それでも男が落ち着いたのは出された酒を一杯二杯と重ねた後のことであった。 酒に酔った体が火照って暑い。それでなくとも暑い晩だった。三人は中に入ることをせず、簀子に座って酒を飲んでいた。男は居心地が悪くてならない。 そう思ってはようやく人心地がついたのだと知る。彼らはきっと物の怪などではないのだ、と信ずることができ始めた。 「さて、いったい何があったか話してくれなくては」 助けることもできない、そう陰陽師らしき男は言った。薄く唇に浮かんだ笑み。安心したはずなのにぞっとする。 「そなたは何者だね」 はっとした。いまだ名乗ってもいなかった。そのことを恥じはするけれど、しかし彼らとて何者なのだろうか。 「こちらはある高貴な方ゆえ、名を憚る」 そんな疑問を感じたのだろう、ちらり、陰陽師らしき男は傍らの男を見て言った。しどけなく着崩した直衣姿で彼は苦笑する。ふいと顔をそむけては今更ながらに扇で顔を隠して見せる。 「あなたの名を伺っても……」 恐る恐る問う男に陰陽師は仄かに微笑う。あるいはその先の展開が見えていたのかもしれない。 「加茂瑞治という」 己が名乗った途端、息を飲む音が聞こえた。思ったとおりのことに瑞治は嫌そうな顔をしたのみ。顔を強張らせたのはもう一人の男。 「竜胆の君」 たしなめるよう瑞治は言った。男には、それが聞こえてはいなかった。ただ呆然と陰陽師を見ている。 「鬼の――」 そして竜胆と呼ばれた男の視線に気づいては言葉を止めた。 「末裔よ。この男はな。ともかくそう、呼ばれていると言う」 鼻で笑って顔をそむける。今度のそれは嫌悪だった。 「すまぬな、瑞治。面倒の上に煩わしい者を連れてきてしまった」 「なんの、そなたの気まぐれには慣れておるさ」 「気まぐれだと」 「おうよ、気まぐれさ」 からからと笑い、瑞治は気にした風もない。とっくに鬼の末裔呼ばわりは慣れてしまっている。もっとも、それだからこそ竜胆と呼ばれて男はそれを嫌っているのだが。 「申し訳ない……」 両手をついていた。己にではない。けれど竜胆の君とやらにそう言って見せる姿が自然なだけ、余計気が咎める。 「気にしてはおらんよ」 言った瑞治にこちらは気にする、との気持ちもありありと竜胆の君はぱちりぱちりと扇を鳴らす。それに瑞治は苦笑しながら杯を取っては酒を注いだ。 「左兵衛府の衛士でございました、光信と申す者にございます」 再びゆっくりと光信は頭を下げた。そのくたびれた狩衣姿を竜胆の君はじっと目に止める。それから、ついと立っては中へと消えた。 「あのお方は……」 「気にせずともよい」 「ですが」 「怒ってはおらんよ。ただ、少し哀しいのさ、あの方は」 「哀しい……」 「この俺が鬼の末裔と言われるたびに嫌な顔をする。生身だと知っているからな、あの方は」 「申し訳……」 唇を噛んだ。高位の貴族を怒らせたらしいことにではなく、己の浅慮が誰かを傷つけたことこそを悔やむ。 「衛士であった、と言うのは」 「あることがあって以来、辞してございます」 「そうか」 今は問うまいとばかりなにも聞かずにうなずいた陰陽師に、涙さえ出る思いだった。 「使え」 いつの間にか竜胆の君が立っていた。慌てて顔を上げれば手に柔らかい布を持っている。 「額。目障りだ」 厳しい言葉。けれど彼の口許にはかすかな笑み。光信はおずおずと手を伸ばし布を取る。いままで使った例もないような柔らかさだった。 「どうした」 そのまま固まってしまった姿を竜胆の君に笑われた。使っていいものか、悩む。困り顔を瑞治に向ければうなずかれ、光信はそっと額の汗を拭った。 「酒がないの、気の利かぬ陰陽師だ」 笑って彼は言い、軽く手を打てばどこからともなく現れた美しい女房がたっぷり酒を満たした瓶子と肴を置いて去る。 「瑞治」 ねだるような声音で彼は杯を差し出す。 「酔っておるな」 「誰がだ」 「そなた以外に誰がおる」 言いつつ瑞治は酒を注いでやる。 光信は惑う。高貴の方、そう言った。けれど彼らの間に漂うものは高位の貴族と陰陽師のそれではない。 そして思い出す、確かかの君は「通い男」そう言ったはず、と。なるほどならば無粋をしているのはこの己、と言うわけか。そう納得して光信はいつの間にか注がれていた酒をあおった。 「さて、話してくれるね」 瑞治の視線に射竦められた気がした。心の内で光信は誓う。決して彼らのことを口にしたりはしない、と。それが聞こえでもしたよう、瑞治が笑った。 「そのまえに……ひとつ伺ってもよろしいでしょうか」 そっと竜胆の君に視線を向けた。じっと見ることなどできなかった。気後れがする。高貴の方、そう聞いたせいかもしれない。そう聞かなくとも不躾に見ることなどできなかったかもしれない。 「聞くだけなら好きに。答えるかどうかはわからぬよ」 ふっと彼は笑い、先ほど瑞治が言った哀しみとやらが嘘のよう。しかしそれはあるのだろう。彼のたたずまいにまとわりつくどこか寂しげな気配。光信は目の端でそれを見ていた。 「あなた様は、この陰陽師殿の、噂が恐ろしゅうは……ないのでしょうや」 かの君の、視線を感じていた。光信は言ってしまった己を後悔などしなかった。これを聞きたいが為、もしかしたらこの答えを聞くためにこそ今夜、都大路でかの君とであったのかもしれない。 「どうぞお怒りにならず、お許しを」 答えぬ彼に懇願する。静かに扇を使う音が聞こえていた。 「なぜ恐ろしい、と」 不思議そうな声だった。同じよう哀しい声だった。光信は、知らず上げてしまった目でしっかりと彼を見ている己に気づき目を伏せる。 「鬼の末裔と呼ばれはしてもこの男は鬼ではないよ」 「ですが。それでも」 「もしもこの男が……鬼であったとしても恐ろしゅうはないな、きっと。聞きたいのはそれであろ」 光信の言葉を遮るよう彼は言い、莞爾とする。黙っていた瑞治はやはり、言葉を挟まないまま彼の杯を満たした。 「恐ろしゅうは」 「ないよ。瑞治は瑞治だもの。違うか」 「彼は、彼――」 言葉に打たれた。ぎゅっと膝の上で拳を握り締め染みとおる言葉に身を浸す。けれど受け入れるまいとばかりに首を振る。 「そなたの悩みは、それかね」 我と我が身が二つになってしまいそうな困惑に、陰陽師の声が聞こえた。知らずうなずいている。違う、と思う。そうだとも思う。 「なにが、あった」 まるで問い詰められてでもいるようだった。けれど瑞治の声は静かで、とてもそのようには聞こえない。 そう感じるのは、己が心が震えているせい。光信はきつく瞼を閉ざし、決心してはゆっくり開けた。 「冬のことでございました」 衛士は夜通し宮中を警護する。篝火を焚き、宿営するのだ。退出したのはもう夜が明けてからのことだった、そう光信は言う。 「なにとはなしにいつもとは違う道を通る気になりました」 下級の官吏である。家は都のはずれだった。どこを通っても同じように遠い。 「散歩が、好きなのです」 照れたよう、光信は言う。瑞治はただ微笑んだだけで何も言わない。かの君にいたっては首を傾げもしなかった。 「朝の都はよいものです。どこからともなく聞こえてくるざわめきが、好きなのです」 照れつつもいっそとばかり光信は言い、彼らの顔を窺った。やはりそのような時間に一人歩きをしたことなどないのだろう、竜胆の君は首を傾げている。意外にも瑞治はわかる、とうなずいていた。 「瑞治にはわかるのか」 「わかるよ」 「なぜ」 「……とは」 「だってそなたの朝は遅いじゃないか」 言って笑うかの君に、瑞治は心外だとばかりの視線を向ける。 「それはそなたがそう思っているだけのこと。陰陽師の朝は早いよ」 「知らなんだな」 嘯いて笑う竜胆の君の朗らかさに光信は驚く。それに気づいたよう、いたずらにかの君は光信を睨んだ。 「申し訳……」 良いとも言わずかの君は軽く扇を鳴らす。それから無造作に瓶子を取っては光信の杯を満たした。 押し頂くように酒を受けた。瑞治から言われなくともその立ち居振る舞い、仕種の一つ一つがかの君を高貴の貴族と知らせている。その君が、このような下賎な者に手ずから酒を注ぐとは。 ありえないことに光信は困惑し、同じほどに感激した。この陰陽師の屋敷ならば、そのようなこともあり得るのかもしれない、ふと思った。 瑞治は身分にそぐわないことをしてのけたかの君を微笑ましげに見ている。それから無言のまま瓶子を取れば莞爾と竜胆の君は笑った。 「なにがおかしい」 「酔っていると言うたに」 「言うたわ」 「なのに、飲ませる」 和んだ目許が艶に染まる。それから一息で酒を干し、今度は手酌で杯を満たす。そのまま瑞治の手に押し付けた。 「私ばかり酔わせるのは、ずるい」 本当に酔っているらしい、と瑞治は笑う。この厄介な客さえなければこの姿を目で楽しむのも悪くはあるまいとも思うのに。 「それで、どうしたんだね」 かくなる上は早々と済ませてしまうに限る。それてしまった話を戻そうと瑞治は彼を促した。震える指先で杯を持ったままの光信ははっとして顔を上げる。その拍子に酒が指を濡らした。 慌てて思わず唇を指に近づけ酒を舐め取る。それからようやく情けない仕種に気づいては一人顔を赤らめ話しを続けた。 |