二人は赤らんだ光信など見てもいなかった。それを良いことに光信は滴った酒をもったいないとばかりに全部舐めてしまう。上等な酒だった。口にしたことがないほどとは言わないまでも、相当に。
「ついと道を外れると、まだ朝日が射さぬ小路でした」
 どこかは今となっては知れぬ。まるで夜明け前に戻ったかのように暗かった、光信は語る。思い出してもぞっとするのだろう。否、思い出したからこそ、かも知れない。淡く血の色が差していた頬はまたも青ざめている。
「おそらくは、五条辺りだったでしょうか。あの辺りとはとても思えぬげな、築地塀などきちんと整えた屋敷でした」
「五条辺り……」
「はい、きっと。確かではござりませぬが」
 都も、五条辺りでは寂れている。これが六条まで行けば反って都はずれはよいものとばかり高位の貴族の別邸があったりもするのだが、五条あたりでは庶民の貧しい家々が立ち並ぶのみ。瑞治が首をかしげたのも無理はなかった。
 いや、ないわけではない。そう瑞治は思いなおす。以前、かの君と知り合うきっかけとなった出来事の際、竜胆の君の裁量する荒れ屋敷に赴いた。あれは確か五条の外れ。
「むしろ六条にこそ近いがの」
 瑞治の思いを読み取ったよう、君は口を挟む。それに苦笑し、瑞治はもしかしたら己の思いが外れて欲しいと願っているのかもしれないことを知った。
「その整った築地に沿って歩いたのでございます」
 そんな二人のやり取りにはまるで気づかず、光信は浮かれたかに話す。
 まるで今が冬に戻ってしまったよう、汗が浮いていた額は血の気も失せ青ざめている。
 その光信の姿に思わず二人はぞっとする。いや、背筋を冷やしたのは竜胆の君一人。瑞治は心の内、彼が何者かに取り付かれているとの思いを強くしていた。
 外れて欲しいと祈ることばかり、やはり当たる。自嘲の気配を知ったのだろうか、かの君の手が軽く瑞治の袖に触れた。
 詫びるよう、握り返した手のぬくもり。温かなものを遮ったのは、光信の低く呟くかの声だった。
「ふと気づけば一箇所、崩れていたのでございますよ……」
 それがまるでないことだとは言えない。けれど光信の言葉から二人は思いを巡らせる。
 それはこのようなものだったのだろう。どこまでも美々しく設えられた築地塀。まるで二条辺りの高貴な方の屋敷のよう。手で触れてみればひんやりと冷たいだろう。
 それが不意に一角、崩れている。誘うよう、魔性の者の住処のように。
「思わず覗きました」
 ぞっとするような笑いを、光信は刻んでいた。恐ろしすぎて、心の平衡が傾いてしまったかのごとくに。
「積もった雪もそのままに……優雅なお屋敷とはあのような所を言うのだと」
「それで」
「牡丹がね、咲いておりましたよ。真っ赤な牡丹の花びらが雪に落ちて、それは綺麗でした……」
 ぽとり、ぽとりと血のように。雪の上、撒き散らされたそれは禍々しくも美しい。
「稚児がおりました、愛らしい、いや、美しい稚児が」
 それは牡丹の精が凝ったかに見え。雪に落ちた赤い花から、立ち上る稚児の姿。あまりに美しすぎて、異形のよう。
 両手を見つめていた。それからぎゅっと握り締め、光信は目を上げる。
「そなたは誰」
 そう稚児は光信に尋ねたのだという。玲瓏玉を転がすごとき、そのような言葉の相応しい声であったという。
「この世のものとは思えない、ひと時にございました」
 その間なにがあったのか光信は語らない。けれど二人にはわかる。あえて語るようなことでもあるまいとも思う。
「稚児は別れて我が家に帰り、みすぼらしさに涙さえ出そうになりました」
 苦い口調。瑞治にはわかる気がする。豪華な屋敷も暖かい衣装も知らない子供だった。陰陽師の例を破って殿上の間に列するようになったのは、ほんの先年。
 生まれながらに高貴であった竜胆の君が知らないことを、瑞治は知っていた。けれど光信に向かってわかる、とは言えない。同情など、敵意に等しい。
 そのようなことを思っていた瑞治の耳に飛び込んできた言葉。聞き逃したか、そうも思った。けれど光信は確かめるよう再び同じ言葉を口にする。
「その稚児が、我が家に参ります」
 さあ疑え、とばかりににんまりと光信は笑っていた。
「なに……」
「毎晩毎晩、参るのですよ」
 言って頬をこする。面窶れは、恐怖のためばかりではない。ようやくにして瑞治は知る。
「そなた……」
「私は恐ろしい。きっと魔性の物、そうでなければ物の怪に違いない。どうか、どうか……」
 途端に生気を取り戻したよう、光信は平伏する。それをじっと見ていたのは瑞治ではなかった。竜胆の君が唇を結んで彼を見ていた。
「そなた」
 ゆっくりと紡ぎだした言葉に光信は目を上げた。すがるような目を竜胆の君に向ける。けれど君はそのようなことを求めてはいなかった。
「稚児が怖いのか」
 ぎりり。握り締めた光信の拳が鳴った。
「恐ろしゅうないはずがありましょうや。相手は魔性。我が身はしがない衛士にございました。源何某様のよう腕に覚えもなく、高野山の僧のごとき法力もございません」
「なぜ怖い」
「相手は……」
「魔性。異形。鬼。物の怪。それのなにが恐ろしい。言ったね、私は。瑞治は瑞治、と。稚児は稚児ではないのか」
「加茂様は生身の人にございます。末裔と呼ばれはしても、鬼ではない。そう仰ったのはあなた様」
 きっと上げた視線の強さ。けれど竜胆の君は目をそらしもしなかった。
「私は鬼を……知っていたよ」
 呟き声に夜のしじまが圧せられ。
「知っていた、と思うのだ。定かではない。けれどやはり私は恐ろしくはなかったように思う」
「詮無いことを」
 それを光信に話す無駄を知るのは瑞治。互いにだとてわかりはしない先つ世の思い出。いまここで光信に話して何になろうか。
「まったく」
 かの君は微笑ってうなずく。光信は、聞いてなどいなかった。否、聞きはしていた。けれどわかりはしない。
「あなた様がどうあろうとも、私は恐ろしいのです。どうか、どうか」
 再び平伏した光信に、もうかける言葉はなかった。諦めたようちらり、瑞治はかの君に目を向ける。うなずいたのを見届けて立ち上がり、戻ったときには数枚の紙と筆を手にしていた。
「ひとつ聞く」
「なんでござりましょうや」
「そなたは稚児をどうしたいのだね」
 瑞治の言葉にはっと身をすくめた。
「どう……とは……」
 疚しげに目をそらすのは、なぜか。急にまずくなった酒を口に運びつつかの君はじっと光信を見ていた。
「滅ぼしたいのか、封じたいのか。追い払いたいのか」
 そんな光信を追い詰めるよう、瑞治の言葉は鋭い。射竦める視線に小さくなった光信は、けれど意を決して顔を上げる。
「お……追い払うだけで充分にございます」
 その言葉にほっと息をついたのは誰あろう、竜胆の君。ゆるりと杯を置いたかの君を、不思議なものでも見るような目をして光信は見つめてしまい、いまさらながらに目をそらす。
「そうか……」
 ひとつうなずき瑞治はさらさらと筆を走らせる。なにを記しているのか竜胆に君には見えなかった。たとえ見えたとしても何事かはわからなかっただろう。
 複雑な文様と、呪言のようなもの。口に呟いているのは、陀羅尼か真言か。その瑞治の姿を祈るような面持ちで光信が見ていた。
「これを戸口に窓に、張るといい。陀羅尼は知っているかね」
「はい……」
「ならば、夜通し唱えていることだ。三日経ったら、様子を見に行こう。夜の間、きっと開けてはいけない」
「ありがたや……ありがたや……」
 滂沱とばかり、光信の目に涙があふれた。滴り落ちる大粒の涙に札を濡らすまいとあわてる仕種の滑稽さ。けれど笑えはしなかった。
「あとはそなたの心の強さ」
 渡した札を包んでやろうと真新しい紙を一葉取り出しては包んでやれば、それにも光信はくどくどと礼を言う。
「心の……」
 言葉にようやく気づいたよう、言ったときにはすでに札は光信の手の中に戻されていた。
「稚児はそなたを呼ぶだろう」
 瑞治の声にこそ、ぞっとしたよう光信は青ざめる。それから激しく首を振る。
「決して開けませぬ」
「開けさせようとするだろう」
「決して」
 唇を噛みしめ光信は言う。それにうなずいた瑞治はどことなく上の空のようにも見えた。
「では、三日の後に会おうぞ」
 あるいは会うことはないかもしれない。言いつつもぼんやり瑞治は思う。
 そんな彼の心の内など知らぬげに、感謝の涙を滴らせたまま光信は札の確かさを感じるかに撫でさする。
 何度もうなずき、押し頂くよう札を捧げ持って立ち去った光信の後姿にぽつり、瑞治が言った。
「あの男は助かるまいよ」
 死相を見てしまった。かの君の目には、人の姿に見えただろう。けれど瑞治の目に見えた光信は、すでに死人だった。
 なにかの縁で手を差し伸べる機会を得た。でき得ることならば救ってやりたい。そう思いはするけれど、こうして無理を悟ることのほうが遥かに多いとも思う。
「鬼の末裔だものな……」
 我が身を蔑む言葉。かの君はそれをどう聞いたか。はっとして口をつぐんだ。
「鬼だろうか、末裔だろうが、私は瑞治がよい」
 黙って立ったまま庭に目を向けていた瑞治の背に投げられた言葉。仄かに胸のうちが温まる。
「死なないことが救いとは限りはしまいよ」
 振り返った瑞治にかの君は笑い、しどけないなりのまま酒をあおった。
「そなたのほうが、陰陽師は向いているやもしれんな」
「冗談ではない。煩わしい」
 さも嫌そうに言い、杯を差し出す。酒を満たしつつ瑞治は思う。やはり光信は死ぬだろう、と。




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