屋敷内は喧騒に包まれていた。無理もない。突如して一本の木が現れるなど、ありうべからざることなのだから。
 雷公はただ沈黙をもって答えていた。
 早朝より、どこから聞きつけたものか太宰の役所の者たちまで、糸より細い縁をたどって雷公の屋敷を訪れていた。
 そのうちの一人として、屋敷に入ることを許されたものはいない。いかに左遷の憂き目を見たとは言え、大宰権帥といえば、大宰府の長官も同然。いや、実質的な長官、と言えた。
 以来、二月が経っている。すっかり噂もなりをひそめ、おかげで雷公は心ゆくまで無粋な輩を排し、友と戯れる時を持てるようになっていた。
 簀子に座し、詩を作る。
「酒でもあれば……」
 さらに一層、興趣は増したことだろうに。雷公は唇を噛む。酒も飲めず琴も弾ずることができない。
「情けないものだ」
 ひとりごち、白湯をすすった。
 何度、目を向けたかわからない庭先にまた視線を向ける。やはりそこに友はいる。
 そのことにほっと安堵した。
 これが幻と消えてしまいはせぬか、と不安でたまらないのだ。
「友よ」
 それは一本の梅樹であった。
 まだ若い梅は、すんなりとした枝を天に伸ばしている。少年の、陽だまりに空を見上げる姿にも似て、美しくも危うい、雷公の目にはそう映っていた。
 しかし、梅樹は蕾のまま花開かずにいる。それがたまらなく雷公を不安にさせていた。太宰に遣わされた時に植えた、まだ幼いばかりの紅梅でさえ、すでに咲き誇っている。
 それなのに都の梅はいまだ硬くつぼんだまま。よもやこのまま枯れてしまわぬか、と思えば気がかりでならなかった。
 雷公の、何度目かのため息が天に届いたかのように、空が翳る。見上げれば、ゆっくりと日が暮れはじめていた。梅の木もまた、陰に侵されていく。日差しに輝かんばかりだった樹皮は、だがしかし夕陽が消えてもなお光を放つがごとく。
 冷たくつぼんだ白い蕾にぽっと色が差した。
「なんと」
 驚いて雷公は梅樹を見つめた。そして自らを嗤う。見間違いに違いない。梅が都から飛んできた、そんな驚異にあってさえ、雷公はそれを己の間違いだ、と取った。
 梅はまだ甘い光を放っていた。
 いつしか屋敷内に絶えて人気はない。
 雷公は知らず庭に降りた。触れてみたい、あの樹皮に。そう感じて庭に降りたのだ、と気づいたのはすでに梅に触れた後。
 梅は、温かかった。
「梅よ」
 驚いて、そしてなぜか樹皮に頬を寄せた。やはり、そこには確かなぬくもりがあった。樹木も持つものではない、そう、正に人の肌のような。
「もし、貴方」
 涼やかな声。梅が答えたかに思って雷公は嗤う。大方、屋敷で召し使う童子の一人であろう、と振り返った。無論、叱責するために。
「ようやくお目にかかることができました」
 ふうわりと、夜風に衣をなびかせて童子が笑う。蘇芳に白を重ねた、ほのかな温みのある色合いの童直衣。初冠前なのであろう、総角に結った髪が細い首筋に流れていた。
 その目も、声も、片時も忘れることはない。
「お主上……いや、そんな、馬鹿な……」
 歩いたとも見えず、童子はすぅっと雷公に近づいた。目の前に立っている、そう知ったとき雷公の足は動いていた。後ろに。下がり、下がり、そしてついに背中がぶつかる。梅の木に。
「貴方」
 帝の声で童子が呼ぶ。
「そんなわけは……」
 帝は今も都におわし、天が下を治めておられる。なにより帝はすでに大人となられ、このような姿のはずは。
「物の怪か」
 言った声が掠れた。このような怪異に出会うとは。雷公は背中にした梅の木に助けを求めるよう手を伸ばす。
 と――。
 するり、若い梅の枝が降りてきた。枝を折るほどの風は吹いていなかった。否、折れてなどいない。雷公に絡みつくように、枝が。
「な……っ」
 あり得ないことを目にしてうろたえる雷公を、目の前の童が笑った。喉の奥で押しつぶすような笑い。が、決して卑しくはない。
「梅に、助けをお求めになりますか」
「下がれ、物の怪」
「梅は、貴方の友でありましょう」
「然り。物の怪など……」
「それは、わたくしでありますよ」
「……な」
「わたくしは貴方のお嘆きを少しなりともお慰めしようと、まかり越した梅にございます」
「偽りを……」
「何故に偽りなど申しましょうか。こうして貴方を慕って都より参りましたわたくしでございますのに」
「なぜ……なぜ……そのような……畏れ多い……」
 雷公はまた下がった。もう下がるところなどない、と知りつつ。
「この態がお気に召しませぬか」
「当たり前ではないかッ」
 雷公は激した。まるで幼きころの帝のように、あの日の皇子のようによく笑う物の怪を前にして、惑乱せずにいられようものか。
 それも皇子の顔を持った、物の怪に。
「貴方が一方ならずお心を傾けておいでの方に似せて現れたつもりでございますが」
「似せて、だと」
「わたくしは梅花精にございます。人の形は持ちませぬゆえ」
「ならばさっさと顔を変えぬか」
「いいえ。できませぬ」
「なにを言うか」
「わたくしのこの形は、いわば貴方のお心が凝った物。貴方がお望みになったからこそ、わたくしはこの姿になりましてこざいます」
「いかん……いかん……そなたのことが明らかになれば、私は……」
「お心を煩わすことはありませぬ。貴方以外の目には見えませぬゆえ」
「なんと……」
 今はほんの目の前にいる梅花精の手が、そっと雷公の顔に伸ばされた。柔らかい、筆より重いものなど持ったことのない手が雷公に触れる。
「止せ……」
 震える声で手を押しのけた。
「止しませぬ」
 手は、思いのほかの強さで雷公の手を優しく払いのけ、その頬を包み込む。
 温かい、生身の人ではないとはとても思えないぬくもりだった。
「貴方」
 梅の色目の童直衣が風をはらんだ。梅花精の指が雷公の唇に触れる。
「止せ」
 梅花精は答えず。その唇が雷公のそれに触れ。
「よ……」
 振り切ることはできなかった。梅花精の唇から、清雅な香りがしていた。
 ――梅の香り。
 そう雷公が気づいたときには、手を引かれ歩いていた。ふと心づけばそこは帳台の中。
「貴方……」
 梅花精の方こそが魅惑されたかの、声。帳台に押し倒され、雷公は身動きすらかなわない。
「わたくしに、お任せくださりませ……」
 その香りのように甘く、そして気高い声が情欲に潤んでいる。背筋に冷たいものが走るのを雷公は覚えた。それは紛れもない欲情だった。
「梅よ……いかぬ、止せ……」
「いいえ。止しませぬ」
 梅花精の唇が雷公の首筋を這う。直衣の襟をいつはだけられたものか、気づきもしなかった。緩慢な動きで雷公は手を持ち上げ襟をかき合わせようと努めた。
「貴方」
 しかし、梅花精のその一言で手が止まる。己の意思に反して手が止まってしまうのだった。
 いや、止めたい、と思っていることこそ我が意思ではないのか。雷公の心は乱れた。乱れ乱れて止まらない。
 梅花精の唇が再び雷公に重なる。ぬたり、舌が這入り込んだ。
「く……」
 首を振った。否、そのつもりだけかもしれない。否否。自ら求めたかもしれない。
 梅花精の舌は甘かった。上等の甘葛の汁のように甘く、帝の衣のように良い香りがした。
 ぴちゃり、水気を含んだ音がした。互いをむさぼる音だった。
 気づいたとき、雷公は梅花精を組み敷き、衣を剥ぎ取っていた。梅花精の肌は白梅よりもなお白い。帝と同じ顔をした梅花精の総角の黒髪が、その白い肌に散っていた。
「ままよ……」
 呟いたとも知れぬ雷公のその一言に、梅花精が笑みをもらしたとはついに気づかず。
 そして一夜にして梅の花が一斉に咲き誇ったことにも、気づかず。




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