今、笑わなかった?」
「気のせいだな」
 茶化された、と思ったのだろう。ウルフは唇を尖らせて答えない。そんな仕種だけは少年の頃のままだとサイファは思う。
 師の塔はミルテシア国内にあったのだ。ミルテシアの南東部、海辺の穏やかな地だった。塔、と言ってもすでに形も何もない。墓すら消えてしまっている。
 それでもウルフは行きたいと願っていた。だからサイファは連れて行った。長の年月、決して足を踏み入れたことのない地だった。
 やはりそこにはうららかな海があるだけだった。ウルフが砂浜を走り出すのを見てサイファは胸が痛んだ。遥か昔の自分を思い出して。あの日々の、なんと幸福だったことか。
「やっぱ、来てよかった」
 塔があった場所を見下ろす小高い丘の上、ウルフは言った。師の墓があったと思しき場所に向かって花を手向けた後のことだった。
「なぜだ」
「だって綺麗じゃんか」
「……それだけか?」
「まぁ、もうちょっとあるけどさ」
「言え」
 詰問調のサイファに向かってウルフはなぜか照れくさげに微笑んだ。反って気恥ずかしくなったのはサイファのほう。ふいと顔をそむけて海を見た。穏やかな海風に長い黒髪がなびく。
「お師匠様にさ、ご報告」
 どれほど経った後のことだろう。ウルフは背後からサイファを抱いては耳許で言う。かすかな声だった。
「どういうことだ」
「サイファ、もらいましたからって」
 言ってウルフはサイファの髪に顔を埋める。恥ずかしがるくらいならばそのような戯けたことを言うのではない、と怒鳴りかけ、言う自分のほうがよほど恥ずかしいことに気づいたサイファは無言になる。黙ったまま肘を上げ後ろに向かって振り抜いた。
「痛ぅ」
 見事に腹に命中した痛みにウルフがかがんで呻き声を上げる。サイファは鼻で笑って振り返りもしなかった。
「ほんと手加減なしなんだから」
「手加減されたければ考えて物を言え」
「だって、他に言いようがある?」
「もらったとは何だもらったとは!」
「だって、お師匠様からもらったのと一緒じゃんか」
「私は猫の仔か?」
「いいじゃん、そんな怖い顔しないでよ。俺の気持ちの整理に来たんだから」
「整理?」
「いいの。サイファが知らなくっていいことだから」
「若造。よもやと思うが、まさかまだ我が師との間を疑っているのではなかろうな」
「ないない」
「嘘をつくな」
「ついてないってば!」
「どうだかな」
 わずかに和んだ目だけでサイファは微笑む。それで終わったとばかりウルフは立ち上がり、再びサイファを腕に抱く。
 そんな旅をしてきた。大陸全土を歩き、けれど道は見つからなかった。半エルフが最後に出る旅。願わくはウルフと二人暮らせる地。そこへの道だけがどうしても見つからない。
 自暴自棄とも言える旅に出た。誰も行ったことのない場所へ。誰一人道を知らぬ航海に出た。あるいはそれで別の旅に出ることさえ覚悟していたのかもしれない。ウルフ一人が死に、サイファだけが残される旅を。
 そしてある日、目覚めたのは緑あふれる森の中。サイファには信じがたかった。このような場所は知らない。間違ってもアルハイド大陸ではない。かといって上陸した覚えもなかった。二人が乗ってきた小舟はといえば影も形もない。
「これ、食えるかなぁ」
「また空腹か?」
「って訳でもないんだけどね」
「ほう?」
 ウルフらしくない言葉だった。少年の成長期を抜けてからも彼の食欲は旺盛だった。サイファが呆れるほどよく食べる。よくぞシャルマークの途上、少ない食料で堪えたものだと感心するほどよく食べた。
 悪くはなかった。人間ほど食事を必要としない半エルフの身ではあったが、実のところ食事を作るのは嫌いではない。ただ、昔を思い出すのがつらくて避けていただけだ。いま別の人間が食べるというならば、作ってやってもかまわない。そう嘯いてサイファはウルフのために様々な物を作り、彼は彼ですべて綺麗に平らげた。
 そのウルフが空腹ではない、とは。不思議に首をかしげサイファはふと考え込む。誰もいないことだから、と言うよりもアルハイド大陸だからとは思えないせいだろう。サイファはフードを跳ね除けていた。風は当たり前に吹く。長い髪も普通になびく。が、何かが不可思議だった。
「サイファ?」
「少し待て」
「ん」
 笑みを浮かべてウルフがまとわりついたサイファの髪を指でかき上げる。煩わしいとは、思わなかった。不意に思いついて何度か深い呼吸を繰り返す。
「あぁ……」
 思ったとおりだった。サイファは莞爾とし、機嫌よくウルフの髪に手を伸ばす。出逢った頃と変わらない癖のある赤毛だった。
「どうしたの」
「シャルマークに似ている」
「え。どういうこと」
「お前の頭で覚えているかどうか」
「酷いなぁ、サイファ。覚えてるって。たぶん」
「そのたぶん、が怪しい。まぁいい。シャルマークの王宮のことを覚えているか」
「あ、魔力が濃いって言ってたやつ?」
 サイファは驚き絶句した。思わず足を止めてウルフに見入ってしまう。振り返ったウルフは少年のよう、拗ねていた。
「よく、覚えていたな」
「馬鹿にしないでくれる?」
「お前にしては上出来、と褒めておこう」
「じゃ、ご褒美」
「調子に乗るな!」
 罵声を浴びせ、それでもサイファは立ち止まったまま。心得たようウルフはサイファに軽く腕を回す。そらした顔を片手で捉え、すでに目を閉じているサイファに唇を重ねた。
「離せ」
「もうちょっと」
「いいから離せ、と言っている」
「はいはい」
 諦め顔で言って見せ、ウルフは忍び笑いを漏らしてサイファの手を取った。不機嫌な顔のまま、サイファは手を委ねる。馴染んでしまった手。暗闇の中でも見つけられる手だった。
「それで?」
 何事もなかったかのようウルフは話しの続きを求めて見せる。サイファは少しおかしくなる。以前だったらまだしばらくは拗ねて、役に立つかだの必要かだの言っていたことだろうに、と。
 人間の変わり方の激しさに、サイファはいつも驚きと哀しさを覚える。ウルフには驚かされてばかりだった。そのままでいいと何度言ってもウルフは成長を求めてやまなかった。
 サイファの隣に立つに相応しい男になりたい、そう古い友には漏らしたそうだ。残念ながらその友とはサイファの方がいっそう近しい者であった。
「坊主ってば健気だねぇ」
 彼は女の顔のまま男の声で言ってのけ、サイファの頭痛を激しくさせたのだが、ウルフはそのようなことがあったなど少しも知らない。
 だいたい、とサイファは思う。相応しい男も何も自分も男だと思うのだ。半エルフはなぜか女性体では生まれない。そのせいで性別の認識が淡くはあるが、だからと言って無性ではないし、男性の自覚もある。
 男が男の横に立ちたがってどうするのか。それも愛情の絆で。それくらいならばせめて恋人に相応しくなりたいくらい言えばいいと思う。どちらにしても恥ずかしいことには違いない。人の悪い金髪の友は、聞かされたサイファが溜息しか返答のしようのないことを知っていて、言いにきた。その彼ともすでに遠く二度と会うことはないだろう。
「ここはまるでシャルマークの王宮のようだ」
「魔力が濃いんだ?」
「だが……あの場にあった邪まな感覚はないな」
「魔族はいないってこと?」
「おそらくは。少なくとも今現在は」
「まぁ、気にしておいたほうがいっか」
「だろうな」
 それでようやくウルフが片手を剣の柄にかけていたことにサイファは気づいた。知らず苦笑が上る。自分はどうしてこれほど警戒心が薄くなってしまったのだろう。ウルフがいれば安全だと思ってしまう。彼の剣の腕と自分の魔法と、二つながらに揃っていればたいていの危険は回避できるはずと信じていた。
「それにしても変なとこだよなぁ」
 ウルフが辺りを見回しながら言う。目にしたことのない植物ばかり、と言いたいのだろう。それはサイファも同様だった。
「サイファ、知ってる?」
 だから問われた時も素直に首を振る。そのせいで反ってウルフは心配になってしまったようだった。そわそわと落ち着きなく辺りを見ている。そのようなことで警戒になるものか、とひとつウルフの背中を叩けばやっと自分の行動を把握したのだろう。ウルフが苦笑して大きく息を吸った。
「気をつけろ、何か……来る」
 はっとしてウルフが顔を引き締めた。サイファはどちらから、とは言わなかった。が、ウルフは正しくサイファが感じ取った方向を見る。わずかに安堵する。だが、気は抜けなかった。




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