帳台の中で眠りこける雷公を残し、梅花精は庭に降り立つ。乱れた髪を手櫛で整え、総角を結い直す。
 ちりん、鈴の音がした。
「どうしてあんなことをなさるの」
 鈴にふさわしい声。振り向けばそこに童女がいた。庭の奇岩に腰を下ろし、不服げに顔を膨らませている。
「あんな、とは」
 愛くるしいばかりの童女を目にして、つい梅花精の口元もほころんだ。
「お判りのくせに」
 言って童女は口を尖らせ、袖を振った。紅梅の汗衫に五つ衣もまた紅梅の匂い。小さな足が、それだけ白い袴からのぞいている。袖を振った拍子に髪につけた鈴がまたちりり、鳴った。
「そなたならば、なんとした」
「どうもいたしません」
 ぷいと顔ほそむけて拗ねて見せる。その仕種が華麗な正装に似合わず少し、おかしい。梅花精は知らず微笑んでいた。
「友をな、救うてやりたかった」
 そなたにはわからぬことであろうが。梅花精は続ける。童女はその言葉にうなずき、当たり前のことではないかと言いたげに、わかりません、そう答える。
「人など、すぐに果敢なく消えてしまうではありませんか」
 ふわり、奇岩から童女が飛び降りる。舞い上がり広がった髪が、姿のない何かに整えられたようにすんなりとまた、背中に落ち着く。
「そうであってもなお、救うてやりたかった。あのままでは六道輪廻の果てに修羅となるは必定」
「なんの、かまうものですか。人などそうなるが定め」
「あれは我が友」
「あなた様ほど美しく、誇り高きお方が人などに……」
「言うな」
「いいえ、申します。我ら眷属は皆々あなた様を案じ申上げているのですよ」
「紅梅の精よ、礼を言う」
 梅花精は童女に目を向け、わずかに目礼を送る。
「礼など申されますな。どうぞもう現身の人の姿などお纏になりますな」
 身を震わせるような紅梅の精の嘆願にも、梅花精は心を動かされなかった。思うはただ一人。雷公。
「聞けぬ」
「なんと、強情を仰ることか」
「……聞け、紅梅の精よ」
「聞きとうございませぬ」
 癇性に顔をそむけた紅梅の精に、やはり梅花精は笑みを向ける。幼き者の一途は好ましい、とばかりに。
「友の命は長くはない。せめて、せめて帝への執着のいかばかりなりとも減らして送ってやりたい」
「あのような浅ましい思い。減りましょうか」
「さて、な」
「あなた様のお命に関わるだけではございませんか」
「私は枯れぬよ」
「いいえ、いいえ。あのようなことを続けておれば」
「言うたであろ。友の命は長くない、と」
 言葉を切った梅花精は、遠く東の空を見上げた。いつしか白々と明け初めている。
「もう、戻るが良い」
「あなた様からお約束を頂くまでは戻りません」
「強情な娘もいたものよ」
 梅花精は笑って童女の腰を抱き上げた。わずかに抗う素振りはしたものの、紅梅の精はうっとりと梅の主の腕に抱かれた。
 梅花精は歩を進め、そして着いたは若い紅梅の木の本。
「あれ……」
 ふと心づいた紅梅の精が、身をよじろうとした時にはすでに時遅く、梅花精の手で木の中に戻されたあとだった。
「友の命は長くない、か……」
 独りになった梅花精はそう、呟く。聞くものとてなく、答えるものもない。ただ遠くで有明けの鳥が鳴いているばかりだった。

 雷公は煩悶していた。
 帳台の中、こもったまま女房の声にも応えず衣を引き被りおののいている。
「あのような、あのような……」
 目覚めてから、何度そう口にしたかわからない。
 どこぞの童の戯れであって欲しかった。しかし己が心がそうではいことを一番よく知っている。
「お主上……お助けくださりませ」
 これも、何度口にしたことか。無論、答えるものとてない。
 誰よりも大切に奉ってきた皇子。教え導き、はばかりながらお育てした、と申し上げたいほどの慈しんできた皇子。
 その皇子が父帝の御位をお継ぎになったときの誇らしさ。重々しい帝の晴れの装束をお付けになったお若い帝のその美々しさに胸張り裂ける思いをしたものだ。
「おぉ……」
 誓ってあのような浅ましい思いなど。
 雷公は自らの胸に言う。
「さようでありましょうか」
 衣の内に、声。
「なにを……」
 梅花精がそこにいた。
「畏れ多くも帝の肌に――」
「言うなッ」
「……夢の内にも思ったことなどない、と仰せですか」
「当然……だ……」
 ないはずだった。否。ない。雷公は惑う。真実、ないか、と。首を振る、力なく。
「ない、ない。ない……」
「ありますとも」
 梅花精が耳元に囁く。帝と同じ声。同じ顔。昨夜、自分は。
「そなたが」
「わたくしが無理にと仰せでしょうか」
「それ以外になにがある」
「ではなぜ、わたくしをお抱きになりました」
「それは……」
「わたくしが帝と同じ顔を、体を」
「言うな、言うな……頼む。言うてくれるな」
 雷公は震えた。真実、この年になるまでこれほど恐ろしい思いをしたことなどなかったものを。
 すべてはこの物の怪がため。
 憎い、憎い物の怪を雷公はひたと睨みつける。
 だがしかし、物の怪はあの帝と同じ、顔。
 梅花精がふ、と笑う。華やかであどけない、この世ならない微笑み。帝と同じ笑み。伸ばしかけた右手を自らの左手が押しとどめた。
「貴方、お忘れになりますな。わたくしのこの態は貴方ゆえ。貴方が帝を思うがゆえ」
「去ね。去んでしまえッ」
 引き被った衣の中、汗と後悔の涙でどろどろになった雷公を一人残し梅花精は消えた。ほのかな梅の香りを残して。
「きっと、戻りましょうぞ」
 どこからともなくただ声だけが、聞こえた。

 雷公は辺りを見回す。声は消え、確かにもう何者もいなかった。
 衣の内からそっと顔を出し、もう一度回りをうかがう。それからほっと息をつき、ようやく乱れた髪を撫で付けた。
「誰か。誰かある」
 掠れ声が喉に絡む。二度三度と咳をするうち女房が入ってくる気配。
「あい。ここに」
「酒を持て」
「酒、でござりますか」
「すぐにじゃ」
「あれ……ただいま」
 常にない雷公の剣幕に女房は驚き、身をひるがえすように出て行ってはすぐに瓶子を持って現れる。
「こちらに寄越せ」
 雷公の声に怯えた女房は声もなく、ただ瓶子と杯を帳台の内に差し入れるばかり。
 そもそも雷公が酒を所望したことなど一度もないのだ。宴で一口二口ばかり杯に口をつけることはある。が、屋敷内で一人飲むことなど絶えてなかった。いまの酒もなにかの宴のために用意されている酒の封を破ってまで持って来たに過ぎない。
 恐れる女房は掲げられた御簾の外からそっと中をうかがった。帳台の帳に隠されて雷公の姿は見えずとも、その異様な空気は伝わらずにはいない。
 饐えた汗の匂いがする。それに女房は顔を顰めた。と――その顔に吹きつけた一陣の風。
「あれ良い香り」
 梅の香りだった。雷公は帳台の中に梅の切り枝でも飾っているのだろうか、女房がそう思ったとき
「まだおるかッ」
 雷公の罵声が飛び、女房は慌てて簀子を駆け戻る。その後、己の局で女房は首をひねることになる。あれは確かに帳台の中からした香りだった、と。だがしかし昨夜、帳台の用意を整えた同輩の女房は
「今朝になってあの白梅は開いたのですもの、周防介さんのお気のせいでしょ」
「それなら権帥さまがお手ずから……」
「まぁそんなわけないじゃないの」
「じゃあ右近さん、どうして梅の香りがしたの」
「あなたの勘違いよ、お庭の梅が香ったのでしょ」
 笑っていなす同輩の言葉を、女房はどうしても受け入れがたく、いつまでも首をかしげていた。



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