荒れ屋とさして変わりのない家の中、光信はじっと座っていた。薄暗がりの中、目ばかりがぎょろりと光る。
「あと一晩……あと一晩……」
 この夜を過ぎれば、あの陰陽師が来てくれる。もう二度とかの稚児にまみえることはない。
 ぎゅっと唇を噛みしめた。今夜一晩。思いはしても夜は始まったばかり。外に目を向ければ黄昏の最後の光が消えていくところだった。
「なぜ」
 昨夜も一昨日の晩も、稚児は来た。
 ほとほとと、戸を叩く音。かの者を知り染めたばかりの頃はあの音を心待ちにしていたものだった。それさえいまは忌まわしい。
 消えていく、名残の光を光信は食い入るよう見つめ続けた。あれがこのまま留まってくれさえすれば、魔性も近寄れまいに。
 考えても仕方ないことを光信は弄ぶ。日はまた昇る。けれどその前に必ず落ちるのだ。そしてやってくる夜の闇。
 異形に物の怪、魔性の類が跋扈する、都の深い闇が。光信は聞く。何某は女の元に通う途中、百鬼夜行に出会ってしまった。瘴気にあてられ瀕死だと。あるいは。ぼんやりとたたずむ橋の上の女。手招きをし、近寄ってみればすでにいない。そして向こう岸に渡り終えたときには端のこちら側に戻っている、など。
 都の闇は重たく身にまとわりつく。人の怨念が凝り固まった闇だった。光信は己にはかかわりのないこと、ずっとそう思ってきたのだ。人の怨念など、我が身にはなんのかかわりもない。怨念を浴びるほど高位でもない。あくどくもない、とそう。
 それが間違っていたのを知ったのはあの冬の日。夜ですらなかったものを。ひくひくと光信の唇が動く。笑いだった。
 その笑みがわずかの間に凝固する。荒れ屋の前に何者かが立った気配。わかりたくなどない。けれどよく知った、者。
「光信殿」
 稚児だった。紛うことはありえないかの者の声。すがるよう見れば外は疾うに深い闇。
 柔らかな声が彼を呼ぶ。と、何かに気づいたのだろう、音が止まった。
「あれ、ここに……」
 光信の目にはまざまざと見えるようだった。稚児が外で首をかしげる仕種までもが。
「光信殿。露が参りました」
 まるで疑いたくなどないのだとでも言うような声。はっとして光信は座を立ちそうになった。きつく拳を膝の上、握り締めては陀羅尼を唱える。
「光信殿……。露にございます」
 哀願色を帯びた声。再び戸を叩いた。光信はいっそう声高く陀羅尼を唱えるばかり。
「光信殿、開けてくださりませ」
 やはり、入ることはできないのだ。ほっと安堵した。そして信じがたいことに気が咎めた。そのような己を鼓舞し、光信は下を向く。鼓舞したのにもかかわらず、顔を伏せた理由などわからないままに。
 ざらり。足音がした。さては諦めてくれるのか。いや、違う。光信は思い直す。
 一昨日の晩もそうだった。答えがない、戸は開かない。それを知るやかの者は、露君と光信が呼んだ稚児は家の周りを回るのだ。
「あれここにも……」
 ほとり。窓が叩かれる。
「ここにも……」
 別の窓が。
「あなや。札のありつるよ」
 ぎちり。力押しにしようと言うのか。窓と言わずと戸言わず、内側にたわみだす。
 光信はがたがたと震えていた。陀羅尼を唱える声など疾うにない。ただ、うつ伏せになって震えるだけだった。
「口惜しや……」
 外で硬い音がする。歯が、鳴っている。ぎちぎちと、露が歯を噛み鳴らしている。
「すまぬ、露君……どうか。どうぞ」
 己が何を言っているのかわからない。詫びてるとも思えない。いまはこの場を逃れたいだけ。
「光信殿。恨みまするぞ」
 耳に届くは怨嗟の響き。まるで地の底から這うよう光信の耳に達するや夜に溶けいる。
「露君、露君……」
「光信殿、そこにおいでか。おいでだな」
「おらぬ、おらぬ……ッ」
「おいでじゃ。よかった。露じゃ、開けておくれ、光信殿」
 怨嗟は、甘美に変わった。何度となく聞いた甘い声。華美な程に飾り立てた帳台こそ相応しい露に似つかわしくもない、畳一枚ない屋敷。くたびれて、ほころびの目立つ几帳ひとつ、それのみが二人の寝床だった夜々。
「光信殿……」
 いま戸を開けさえすれば、また帰ってくる。ぬめるような露の肌も、とろけるようなその声も己が手に戻ってくる。
「いやだ……、恐ろしい……」
 震えさえ、止まってしまった。力なく。光信は伏したまま首を振る。手のみがきつく、握り締められていた。
「光信殿。開けてくださりませ。露じゃ、光信殿の露じゃ」
「ひぃ」
 小さく悲鳴を漏らした。頭を抱えのた打ち回る。誰があのような魔性の者を。このことが過ぎたならば、きっと髪を落として僧になる。
「口惜しや、光信殿。ここにも札のありつるよ……」
 ほとり、まだ露は戸を叩いている。夜明けにはほど遠い。
「露君、どうか、どうか」
「光信殿」
「そなたの菩提を弔おう。もしもそなたが人の身であったのならば」
「光信殿」
「きっと僧になろうぞ。そなたの菩提を弔って生きていこうぞ」
「開けてくださりませ、露じゃ」
 その言葉にぞっとした。聞いてなどいない。はじめから、わかっていたのかもしれない。ただ、我が身に得心をさせたいだけ。そうすれば、心が痛まぬとでも言うように。
「心が……」
 愕然と顔を上げた。涙と汗でぼろぼろだった。
「光信殿」
 声が遠くなる。けれどまだそこにいる。光信は惑った。
「痛まぬ。心など」
 きつく言ってみた。どこかが忸怩とした。
「光信殿……」
 何度も、何度も己を呼ぶ声。わななく唇から早、陀羅尼が消え失せてだいぶ立つ。光信は気づきもしなかった。
「哀しや」
 ぽつり、呟かれた言葉。いまそこに、夜の只中に一人の稚児が立ち尽くしている。愛しい男に会いに来たと、開けてくれない不実な男を恨むでもなく哀しんで立っている。
「露君……、露……」
 腰が浮いた。はっとして座りなおす。握った拳で己が頭を己で殴りつけ、光信は目を閉じる。
「露は、ここじゃ」
 はらり、涙の滴る音さえも聞こえるよう。握り締めた光信の拳に血が滲んだ。
「露はここにおるに……」
 いっそ不実を責めてくれたならば。魔性の者とて心はあろう。心変わりを詰ってくれば。
「馬鹿な……」
 震える唇が紡ぎだす。心変わりなどしてはいない。はじめからかの者を愛しく思ったことなど。
 否。愛しかった。
「露」
 招き入れたそのときにほころんだ正に花のかんばせ。牡丹の精にも光信には見え。
 あれを愛しく思わなかった日々が、夜々があったものか。一日たりとて忘れはしなかったものを。
「牡丹の精ならば、よかった」
 花の精ならば季節と共に消えもしよう。花の巡りと共に出会いもしよう。しかし露は魔性の者。夜毎に訪れては光信に抱かれていく。恐ろしかった。
「なにが……」
 我が身に問うた。いったい露のなにが恐ろしいと。
「恐ろしい」
 理由などない。生身の人がかかわるべきではない者に関わってしまった。ただただそれが恐ろしい。
「光信殿、会いたい……」
「いやだ」
「光信殿」
「帰れ、帰ってくれ」
「なぜじゃ、露が何をした。光信殿……」
 何をしたのだろう。露は何もしなかった。取り殺しはしなかった。少なくとも、今日までは。露はただ毎夜、会いに来た。
「光信殿が愛しいに、なぜ」
 愛しい男に会いに来た。それだけ。魔性の者でも人を愛することがあるのだろうか。不意にわきあがった疑問に光信は強く頭を振る。
「信じぬ」
 声は意外なほど高らかに響く。戸の向こう、露がはらはらと泣いていた。
「光信殿が好きじゃ、どうしたら信じてくれる。露が何をした、光信殿。なぜ開けてくれぬ、露は……」
「露は魔性だ」
「だからなんだ。魔性じゃ、露は。それでも光信殿が好きじゃ」
 泣きながら、戸を叩いている。何度も何度も名を呼んで、露が戸を叩いている。
「露……」
「開けておくれ。光信殿。露はどうしたらいい」
「開けぬ……」
「なぜ」
 どうしてだろうか。なぜ、露を忌み嫌うのだろうか。露は何もしていない。悪いことなど何も。夜訪うことなど当たり前。
「やはり、怖いのだ。露」
 人である光信は言う。
「なにが怖いと。露は何もしていない」
 魔性である稚児は言う。
「我が身は人だ。露とは……違う」
 だからなんだと思った。人と人さえわかりあうことなど稀。ならば人と魔性がわかりあった稀有を捨ててなんとする。
「露を魔性と決めたは人よ。露は、露じゃ」
 ぐらり、光信の世界は揺らいだ。
 彼は、彼。耳の中でこだまするは竜胆の君の声。鬼を知っていたように思うと言ったかの君の言葉がいまさらながらに染みとおる。
「露は光信殿が好きじゃ」
 稚児は稚児、違うか。涼やかな声が光信の心に届いた。
「光信殿は、露が嫌いか」
 頼りない問いかけの言葉。魔性の者であろうとも、その声は不安に震え。光信は目を閉じる。再び開けたとき、目に宿るは決然とした色。
「好きだ」
 その手には破り捨てた札が。突風と共に戸が開く。そして目の前には涙の後も痛々しい露が、笑みを湛えて立っていた。




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