今は昔――。 ある上つ方がおいでになられた、と言う。貴いご身分、と言うわけでもなく、かと言って蔑まれる家格でもない。そのような家にお生まれになった。 御名を秘して雷公、と申し上げる。ご幼少よりその詩才は高く聞こえ時の帝のご寵愛も深かった。が、御譲位のことがあって以来、まだお若い帝は讒訴を信じられ雷公を遠い太宰に権帥としてお遣わしになられてしまったのであったそうな。 時は移り、太宰で迎える重陽も二度目を数えようとしていたのだった。 華麗な邸宅であった。都振りとはいささか異なれど、それでも人によればこの作りを愛でもするだろう。 男はそうではなかった。 階の下に植えられた菊だけを見ていた。ふっくらとした着せ綿がかけられている。 「重陽か……」 雷公は一人ごち、溜息をつく。大きな溜息であった。 「この期に及んで長命を望んだとて、なんになろうか」 その声を聞くのはただ菊ばかり。 雷公は背を返し、そして再び菊の元に戻ったときその手には美々しい衣が。 押頂いては香りを吸った。もう香りは薄れている。しかしそれでもなにか大切なものの名残でもあるかのように、雷公は求める。 大切なもの。確かにそうであった。 「去年の――」 ふいに目を上げ、庭先の菊を見るともなしに見ていた。その目が見ているのは、だがしかし菊ではなかった。いな、菊ではあった。が、去年の菊、あるいは一昨年のそれ。 去年の今夜 清涼に持す 秋思の詩篇 独り断腸 恩賜の御衣 今此に在り 捧げ持ちて毎日 余香を拝す 「そう詠ったのも早、去年……」 太宰に遣わされた年、雷公はそう詠んだのだった。 あれは都で過ごした最後の年、清涼殿で催された重陽の宴であった。 「お主上は私に秋思と言う題を下さったのだ」 雷公の目は遠く過去に飛ぶ。なんと華やかな宴であったことか。まだお若い帝の初々しいようなお姿。父帝の寵愛深かった臣に帝は目をかけられ 「雷公、詩を。秋思の題を与える」 そう仰せになったのだった。 美しい帝であられた。遊興を好まれた父帝は皇子を十三歳で元服させ、そしてその日のうちにご退位なさってしまった。 その父帝の信任厚かった雷公は思ったものだ。あのように幼い皇子が大人の形に改められるなど、むごいもの、と。 父帝に似て美しい皇子であった。はじめは春宮亮として、その後は春宮権大夫として皇子のそば近くお仕えしてきた雷公はあまりにも稚い皇子の髪を切り総角を大人の髪型に変え、衣服なども改めるとあっては、あるいは見劣りなどもあるやも知れぬ、と人知れず心を痛めていたものだった。 だがしかし、皇子は大人の形をしても美しかった。少年の、匂うような色こそなくなったものの、凛とした顔貌の、その美しさ。 「雷公」 呼ぶ声に何度はっとしたことか。 「あなたの詩はいつも、素晴らしいね」 あの重陽の宴でも雷公の詩をいたくお気に召され、その場でお召し物を脱いではお下しになったのだった。 その晴れがましさ、嬉しさよ。 焚き染められた香りに陶然とした。帝にふさわしい古雅な香り。しかしまだお若いこともあってか華やかでもあった。わずかにまだ温もりさえも残っているような、そんな気さえする。 「お主上……」 頬を摺り寄せた御衣にはもう温もりなど残っていようはずもなく。 「奸賊めが」 いまも帝のお側にいる輩を思えばぎりぎりと歯軋りがもれる。 「権力の亡者どもめ。お主上には指一本触れさせないわ、この私が生きてある限り、いいや、死んでなおお主上をお守りして……」 ふ、と雷公の言葉が途切れた。 空しくなったのだった。お守りする、など口では言いながらいま自分は遠く太宰の地にある。いかに発止と都を睨みつけようと、あの貴族どもはせせら笑って気にも留めまい。 「お主上……お主上……」 いつしか御衣を抱いたまま、雷公は嗚咽を漏らす。かすかに残る御衣の香り。ただそれだけを胸いっぱいに吸い込んでは泣くばかり。 「菊酒の用意が整いましてございます。ささ、召されませ」 背後からそう女房が声をかけたときもまだ、雷公は泣き伏すばかりであった。 いつしかその年も暮れようとしていた。相変わらず雷公の傍らにはあの御衣がある。撫でさすり、胸に抱き、そうして都となにより帝のことを思う。 夜の訪れた屋敷の中に人気は少ない。来客など好みはしなかったし、そもそも太宰の人々は雷公と親交を結ぶのを恐れてもいたから、訪問することなどなかったのだ。 そば近く使う女房も男たちも数は少ない。だから夜ともなればただしんとするばかり。屋敷の中を足音を殺して歩き回れば、きっとそこかしこで寝息が聞こえただろう。それほどまでに静かな屋敷だった。 雷公はじっと庭に目を注いでいた。やはり、庭ではない庭を見ている。思いが飛ぶのはただ都。 すでに冷え切った白湯をすすっては、空を見上げた。雷公は、酒が飲めなかった。常々それが悔しい、と思っている。あれは帝が仰ったことだったか、雷公は思う。 「あなたは詩を友にしているのに、酒も琴も苦手なのだね」 そう、お笑いになった。ただただ畏まるばかりであったのだけれど、正にそれこそは雷公が悔しく思っていることだったのだ。 雷公は白楽天を愛した。かの詩人こそ、すべての詩人の上に置くものとして、愛した。そして雷公こそ、この国における白楽天の再来、とまで言われた詩人であった。 そしてそれを自負してもいた。が、白楽天が友として愛した詩、酒、琴のうち、雷公が友とできたのはただ詩のみ。それがどれほど残念であったことか。 「いや……」 友と呼べるものがもう一たり。そう雷公はひとり微笑む。詩のように荘厳で、酒のように酔わせてくれ、琴のように涼やかな友。 「今もあの地にあって私を忘れずにいてくれるだろうか」 知らず呟いた。この、異国とも言える地に都より伴うことはできなかった。どれほどともに連れ来たい、と願ったことだろう。 夜風がふいに強くなる。都風に作ったがために、よりいっそう差異が際立ってしまった庭の木々を風がざわざわと揺らした。 「都から吹く風だろうか」 東の風。そうであったならば、友からの便りの一つでも伝えてはくれないだろうか。そんな幻めいたことまで、思う。 吹く風は、東からのものであっても友からの便りは届けてくれない。そして春はまだ遠い。 そして夜風が途絶え。 雷公は立ち尽くした。 「……おぉ」 なにもなかったはずの一角に、現れたのは一本の、木。 履物をとることもせず、庭に降りた。裸足の足に土が冷たい。霜が足の下、しゃりと鳴る。伸びやかに天を差す枝のその姿。触れた。幹の硬さ、ほのかな温もり。 手が、覚えている。 頬を寄せ、木を抱いた。まるでそこに懐かしい匂いがしはせぬものか、と願うように。なんの香りもなかった。いや、あった。生命の、匂いがする。 固く結んだ蕾の数々。ほのかな白さを滲ませて。気高く尊く、そしてこれからの未来がある、そうあたかも帝のように。 雷公は首を振る。何事になのかは自身、わからなかった。ただ、首を振った。樹皮がその頬を傷つけるのもかまわず、何度も、何度も。 「おぉ……おぉ……」 嘆きとも歓喜ともつかない声が雷公の口から漏れた。幹に爪を立て、掻き毟れば指先から血が滲む。 ぽたり。一滴の血が土に落ち。すぅ、と消えた。 木が、雷公の血を、飲んだ。 いま、ふっと白い蕾に色が差しはしまいか。その硬い樹皮から甘い匂いが漂っては来なかったか。天に差し伸べた枝々が、つと雷公に寄り添いはしなかったか。 目の惑いだったのかもしれない。突然、顔を出した月の明かりのせいだったのかもしれない。 木は、白々とした月の明かりに照らされて、艶かしくそこに立っていた。 「友よ……」 |