おののく手で瓶子を持った。反対の手に持った杯に、注ぐ。零れた。濡れた手を厭うこともなく雷公は杯をあおる。 「ぐ……」 慣れぬ酒に咳き込んだ。 再び注ぐ。あおる。今度は飲めた。胸がかっと火照る。 それでようやく息をつくことができた。忌々しげに庭に目を向ければ。 「なんと……」 雷公の声が怯えていた。取り落とした杯から、まだ残っていた酒が零れて衣を濡らす。 「お主上……」 助けて欲しかった。こんな恐ろしい所には瞬時たりともいたくなかった。 雷公は目にしたのだ。昨夜まで硬くつぼんでいたはずの梅が爛漫と咲き誇っているのを。白い花が霞とばかりに花開き、枝々を飾っている。一時に春になったかのような温かい光が梅花を煌かせこの世のものとは思えない。 甘い香りがした。梅ではない。古雅で華やかな、香り。 「おぉ……おぉ……」 這いずるように帳台から手を伸ばす。その手に取ったは、帝の御衣。顔を押し付けた。 「お主上、お主上……」 誓ってそのような思いなど抱いてはいませなんだ。 口にしようとした言葉は喉から出ることはなく。ただ激しい息遣いだけがその口から漏れる。 それは雷公の深い心の内が思いとどまらせたのかもしれない。慕い奉る反面、憎み申し上げてもいはしなかったか。あのようなものの讒言をお聞き入れになって幼き頃より仕え奉った我が身を流罪同様の地に流すとは、と。 雷公は息苦しさを感じて深く呼吸する。ぜいぜいと喉が鳴った。ふいに笑う。 「あるいは」 死期が近いのやも知れぬ。一人漏らした言葉は、自嘲。いっそそれも良い。もう都には戻れまい。戻ったとてなんになる。 「お主上のご尊顔を拝し奉ることなどできようか」 この腕に梅花精を抱いた。物の怪と知って抱いた。帝と同じ顔だから、抱いた。愛しいから、憎いから。 いまこそ、自ら雷公は認めた。うつ伏せたその顔に帝の御衣がふうわりと香る。 甘い香りがした。御衣ではない。古雅で華やかな、香り。 「貴方」 梅花精がそこに、いた。 「来たか」 顔を上げた雷公の目に映るは梅の色目の童直衣。夜風に揺れていた。 いつの間に日が暮れたものか、あたりは暗い。それなのになぜか蔀も御簾も上がったまま。女房どもの影もない。 「人の世ではございませんよ」 雷公の問いを察したかのように梅花精が言う。 「では……」 「幽明の境にございますれば」 「現は夢、夢は現――」 「はい」 ひそやかに梅花精が、笑う。 その手が上がり、雷公が見る前で総角を解いた。今の今まで結っていたとは思えない癖のない髪が背中に流れて雷公を誘う。 「貴方」 淡い紅梅色をした唇がそっと呟く。差し伸べられた手を、雷公は取った。 柔らかく、温かい手であった。いつのころかすでに思い出すこともできない遠い昔、あるいは夢のうちに取った帝の手――。 「梅よ」 押し倒した。手を触れた、とも思えぬうちに衣が解ける。白梅色をした、肌。 「お好きなようにお呼びください、貴方」 組み敷かれた梅花精がかそけき声で耳元に言う。その手が雷公の首筋をそっと撫で上げ、耳たぶを触れるか触れぬか、愛撫する。 「いや……」 梅花精の手にいざなわれたように雷公はその唇に己がそれで触れ。 温かい、唇であった。物の怪のものとは、とても。 「愛しい方の名で、呼んではくださいませんのか」 唇を離せば、梅花精が非難する。笑いを含んだ声で。雷公が答えるより先に、もう一度梅花精は唇を寄せ、小さく唇を開いてみせる。 赤い、舌がのぞいていた。 吸い寄せられるよう、雷公はそれを吸った。そこはかとなく、梅の香りがする。古雅で華やか――。焚き染めた香の。 「お主上……」 知らず、雷公は呼んだ。呼んで梅花精をきつく抱いた。 「はい」 その体をまた梅花精も抱き返す。 どちらが先にすべてを脱いだのか。気づけば肌と肌が触れ合っている。 「温かいな」 「生きていますがゆえに」 「そうか」 「ええ」 そして二人、ひっそり笑い合う。 梅花精の首筋に雷公の唇が触れる。くすぐったそうに、笑った。舐めた。身をよじった。 「貴方……」 仕返しとばかりに梅花精は雷公の方を甘噛みし、かの人に悲鳴をあげさせる。 「お主上、お主上……」 肌に手を、滑らせた。上等な練り絹よりまだすべらかな肌だった。梅の花びらを、人肌に温めたならばかようにもなろうか。 胸の辺りに唇をさまよわせれば、頭上で溜息の気配。舌でつぶせば嬌声が上がった。 「あぁ……」 片手で、梅花精の物を握った。 「は……」 背をのけぞらせて唇を、噛む。雷公の腕から逃れるよう、ずり上がっては体をひねる。 「お主上」 その足を捕らえ、雷公は大きく広げた。 「あ」 羞恥に染め上げられたかの、声。広げられた足にわずかに力がこめられて閉じようとするのを許さず、その内腿に頬を当てた。 「ん……」 滑らかな内腿に軽く歯を立てれば上がる声。一度として陽のあたったことなどない場所に舌を這わせれば声もなくおののいた。 ぴちゃり、水音を立てた。わざと。雷公らしくもなくことさら下卑に。 「あぁ」 その音に応えるかに梅花精の背が弓なりに反る。 「ここが、よろしいのですかな」 獣欲にまみれた雷公の声が問う。ねっとりと、舌で内腿を舐め上げつつ。 「……もっと」 恨めしげな目をして梅花精は雷公を見た。唇がわなないている。 「もっと、なんでしょうな」 つ――。先走りの滴った梅花精の物に唇を寄せ、言った。 「あ……」 内腿が震えた。 雷公がそこに息を吹きかけている。押さえ込まれた足は動きもならず、ただ両の腕で雷公を抱きしめる。 その手が雷公の頭にかかる。強く引き寄せた。自分の物に。 「いけませぬな」 梅花精の手を取り、雷公は笑う。指を口に咥えてしゃぶった。 「あぁ……してくださりませ」 「なにを、でしょう。きちんと仰らねば」 いたしませんよ。続けて再び雷公は笑う。じれったげに梅花精は身をよじり我が身を擦り付けようとするも巧みに逃げられては果たせない。 「口で、したくださいませ」 「なにをですかなぁ」 「あ。あ……」 問い答えるうちにも雷公は梅花精の物を弄い続けている。わずかに触れるだけ。かすかな息を吹きかけるだけ。 堪らなげな梅花精の喘ぎが高まっていく。 「舐めて……くださいませ」 絶え絶えの声。雷公の肩をつかんだ指の下から血が滲んでいた。 「舐めるだけでよろしいのか」 掠れ声で雷公が問うた。指先でくるり、先走りを先端に擦り付ける。梅花精の背が跳ね上がり、声もない。 「吸うて。吸うて……」 此度は答えはなく。梅花精の喉からくぐもった声が漏れ聞こえる。悦楽がこらえきれぬのか、浮いた腰が揺れ動いた。 「あ……あ……」 淫靡な音が腰の辺りで響いている。雷公が梅花精の物を口にしていた。先端を唇で挟み、また喉の奥まで導く。 そのたびに梅花精の嬌声が上がった。 「お主上、なんとはしたない……」 嗤い声。荒い息をつき、雷公は言う。もう、どこの肌に触れてもそれだけで梅花精は声を上げた。気づけばあたり一面、強い梅の香。 唇に指を添えれば、自ら飲み込む。舌を出して絡みつけては雷公の指を濡らした。 「よろしいでしょう」 唇ら指を引けば名残惜しげな目がそれを追う。うっとりと期待するような目。半開きの唇が唾液に生々しく濡れていた。 雷公はごくり、唾を飲み込む。そして濡れた指を梅花精の後ろにてがった。 「はぁ……」 溜息とも喘ぎともつかぬ声。触れただけでそのような声。 雷公のがぎらり、輝く。埋めたならば、どんな声をと。 「はよう、はよう……して」 じれったげに梅花精がねだった。腰を揺らして雷公を誘う。 ちろり。乾いた唇を舐めて雷公は指に力を入れる。 「ん……あ、あ」 解きほどかれた黒髪を振り乱して声にならない声を上げ、梅花精は身悶えた。 つぷり、奥まで埋まる。肉の中、雷公は指を蠢かせればそのたびに梅花精がたまらぬげな声を。 「おぉ、なんと熱い」 梅花精にのしかかり、指を使いながら雷公が囁く。梅花精はその言葉に頬を染め顔を背けた。 「きつう、締め付けてくることよ」 言葉で嬲れば、そのたびに梅花精の中がうねり雷公の指を咥え込む。 「あぁ……いや……」 顔を背けたまま唇を噛む梅花精を、残る片手でこちらを向かせて、その口を吸った。 嫌がる素振りをしていたにもかかわらず、いつしかどちらからともなく舌を絡めあわせ。 「なんといやらしい……お主上……」 「いや……いや……」 「なんの、お嫌なことがあるものか。ほれ……」 乱暴に指を半ば抜いた。 「お主上、喰いついてございますよ」 耳元で、囁いた。 「そんなことを。あ……」 悩ましげな目をして雷公を睨む。その目がしっとりと濡れていた。 「指なんぞでは、さぞかし物足りないことでございましょうなぁ」 ぬたり、嗤って雷公はゆっくりと残りの指を引き出す。梅花精の息が荒くなった。自ら両の足を高く掲げて広げ。 「ここに……はよう」 雷公を誘いこむ。 声もなく襲い掛かった。一気に埋めた。頭上で上がった悲鳴など、もう雷公の耳には聞こえてもいない。 「あ……あう……」 腰を叩きつければ悲鳴とも嬌声ともつかぬ声がどこかで聞こえる。 「あぁ……貴方」 背中に絡みついた梅花精の腕が強く雷公を抱いた。 「お主上……」 答えて雷公もまたかの体を抱きしめる。そのまま抱き上げた。膝の上、抱え上げれば梅花精の腕は首に絡み、自ら腰を振る。 「あ。あ、あ……」 己の物を雷公の腹にこすりつけ、梅花精はのけぞった。その背を雷公の腕が支えた。 「もう、もう……」 唇がわなないては訴える。雷公は答えず、ただ深く腰を打ちつけた。 「あぁ……っ」 梅花精の動きが止まる。その中の肉だけが一段と強く蠢く。 「お主上……っ」 骨が砕けんばかりに雷公は梅花精の体を抱きしめていた。 ふと心づけば無明の闇。目を開けどもなにも見えず。ぽつり、明かりが灯る。白梅の花――。雷公はそれを頼りに辺りを見回せば、己が身の変化に気づく。まるで参内するかのように衣冠束帯、手には笏。顔を上げたならばそこに。 「お主上……」 口元に笑みを含んだ梅花精。纏った袍は不思議と無紋の黄櫨染。つい、と動いたとも見えず梅花精が進む。あれに見ゆるは都の白梅。陰にまわって隠れて消えて、再び現れたその袍には見事、花盛りの――梅。 知らず進んだ。梅花精の、否、帝の元へ。 「お主上」 抱きしめた。と、膝が崩れ。 「貴方」 抱きとめられた。いまだ幼いままの姿ながら、人ならざるものよ、雷公を片手で受け止めて見せる。驚き呆れて見上げれば、うっすらと口元に笑みが残る。 「私は」 雷公は言葉を切る。帝の、否、梅花精の笑みを見て悟った。悟った上には言葉にすることもない。 「はい」 果敢ないものを浮かべたまま、問われなかった言葉に梅花精は答える。抱きとめ、抱きしめる腕に力がこもる。いつの間にか両の腕に抱かれていた。 「いついつまでも、お側にありますれば」 柔らかい頬が、雷公の衰えた頬に添えられている。瑞々しい梅花精のそれがしっとりと濡れていた。 「泣いているのか、梅よ……」 静かに腕を回した。この上なく静謐な気持ちだった。また、闇が訪れる。すぅと暗くなっていく庭が、かくも愛しいものとは思いもせなんだものを。 「夜露にございますよ。梅でございますもの――」 掠れた囁き声を聞くものはおらず。 夜明け、主人が帳台にいないことに気づいた屋敷の者たちが騒ぎ出す。女房の泣き声があたりにこだましはじめた。 雷公は、庭にいた。梅の木に抱かれるように独り。その骸の上にはただ深々と白い花びらが散りかかっていた。 後に都で怪異があった。雷公の祟りと人は言う。神に祀り上げては鎮めたのだ、と言う。そして都の梅もまた、ともに。件の祟りがあの程度で済んだ理由を知る人はいない。知るはただ、二本の梅の木ばかり。なぜさように言うかは知らず。 ――そう、語り伝えられていると言う。 |