「露」
「光信殿」
 互いに呼んだ。どちらからともなくかき抱く。露は涙をこすりつけるよう光信の胸に頬を埋めた。
「すまなんだ、露」
 小さな稚児の体。抱きしめてみればやはり、冷たい。氷のようではなく、ただ人の身にあるはずの温みがない。
 それが以前は恐ろしかったものだ。光信は苦く笑った。なぜあれほどまでに恐れたのか。
「ほんに。光信殿は酷い」
 ようやくに、だろうか。露が彼を詰る声。それは殊の外甘く響いた。
「すまぬ」
 詫びているのか、それとも露に甘えているのか光信にはわからない。ゆるりと頬に頬を合わせれば、己のぬくもりが露に移るような気がした。
「光信殿は、露が怖いか」
「もう、恐ろしゅうはない」
「嘘を」
 喉の奥で露が笑う。嘘ではない。言いかけて信実だと知った。そっと視線を己が手にやれば細かく震えていた。
「光信殿の恐れも無理からぬこと」
「なにを」
「露は光信殿が好きじゃ。でも光信殿は人じゃ」
 見上げてくる露の目は、まだ涙に濡れている。不意にあの日の牡丹を思い出す。雪に散った真紅の花びら。
「露は牡丹の精であったか」
 ぽつりと漏らした言葉に露が朗らかとも言うべき明るい声を立て。それは妙に場違いで、けれど光信の心を満たしていく。
「胡乱なことを言う方じゃ。露は牡丹の精などではないよ」
「違ったか」
「うん、違う」
 細められた目に湛えられた柔らかい光。軽く開いた唇に己のそれを合わせれば、やはり牡丹の花のよう。
「露は魔性じゃ。光信殿が恐ろしゅう思うても……」
「恐ろしゅうなどない」
「光信殿」
「なんだ」
「露と過ごせば、死ぬるよ」
 いまさらだと思った。だから光信は笑った。そのままもう一度唇を吸う。漏れでた吐息までをも逃さず捉え、光信は露の目の中を覗き込む。
「気づいておったよ」
 はっと露の目が大きくなった。見る見るうちにそれは潤んでいく。
「それでも露がよい」
 頬に伝った涙を吸い、光信は力の限りに露を抱く。抱き返してきた力は己のように強かった。
 柔らかな露の着物を脱がしていく。これが限りかと思えば心残りがするというもの。だからもう何も考えない。
「光信殿」
 うわ言のよう呼ぶ声に、何度も答えてくちづける。温みのない露の肌が燈台ひとつの薄暗がりに浮かび上がっては白い。
「露」
 魔性と言った。真と思う。しかし光信の中の露は、あの日の牡丹だった。雪に凍えて冷え切った赤い花。それに冷たくなってしまった露の肌ならば己の肌で温めよう。
 浅黒い肌が白いそれに重なる。わずかに怯んだ、冷たさに。
「光信殿」
「すまぬ」
「冷たいであろ」
「すぐに温かくなる」
「嘘」
 少し、笑った。そのような顔など見たくなくて光信はくちづける。すぐ目の前にある露の目の中、己が映っているかと思えば心が弾む。
「嘘か」
「嘘じゃ」
「そうか。ならば、露と同じになろうぞ」
「死ぬるか、光信殿」
「おう、取り殺せ」
 露の目の中に映った己は、まるで希望にあふれていた若者の頃のよう。精悍に引き締まり、猛々しいほどの自信に満ちていた頃。そのことに光信は仄かな満足を覚える。
「嬉しや、光信殿」
 莞爾とした露の細い腕が首に絡まる。かつり、光信の耳許で歯が鳴った。
「喰うか」
「まだ喰わぬ」
 遊びのごとき笑い声。光信はもう惑わない。この稚児が何者であろうとも、露は露。愛しく思ったただ一人。
 肌に唇を寄せればとろけた声が露の唇から漏れた。花に無体をするようで気が咎める。わずかに思いはしたものの光信は知らず露の肌を噛んでいた。
「ん……」
 痛いか。聞きかけた。けれど聞こえた声は甘かった。いたずらにもう一度。
「は……」
「露」
「光信殿に、喰われてしまう」
 染まった頬に光信は見惚れた。人となにが違うものか。
 指を滑らせた肌は冷たかったけれど。歯形のついた体は血を滲ませはしなかったけれど。
 絡みついてくる腕も目も、露のすべてが愛おしい。死んでなんの悔いがあろうものか。いや、露と同じものになるのだ。光信は思い直す。ならばそれ以上によいことがあろうか。
「露」
 潤んだ視線が光信を捉える。それに笑みを返し光信は体をずらした。わずかに息を飲む気配。
 冷たい肌に唇を落としていけば頭上に聞こえる露の吐息。膝押し開くそのときのかすかな抵抗さえ光信をあおった。あおり、あおられ。
「光信殿」
 呼び声が熱をはらんだ。光信は答えず。
「あ……」
 よじった体を押さえつければ露の肌が汗に滑る。光信の汗に。露の体はいまだ冷たい。温まることなど知らぬげに。
 開いた膝の間に体を押し込め光信が露を含めば抗うよう露の体は弓なりに。
「だめじゃ、光信殿……」
 言いつつ露は光信の頭を押さえ込む。深く唇に含んだ物を吸い上げれば聞こえる嬌声。舌を使いつつ光信は露の唇に指を伸ばした。
「ん……」
 戸惑うよう、恥らうよう露がそれを含んではたっぷりと濡らしていく。それから先を知っているからこその羞恥と媚態。
「露」
 光信は荒く息をつき指を抜き去っては露の下肢へとそれを伸ばした。
「はやく」
 とろりとろけた露の声。言われるまでもないことと光信は笑みを浮かべて露の後ろへと指を這わせた。
 途端に露の体が跳ね上がる。伸びてきた腕に光信は絡め取られ唇を奪われた。埋めた指は痺れるように冷たかった。重ねた唇も冷え切った。
「それでも露が好きだ」
 答えず露は微笑んだ。それでいいとばかり光信もまた笑みを返す。ゆっくりと指を動かした。魔性の者も傷を負うことがあるのだろうか。光信は浮かんだ疑問を振り飛ばし、ただ露を露としていとおしむ。
「光信殿、はよう……」
 耐え切れぬげに漏らした言葉。光信が露の耳許でかすかな笑い声を立てれば、いたずら半分首筋に歯が立てられる。
「痛いか、光信殿」
「痛とうはない」
「本当か」
「あぁ、本当じゃ」
 甘く笑った露の顔。光信はわざと指を蠢かせ、目前でそれが歪むのを楽しんだ。
「ん、あ……」
 首を振る露の中から指を抜けばほっと息をつく。再び息を吸う間も与えず光信は露を貫く。仰け反った体は声もない。ただひたすらに光信の体にしがみつくだけ。
「露……」
 軋んだ声が己がものとは思えなかった。
「光信殿」
 掠れた声は露のものとも思えない。情欲に軋み、何より愛しい者を腕に抱く歓喜に掠れ。今このときに天が落ちようとも悔いはなし。光信は芯から冷えていく体に鞭を打ち、露の体に己を刻む。
「光信殿……」
 このときになって露の目が懸念に揺らいだ。
「言うな、露」
「けれど」
 そっと押し返してきた露の腕のその強さ。人の身ではありえない力に光信は苦笑する。そのまま抗って露を抱いた。
「光信殿」
 よじる体に己を突き立て光信は体を揺らす。答えない光信にじれたよう、露が唇を噛んだ。
「光信殿が死んでしまう」
 わななく唇にはっとして、光信は露を見つめた。それから笑み崩れていく。
「取り殺せと言うているだろうに」
 ぐっと腰を引き、打ち込んだ。もう、体の感覚はなかった。快楽などどこにもない。あるのは心の奥底からあふれてくる幸福。それで充分だった。
「嬉しや」
 切なげに声を掠らせ露は微笑った。目許から流れ落ちる一筋の涙。光信は唇でそれを拭い、やはり露は牡丹の精であったと思う。露の涙は、牡丹の花に積もった雪の一片が、溶けて流れたようだった。
「露……」
 重ねた唇に、体に。光信のすべてに露が染み入る。露にも同じく。光信の目が最期に捉えたのは、幸福そうな露の笑顔だった。



 日が落ちて後のこと。人目を忍ぶのだろう。女車に仕立てた牛車から、二人の男が降り立った。
「ここで」
 待て、と言う陰陽師に竜胆の君は黙って首を振る。それ以上、止め立てすることはなく陰陽師は荒れ屋の戸に手をかけた。
 するり、開いた。無念だろうか、諦念だろうか。瑞治は無言で目を閉じる。戸に貼ったはずの札は破られていた。
「無駄だったな……」
 内側から破られたものと知り、瑞治は呟く。やはり光信は己で魔性を招いてしまったか、と。
「瑞治」
 背中越し、覗き込んだ君がそっと指差した先にいたものは。
 事切れた光信の体だった。ゆるりと腕に抱くは牡丹の花。深紅の花は光信に抱かれ瑞々しく禍々しく。黙ってたたずむ二人の前で花は風に溶け入るかに薄れていった。光信を残して。
「行くか」
 やはり後を見届けるだけになってしまった。わずかな後悔が口の中を苦くする。背を返した瑞治に続き、かの君もまた牛車に戻る。
 憔悴した男を慰める術などなかった。鬼の末裔、そう呼ばれる男の心根の優しさを知るものは一人きり。
「いずれの世にか、また出会うこともあろうよ。きっと」
 呟き声に瑞治が目を上げ。薄闇の中、かすかに竜胆の君が笑った気がした。ゆるり、夜気に笛の音が溶け出した。
 ――そのようなことがあったのだ、と語り伝えられている、と言う。




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